仕入屋錠前屋55 縋り付くその手をいま振り払って 5

「アキ……」
 部屋の真ん中に突っ立ったままのレイは、松葉杖をついていた。先ほど聞こえた床に硬いものが当たる音、あれはもしかしたら松葉杖の音だったのだろうか。アルミのそれは、昔よく目にした木製のものより随分スマートだ。
 レイは中肉中背だが、そんなものを持っているせいか妙に小さく見える。それとも、こちらを見つめる目の中にある後ろめたさが、そう見せているのかも知れないが。
「どうも。帯留は、どうだった」
「え——あ、帯留——あの、すごく喜んでたよ。珊瑚の細工なんか完璧だって。前のよりいいくらいだって」
「そうか。そりゃよかったな」
 レイから目を逸らし、ゆっくりとソファに向かう。詰めていた息を吐いた音が微かに聞こえたが、振り向かなかった。
「その美人とは、もう寝たのか?」
「……何でそんなこと聞くんだよ」
 ソファに沈み、テーブルに両足を載せて訊ねると、レイは面食らったような顔をし、視線を逸らす。恥ずかしがっているわけではないその瞳の動きに頓着せず、秋野はさらに語を継いだ。
「帯留、つけてやったか。それとも見せただけか? 日本人の女ってのは、ドレスより和服のほうが断然色気があるよな。だから多いんだろ、和服の人妻とかっていうのが」
「アキ」
「脱がし難いように見えてそうじゃないのは、ありゃ何でだ? まあ、そういうところがたまらないっていうんだろうけどな」
「アキ、俺……」
 松葉杖を握り締めるレイは、操る糸が切れる寸前の木偶のようだった。強張った童顔の中で見開かれた目が秋野を見つめ、四肢はぴくりとも動かない。
 自分がどんな顔をしているのかは分からない。ただ、徐々に顔色を失っていくレイを見ていれば、少なくとも見て楽しくなる表情でないことはよく分かった。
 こつり、と杖が床を突き、レイの身体が前傾する。杖を使ってゆっくりと進み、レイは壁際のデスクまで移動した。ソファに座ろうとしないのは、近付けば何かされると思っているからか。
 それは取り越し苦労だと言ってやろうかと思ったが、残念ながら秋野はそこまで親切ではないし、気分も最高とは言いかねた。
「チハルが来たんだ。アキに、今度こそ仕事で組もうって言うんだ、って」
 立ったままデスクに凭れ、レイはか細い声でそう言った。蒼白になった顔を歪ませ、ごくりと唾を飲み込んで口を開く。
「俺がこんな仕事してて、アキとも凄く仲良しってわけじゃないこと知ってるから、来たんだろ。どうせ俺が幾ら下手に出たってあいつは来ない、だからアキの親しい人の名前と連絡先を教えろ、って」
「それで哲か」
「俺だって断ったんだよ!」
 レイが怒鳴り、松葉杖を壁に叩きつけた。ドアが開き、隙間から巨乳の受付嬢が恐々顔を覗かせたが、レイに目顔で促されてあっという間に引っ込んだ。所長と楽しむのは歓迎だが、彼のトラブルと係わりたくはないというわけだ。レイは苛々と松葉杖で床を叩き、女が引っ込んだドアの方を見たまま吐き出した。
「別に親しくないから知らない、教えられない、って言ったんだ。そしたらあいつ、レンチなんか持ってて——脚折られてさ……言わなきゃもう一本もなんて脅されて、仕方ないじゃないか! 利香ちゃんのこと、チハルは知らなかった。言えばよかったのかよ、利香ちゃん攫えってさ……アキは佐崎くんのこと、すごく大事にしてるように見える。でも、そうじゃなく見えるときもあるんだよ。それに彼はあんなふうだし、だから、他の誰かよりいいと思ったんだ」
「別にお前の判断に文句をつけようとは思わない」
「それ、嫌味?」
「違う」
 本当に、嫌味のつもりはなかった。レイが秋野の内心を推し量るように目を眇めた。
「利香でなくてよかった」
 レイが、唇を舌で湿す。何を言おうとしたのか、口に出しかけた言葉をレイは飲み込み、秋野の顔を見つめて顔を歪めた。
「哲より、利香の方が余程大事だ。利香じゃなく哲でよかったって、そう思うよ」
「アキ……」
 色の抜けた顔色に比して、血走った目がやけに赤く見える。秋野から目を逸らし、ドアのレバーを睨みつけたまま、レイはデスクの上のメモパッドを捲り始めた。美しいフォルムの電話に手を伸ばし、受話器をゆっくりと持ち上げる。まるで何十キロもある荷物を持ち上げるような緩慢さは、スローモーションを見ているようだ。
「お前が来たら、連絡寄越せって」
「携帯なら、電源切れてるぞ」
 散々アナウンスを聞かされたことを思い返して言うと、レイは俯いて首を振った。あの携帯は一度きり、延々と掛けさせてイラつかせるためだけのものなのか。舌打ちした秋野に一瞬目を向け、レイは唇を引き結んでダイヤルし始めた。
 押し付けるようにゆっくりとボタンを押すレイの手元を見つめたまま、秋野は煙草を取り出した。
「レイ」
 レイは答えず、十一回同じ動作を繰り返す。
「チハルが哲の手を潰したら、代わりにチハルの首をへし折ってやる」
 顔を上げたレイの目を見つめながら、秋野は煙草を銜え、奥歯でフィルターを噛み潰した。
「お前も、片脚くらい覚悟しろ」
「……歩けなくなるじゃないか」
 低く掠れた声にかぶせるように、秋野は口元を歪めながら吐き出した。
「知ったことか」
 レイの手が震えているのか、電話のコードがゆらゆらと揺れる。
 秋野は銜えた煙草のフィルターをきつく噛み、結局は火を点けることなく灰皿に押し付けた。力任せに捻り潰した脆弱な物体は、まるで身体のどこかの骨のように、真ん中から二つに折れた。

 

 廃業したラーメン屋は、今もまだそこにあった。
 昔、チハルがこの辺りをうろついていた頃はまだ店は辛うじて開いていた。もっとも開いているだけで、客がいた記憶は秋野にもない。薄汚れ、皺になった暖簾が風に吹かれてる有様は、まるでそこだけ違う世界から建物ごと移動してきたように浮いていたものだ。
 両側を雑居ビルに挟まれた建物は、尋常でなく間口が狭い。この辺りが開発された折、立ち退き料の値上げを待って居座ったらそこだけ残されてしまったらしいとか、色々な噂はあったがどれが本当か秋野は知らない。油と排気ガスで汚れた白壁はもはや何とも表現し難い色合いを帯びて、周囲の明かりに照らされていた。
 建てつけの悪い引き戸を開け、店内に入る。蛍光灯が切れているらしく、中途半端な暗さだった。座面が破れたスツールの上に腰掛けてやたらと甘い香りの煙草を吸っていたのは、またしてもチハルではなかった。
「……一体どれだけ引き回せば気が済むっていうのかね、あの男は」
「アキか」
「疲れた」
 フリオ爺さんは、ラーメン屋の店主とは似ても似つかない。確かこの店をやっていたのは、年寄りではあったが背が高くて太った男だ。フリオは男にしては小柄で、鶏ガラのように痩せている。皺だらけの顔は浅黒く、日本人の肌の色とは明らかに違っていた。
 レイがチハルに連絡を取り、秋野が指図されるまま訪れた場所には違う男が待っていた。男についていくとまた別の男、そしてまた女、とあちらこちらを移動させられ、秋野はすっかりげんなりしていた。
 もういっそ哲のことなど見捨てて帰ろうか、と思ったりしないでもないが、そうして万が一本当に哲の手が潰されたら。そう思えば胃の底がひやりとし、結局指図どおりに歩き回った。
 秋野を案内する男女は何れも金を貰っただけの赤の他人で、問い質そうが何をしようが、知っていることなどないのだから付いていくほかない。然るべき所に連絡を取れば、チハルの居場所などすぐに割れる。だが、そこまで切迫した状況ではない以上、大人しく従っておくのが一番無難には違いない。
 どこまでやればチハルの気が済むのか、秋野にはよく分からない。昔からそうだ。秋野と親しくなりたがり、そのくせ自分から壁をこしらえて秋野を拒む、それが秋野の憶えているチハルだった。
「あの子が来てな。ここに座って待っとればお前が現れると、金をくれた」
 フリオは質屋も兼ねた小さな骨董品店をやっているが、店の状態はこのラーメン屋とそう変わらない。いつから、どういう事情で日本にいるのかは知らないが、秋野が子供の頃にはもうフィリピン人の集まる界隈に薄汚れた店を構えていた。
 誰にでも好かれるタイプではないが、秋野はフリオが好きだった。尾山の家に引き取られてからも折を見ては遊びに行ったものだ。骨董は子供には格好の遊び道具だったし、フリオは懐く秋野に無愛想に接しながらも、不器用な優しさを垣間見せた。
 フリオの声はしわがれ、早口のタガログ語は酷く低くて聞き取りにくいが、これはいつものことである。
「チハル、あんたんとこに出入りしてたのか」
「あれはお前の後ばっかり追っかけてる。お前が来ないときを見計らってよく来てた」
「つっかかってばっかりくるくせに」
「羨ましいんだろうさ」
「俺が? 何で」
 フリオの足は床に届いていなかった。隣のスツール——座面からは詰め物がはみ出ている——に腰掛けて煙草を取り出す秋野にライターを投げて寄越し、フリオは何度か咳き込んだ。
「あいつのほうが余程恵まれてるだろ。両親揃ってて日本国籍持ってて、まともな教育受けてさ。俺は私生児で、この国には存在すらしてないのに。挙句の果てに銃の密売、最後には人殺しだ。羨ましがられる要素がない」
「あの子は自分が恵まれてるとは思っとらん」
「そりゃ、価値観は人それぞれだけど」
「日本人からは外国人、と呼ばれる。わしらからは日本人と呼ばれる。だからあの子は自分が疎ましい。あの子のために寧ろフィリピン人のコミュニティから遠ざかろうとした両親の目を盗んでいつもあの辺りに来ていたのは、どうしてだと思う。日本の子供たちに爪弾きにされた、あの子がそう思い込んでいたからだ。半分ずつ違う血を自分に与えた、両親を恨んでいるからだ。お前の父親のように子供を捨てて消えることがどれほど罪深いか、自分の両親がどれだけ自分を愛しているのか、あの子にはどうしても分からんのだ」
「…………」
 チハルは父親によく似ているという話だった。肌の色も目の色も日本人と変わらず、秋野の目のように、他から浮き上がる要素は何もなかった。少なくとも、外見上は。
「誰から何を言われようと、拠って立つ国がなかろうと、お前は動じず一人で立っている。あの子にはそれが羨ましくて、どうにもならないくらい妬ましい。疎外感は必ずしもあの子の勘違いではないが、真実でもない。俺が幾ら言っても聞かなかったよ」
「俺は、あいつと親しかったことはないのに」
「それはそうだろう。遠くからお前に憧れていただけで、おまけに憧れを好意に出来ない人間なんだ、あの子は」
 フリオの煙草は殆ど口をつけられないまま、灰になっていく。閉店した店に灰皿はない。フリオは灰を床に落とし、か細い溜息を吐き出した。
「何故あんなに捻じ曲がったのか、あの子にも分からんのだろう。お前のようになりたいと思うからお前に絡む。お前が薬を扱わないっていうのは、有名だ。あの子がそれを知らなかったわけはない、アキ」
「——それにしちゃ、しつこかった」
 秋野は煙草を床に落として踏みにじり、拾い上げた。カウンターの向こうの、乾ききったシンクに吸殻を投げ入れる。放物線を描いた吸殻が軽い音を立ててシンクに落ち、排水溝に向かって数センチ転がった。
「自分にだけ例外を認めてくれたら、お前の特別になれる、そう思ったんだろう」
「……なんで」
「あの子は誰かに助けて欲しいんだよ。縋り付いても、その重さで自分も沈むというのに」