仕入屋錠前屋55 縋り付くその手をいま振り払って 4

 どこかで、もしかしたらと思ってはいたのだ。
 よく眠れず、夜中に起き出し何度か電話をかけたが、やはり哲は出なかった。携帯電話会社の音声が、お客様のおかけになった電話は通話ができない状態だと何度も言い募る。仕舞いには繰り返される無機的なアナウンスに向かって悪態を吐いたが、血の通わない彼女に通じるわけがなかった。
 秋野に一言もないのはあり得るとして、仕事の無断欠勤は哲の主義ではない。そう思えば進んで姿を消したとは考えにくいが、危ない仕事で誰かに狙われたという話もきかない。
 久しぶりに戻ってきたという男の名前を思い出し、まんじりともせずに夜を明かした。あいつが哲を知るわけはない。だから、多分関係ないと、機械音声のように胸のうちに呟きながら、気がつけば空は白んでいた。

 

「久し振りだなぁ」
「……チハル」
 楽しげな声は、三年以上は聞いていないチハルの声だった。
 自分の吐いた煙草の煙がやたらと目に沁みた。
 日が昇り始めた頃にようやくうとうとし始めて、浅い眠りを繰り返した。中途半端に眠ったせいでだるい身体を無理矢理起こしたのは昼過ぎで、ぐらつく頭を振ってシャワーを浴び、食べる気のないトーストが目の前で冷えていくのをぼんやり眺めながら煙草を吸った。灰皿から零れ落ちそうな吸殻の山に更に一本を追加して、上から捻り潰していたら電話が鳴った。
 ゆっくり手に取ってみたが、液晶画面に表示された番号には見覚えがない。末尾がゾロ目。どうでもいいことを思いながら耳に当てた、そこから聞こえてきたのはチハルの声だった。
「その節はどうも。お陰様でようやくほとぼり冷めたみたいでさあ。戻ってきたぜ」
「そりゃ良かったな」
「相変わらず冷たいな、アキ。歓迎の言葉はねえのかよ。なんつーかこう、感動して涙が出ちゃうようなさあ」
 はしゃいでいるようなチハルの高めの声に眉を寄せ、秋野はテーブルの上の煙草の箱を引き寄せた。
 箱の中に残っていたのは一本で、何となく気分が悪い。空になった箱を捻り潰してテーブルに叩きつけ、青い百円ライターで火を点けた。
 渇いた口の中は嫌な味がする。まるで美味くない煙草を奥歯で噛みながら、秋野は電話に向かって低く呟いた。
「もううろうろしていいのか。征道会のお兄さんに睨まれてるんだろう」
「ねちっこい男だったんだけどな、任された仕事で何かポカやったらしくて今は雑魚よ雑魚。そんで俺も帰ってこれたってわけだ。なあ、アキ」
 チハルは喉の奥を鳴らして笑いながら猫撫で声を出す。なんとなく背筋が寒いと思いながら、秋野は煙を吐くふりをして溜息を吐いた。
「再会を祝おうぜ。出てこいよ」
「用は何だ」
「用がなきゃ会えねえの? 友達だろ」
「そうなのか」
「薄情者」
「切るぞ」
 バックに風らしき音がする。戸外なのか、声は鮮明だが、風が送話口に吹き付けるのか聞き取りにくい部分があった。
 予想は外れたのか、そうでないのか。だが、チハルが何も言わないうちは、敢えて尋ねても手の内を見せるだけだ。
「そんなつれなくすんなよ。本当に薄情だよな、お前はさ。お上品なツラしてよ、誰にでも上辺は優しい」
「俺が薄情なのがお前に関係あるのか」
「会いに来いよ。昔話でもしようぜ。お前のお友達も一緒にさぁ」
 跳ね上がった語尾に、秋野の眉間に皺が寄った。左手で煙草を摘み、灰を払う。ばらばらと崩れていく穂先が一瞬明るく明滅した。
「仕事仲間なんだって? 今は大体こいつとつるんでるんだってなあ。レイが言ってたぜ、アキ」
 わざわざレイの名前を出すことにチハルの悪意を感じて、秋野は目頭を指で揉んだ。
「何だそれは」
「お前は俺には会いたがらねえだろうなと思ってさ。俺のこと嫌いだろ? だから、お優しいお前が登場せざるを得ないスペシャルゲストが欲しかったんだよ。本当は女がよかったんだけどな、レイが、アキは前の女に振られて以来決まったのは作らない主義になったんだ、なんて言うしよ。普段親しい中じゃそいつしか名前も連絡先も知らないってんで、まあ友達でもいいかって、妥協したわけ」
「そんなに知り合いが少ないわけじゃないんだがな」
「だからぁ、単なる知り合いじゃお前来ないだろ。なあアキ、お友達見捨てるほど薄情じゃねえだろ?」
「一体、何をどうしたいんだ。チハル」
 自分でも驚くほど冷たい声が出た。その冷たさが何に対するものなのかは分からない。チハルは相変わらず楽しげで、歌うように囁いた。
「俺に、俺が欲しいってものをまわしてくれよ。ああ、ただでなんて言わねえよ、きちんと金は払う。俺はお前にたかりたいんじゃない、ビジネスしたいだけだ。クスリはいけませんなんて説教しねえで売ってくれ。な? 簡単な話だろう」
「だから、クスリと人間以外なら——」
「錠前屋なんだってな。それなら、指は何より大事だろ?」
 それだけ言って電話は切れた。着信履歴で掛けなおしてみたが、電源が切られているようで通じなかった。
 チハルは並外れて暴力沙汰に強いわけではない。真っ向から哲と殴り合えばあっさり負けるに違いないが、昔からチハルが一対一の腕力で何かを解決したことはない。
 汚い手も平気で使う。相手が強ければ道具を使う。数を恃む。背後から襲う。そしてそれを恥としなかった。だから嫌われ、遠巻きにされるのだ。それが分からないから、自分の周りに壁をめぐらし、近付くものすべてを遠ざけ、傷つけ、罵ってそして泣く。チハルはそういう男だった。

 

 これは偶然以外の何物でもないが、チハルが使った携帯は、哲の携帯と同じキャリアのものだった。
 お陰で昨日から電源が入っていないことを告げるまったく同じ音声を延々と聞く羽目になった秋野は、彼女の一言一句、ほんの僅かなブレスのタイミングまで完全に再現出来るような気分になった。その忌々しい音声応答と同じくらい澄まして無機質な声でただいま来客中です、と言い、女は営業用の笑みを見せた。
 ついこの間来たときに受付にいたのとはまた違う。欧米人のような顔の彼女は、必要以上に深く切れ込んだVネックから胸の谷間を惜しみなく見せている。受付というよりは女教師か何かの役どころが得意なAV女優という雰囲気だった。待合のためにパーティションで仕切られた場所で彼女が出してくれたお茶を啜る。川端の淹れてくれたものより五倍は濃い。前の受付嬢もそうだったが、お茶を不味く淹れられること、という応募資格があるとしか思えない味に思わず眉間に皺が寄った。
 仕切りの端から僅かに飛び出す観葉植物の葉の先と、壁にかかったエッチングの小品が午後の陽に当たって白っぽく光っている。それ自体がデザイン画のようで、秋野は一瞬無心で切り取られた白い空間を眺めていた。
 奥のドアが開く音がして、レイの声が聞こえてきた。低く疲れた調子の女の声、女のヒールか何かが床を叩く音。お願いします、と掠れて震える声が何度も繰り返す。
 夫の浮気調査か、はたまた家出息子の捜索か。調査事務所を訪れる客の大半は、やたらと人には言えない事情を抱えているのだろう。幾ら事情が似通っていても、細かなことはすべて違う。物を仕入れればいいわけではない、関係者すべての思惑と感情の坩堝の中から事実を拾い集めて回る、秋野には到底我慢できそうもない仕事だった。やってやれないことはないだろうが、そんな忍耐は自分にはない。
 レイは変人だし、悪人とは言えないが善人でもない。嫌いではないが、合わない部分も多いから、好きでもない。だが、この仕事をしているということに関しては尊敬の念すら抱く。仕事の上でさえ、他人のことなど構う気にはなれない自分には決して勤まらないと思うからだ。
 埒もないことを考えていたら視界にいきなり受付嬢の顔が現れて、秋野は手に持ったままの茶碗を落としそうになった。
「お会いになるそうですわ」
 そうですわ、か。
 レイと並べばまさに生徒と女教師、という具合だろう。多分その辺りも見越して雇ったに違いない、巨乳好きの幼馴染に呆れを通り越して感心しながら、秋野は立ち上がり、女の脇を抜けて事務所の奥へ足を向けた。擦れ違いざまに香った女の華やかで濃厚な香水と、わざとらしく押し付けられた弾力ある胸の感触に苦笑が漏れる。
 まったく、どうしようもない。
 いつもと同じように事務所のドアに向かいながら、誰にともなく、秋野はそう呟いた。