仕入屋錠前屋55 縋り付くその手をいま振り払って 3

 哲と連絡が取れなくなったのは、翌日の昼だった。用事があって電話をしたが、携帯は電源が切れていた。
 哲が秋野の電話に出ないのは、取り立てて珍しいことではない。虫の居所が悪いとか面倒だとか、気分にもよるし、忙しくてもそうだ。特に気にもせず、その時はすぐに哲のことは忘れてしまった。用事を済ませ、夕飯を取って、哲のバイト先に足を向ける。休憩の時間を狙って寄ってみると、裏口で服部というひよこ頭の青年が煙草を吸っていた。
「あっ! 秋野さん!」
「どうも」
 服部は秋野に気付いて、ぼんやりしていた顔を途端に強張らせた。銜えていた煙草を右手で取り、こんばんは、とお辞儀をする。親の躾の賜物だろう、いつ見ても礼儀正しい好青年だ。
 しゃがんで地面に煙草を擦り付け、服部は立ち上がって秋野を見上げた。
「佐崎さん、どうしちゃったんですか」
「どうしたって、何が?」
「無断欠勤してるんです。佐崎さんってそういうのすごくちゃんとしてて、今までこんなことなかったって、店長が心配してるんです。電話にも出ないし……」
 向かいの店の裏口の電灯が、服部の山とぶらさげたピアスを煌かせた。よくもここまで開けたものだと感心しつつ、秋野は迷い犬のような服部に様子を見に部屋に寄ると約束してその場を後にした。
 教えられた服部の携帯に、部屋に行き、風邪で寝込んでいる哲を発見したと電話をする。高熱で起きられず、携帯も充電切れだと伝えると、ほっと小さい息が漏れた。哲が二、三日休んでもシフトには問題がないという。店長に伝えておくと請合う服部によろしくと言い、通話を切る。
 電話を切った秋野が見回す哲の部屋の何処にも、部屋の主の姿は見えなかった。

 

 出されたお茶はやけに色が薄い。しかし、これは決して歓迎されていないということではないらしい。この事務所の雑務全般を引き受けている女性は既に勤務を終えて帰った後だ。普段茶など淹れない男性が用意してくれたものだから、気持ちだけでも有難いと思うべきかも知れなかった。
「長居しませんので、お構いなく——」
「いやあ、そういうわけには。哲がお世話になってるからねえ」
 禿頭に二重顎、相変わらず絵に描いたようにオヤジである。不動産業を営む哲の知人は、こんな時間に事務所で一体何をしているのか、秋野が訪ねた時にはゴルフの雑誌を眺めつつ座ったまま空手でスイングをしている最中だった。いつ行っても仕事をしている様子がないと哲は呆れて言うが、そのようだ。
「玉井さんの淹れたお茶は美味いんだけどね、どうも俺がやっても」
「すみません」
 自分で啜り、不味いなあと笑って川端は頭を掻いた。年中着ているツイードのくたびれたジャケットは今日も健在である。どうやらディオールらしい、と、哲が国家機密でも明かすように言っていたのを思い出して笑いを堪えた。
「今日は、何か」
 川端は、相好を崩したまま問うてくる。話し相手がいるのが嬉しいのか、それとも別の理由なのか。
「そうそうところで、この間のお土産は気に入ってもらえたか……いや、ええと、何だ、まあそれはいいとして」
 どうやら後者だったらしい。川端は秋野と目が合うと慌てて言葉を濁し、悪戯が見つかった子供のような顔で笑った。
 以前川端が哲に猫じゃらしを持ってきたことがある。哲が川端との電話中にじゃれつく秋野を猫だと誤魔化したのが、どうやらばれていたらしいのだ。この食えない親父がどこまで何を察しているのか知らないが、彼が秋野に何も言わない以上、気にしても仕方がない。
「今日は家賃の支払日だって聞いてたんですが、哲は来ましたか?」
「昼間に来て、すぐ帰ったよ」
 川端は目をぱちくりさせて太い首を傾げている。何だか太った小動物のようで、親しみがわくような気もしないでもない。
「そうですか。いや、連絡がつかないんで」
「あいつ、電話に出ないときがあるからなあ」
「それは、川端さんより俺のほうが被害に遭ってると思うんですけど」
 川端は肩を揺らして笑う。
「まあ、そうだろうね」
「普段なら一日いないくらいで心配しやしませんが、バイトを無断欠勤してるので。今まで一度も無断で休んだことがないっていうもんですから。多分何もないんでしょうが」
 川端はソファに沈み込んでううん、と唸った。へたれて弾力性などまるでなくなったソファが彼の重みに派手に軋み、秋野は無意識のうちに尻を僅かに浮かしていた。
「まあ、高校の頃はしょっちゅう行方不明になってたからなあ……。今とは比べ物にならんくらい手がかかってね。明日の朝まで待ってみたらどうだい」
「そうですね——子供じゃないですし。多分そのうち電話も繋がるでしょう。じゃあ」
「そんな急ぎなさんな。ゆっくりしていきなよ」
 秋野が目を上げると、川端が太い眉を上げておどけてみせ、分厚い唇を笑みの形にした。若い女の子には間違っても好かれない容姿だ。しかし、哲がこの男を信頼するのは祖父の知り合いだからというだけではあるまい。
 煙草を取り出した川端に習い、秋野もポケットを探る。お互い自分で火を点けて、薄汚れた事務所の天井に向かってそれぞれに煙を吐き出した。
「——折角の機会だから訊くんだがね」
 続く言葉を選びかねてか、川端は忙しなく煙を吐き出し、テーブルの上に目をやった。
 ああ、来たか、と思いながら川端の視線を追って秋野もテーブルに目を落とす。応接セットのテーブルには、油性マジックで書いた字が消えかけたアルミの灰皿が載っている。剥げ、まだらになった字は果たして何と書いてあったのかは今ではもう分からない。
「あんた、哲とは、その、何だ——ああ、まったく、花嫁の父の気分だな」
「……あの猛犬が花嫁ですか」
「例えだよ、例え。娘がいないから、想像なんだが」
「はあ」
「諸手を上げて賛成はしないがね、反対もせんよ」
「あれが、言いましたか」
「いやいや、まさか。憶測の域を出てなかったんだけども、あんたの顔見たら、何ていうかね」
 灰皿に置かれた川端の煙草が一筋の細い煙を立ち上らせた。蜘蛛の糸、と言ったのは哲だったか。
「正直なところ、哲には可愛い嫁さんでももらって、子供の二人や三人作って幸せになって欲しいと思うんだよ。けどなあ」
「……」
「あいつな、あんたと会ってから、生き生きと危ないんだよ」
「何ですかそれ」
 思わず笑った秋野を見つめ、川端は顎を掻いた。
「いや、うまく言えないんだけどね。昔の哲はそりゃもう手がつけられなかったんだが、祖父さんと一緒に暮らすようになってからは落ち着いてね。なんていうのか、我慢してるっていうのとも、気が抜けたって言うのとも違うと思うんだが、淡々とした子になっちまって。そりゃあ、素質もあるよ。元々ああいう性格は性格だからさ。悪いこととは思わんし、どっちかと言えばあいつのためにはそういうほうがいいかも知らんね。でも、今のほうがあいつらしいと思うよ、俺は」
 川端と秋野の間に立ち上る煙が、川端の溜息に大きく揺れた。ふわふわと、体に害を及ぼすとは思えない儚さで溶け、空気に滲んでいく。一瞬白く霞んだ川端のネクタイの柄をぼんやり眺め、秋野はゆっくり口を開いた。
「俺は、あいつに優しくは出来ません」
「…………」
「女を扱うようには出来ないし、そういう感情を持ってもいません。守ってやることも出来ません。ただ、俺のせいで哲が傷ついたら、骨を拾って敵は取ってやりますが」
「敵討ちかい。物騒だな」
「まあ、そういうのが似合いってことだと思ってます」
 薄い茶の緑を眺めながら、掌の上で茶碗を弄ぶ。いかにも事務所の応接用、という安っぽい茶碗は茶の温度でほんのりと温かい。茶碗の底に溜まった細かい茶葉の滓が、茶碗を揺らすと煙のように舞い上がった。
「川端さんが、俺があいつの傍にいるのが嫌だっていうなら、考えますよ」
 秋野がそう呟くと、川端は意外そうな顔をした。
「ただ、約束できるのはそこまでです。いなくなると約束は出来ない。誰かに非難されてへこむほど俺は繊細じゃないですし、育ちが悪いから図太いし、あれが言うようにどこまでも図々しい。そうでなけりゃ、とっくに足掻くのも止めてます」
 秋野が唇を歪めると、川端は禿頭を撫でながら苦笑した。川端が銜え直した煙草の先から、細かな灰がズボンの上に幾つも散った。
「哲にとってどっちがいいとか悪いとか、それは俺には分からんし、勝手に決めたらあいつは烈火の如く怒るだろうね。強制されるのが何より嫌いな性分ってのは、幾つになっても変わらんもんで」
「——そうですね」
 相槌を打つ以外、秋野には何も言いようがなかった。
「あんたの話をしてるときとか一緒に居る時なんかの顔を見ると、昔のあいつを思い出すよ。おっかない顔に逆戻りしてるなと思うし、危ないと思うが、不思議と危うくはないんだな。地に足がついた、危なさっていうのか……何言ってるか、分からんなあ。分からんけど、なんていうのかな、哲があんたが大事だっていうなら、それでいいと思うんだ。世間様に何て言われようと、あいつは意にも介さないだろうからね」
 弛んだネクタイも皺の寄ったシャツも、だらしないという以外の言葉が見当たらない。お洒落でも何でもない着崩れは、しかし川端の本質を表すものではないと秋野は思う。どこか鋭さを持つ中年男は、出っ張った腹をさすりながら、ソファをぎいぎい言わせて脚を組む。
「——見ててやってくれ。誰かの庇護が必要な子じゃないが、いざってときに、あいつにはあんたみたいな歯止めが必要かも知れん」
 そんなことはそうそうないと思うんだが。
 そう呟いて微笑むと煙草を揉み消し、川端は音を立てて茶を啜った。