仕入屋錠前屋55 縋り付くその手をいま振り払って 2

 チハルが乱暴に吸殻を突っ込んだ灰皿から灰が舞い、テーブルの上に落ちる。
「灰飛ばすなよ」
 誰かからそう声が上がり、チハルの刺々しい声がそれに被さった。
「うるせえな、どこの綺麗好きなババアだ、てめえ。気になるなら自分で拭きやがれ」
「ちょっと言っただけだろ……」
 秋野は内心でやっぱり今日は来なきゃよかったと呟きながら、カウンターの隅で背を丸めた。
 しかし、幾ら縮こまってみたところで、混んではいるが狭い店だ。あっという間に見つかってしまうことは分かりきっている。
 秋野の長身はこういうときには酷く厄介な代物で、背が高いということは座高も高く、座っていても頭が飛び出てしまうのだった。
「アキ!」
 案の定、背後からチハルの大声が聞こえ、秋野はゆっくり振り返った。
「この間の話、考えてくれたか」
 チハルはそう言いながら、隣のスツールを引っ張り出して腰を下ろした。
「俺じゃない誰かに頼め」
 秋野がそう答えると、チハルの顔が途端に歪む。
 なかなかどうして綺麗な顔をしていると思う。中性的というか、男臭さの希薄な顔は、黙っていれば美人、と形容してもいい。
 しかし、幾ら顔かたちが美しくとも、内面は必ずと言っていいほど顔に出る。チハルも決して例外ではなく、冷たい目つきが折角の容貌を酷薄そうに見せていた。
「何だよ、勿体つけんなって言ってんだろ。金はちゃんと払う。ビジネスだ、うまくやろうぜ」
「俺は、薬は扱わない。何遍も言わせるな」
「ヤクは、だろ。リタリンはただのお薬だぜ? 病院でだって処方してくれる」
「なら病院へ行けよ」
「——アキ、お前なあ」
 剣呑な響きを帯びたチハルの声を聞き流し、秋野はカウンターに身体を向けた。
「話は終わりだ。他を当たれ」
「……お偉いな、チンピラは殺っても人身売買と麻薬は人道主義に反するってか? そうかよ、分かった。もう頼まねえよ」
 スツールが蹴り飛ばされ、カウンターに当たって喧しい音を立てる。周囲の視線がこちらに集まったが、騒音のもとがチハルだと分かると、視線はすぐに逸れていった。
 チハルの足音が遠ざかり、ざわめきがまた戻ってきて、秋野は溜息を吐いた。ポケットを探って煙草に火を点け一口吸いつけるまでの間に、何人かが寄ってきて、一言言っては去っていく。
 気にすんなよ、チハルのことなんか。
 あいつは誰にでもああなんだから、放っておけよ。
 どうして同胞にこうも嫌われてしまうのか。多分チハル自身は分かっていない。それだから結局あの男はいつまでも独りなのだと、些か可哀相に思いながら、秋野は長い溜息を吐き出した。

 

 近野千晴。それがチハルの名前だ。
 日本に生まれ、日本国籍を持つ日本人。しかし、チハルの母親は日本人ではない。秋野やレイの母と同じ、一時日本にいる外国人のホステスの大半を占めたフィリピン人である。
 客だったチハルの父と結婚し現在も夫婦円満だと聞くが、レイの母親、そしてチハルの母親のような例は、少ないとは言わないが多くもない。
 愛情で結婚し、それが続く。これは同国人同士の夫婦においてもなかなか困難なことで、言語や習慣の違うカップルでは特にそうだろう。だからそういう両親を持つ家庭を純粋に羨ましいと思うし、そういう家庭に生まれたら、もっと真っ当に生きていたのではないかと夢想したりもする。
「……お前はどこに生まれてもこんなんなんじゃねえの」
 哲はつまらなさそうに言うと、両手に持った太いチェーンを引っ張った。ダイヤル錠のついている、自転車につけるあれである。もっとも今は、自転車ではなく大きなスーツケースの取っ手についていて、縦と横、それぞれの取っ手に三本ずつ、計六本あった。
 眉を上げて見返した秋野に一瞥をくれ、哲は低い声で文句を垂れた。
「どうでもいいけどよ、俺セサミロックって好きじゃねえんだけど」
「何?」
「これだよこれ。このダイヤルのやつ。つまんねえんだよな」
「つまらんのか」
「高校生だって自力で開けて自転車盗んだりするだろうが。その程度なんだよ、要するに。ワイヤーカッターで切っちまえばいいのに」
「俺だってそう思うが、切りたくないから頼んで来たんだろう、多分」
 ぶつくさ言いながら、ダイヤルを回す。ひっかかりでもあるのか、何度かいじってすぐにダイヤルを合わせ、次の桁に移る。確かに作りは簡単だろうが、それでもこんなに簡単に開いてしまえばロックの意味がないわけだから、やはり哲の腕なのかも知れない。本人にそう言えば、この程度の錠前に腕も何もない、と言われそうな気もするが。
 あっという間に開いたロックを外して放り出し、すぐに次に移る。口であれこれ言っているわりには手は休みなく動いていた。
「何の話だった?」
「チハルってやつの話」
「ああ、そうだった。それ、誰でもそんな簡単に開くのか」
「工具で表面引っぺがしたら溝が見えるからな、そしたら簡単だ。一直線に合わせりゃいい。まあ、見えなくてもこうやって左右に引っ張って、回りの悪ぃとこ探せば……って、そうじゃなくてよ」
 哲は手を止め、こちらを見上げた。
「リタリンってあれだろ、いつだったかニュースになったやつ」
「騒がれたのはそうだ。しかし、あの薬が合法ドラッグとか言われてるのは今に始まったことじゃないしな」
「終わった」
「お疲れさん」
 哲がチェーンをテーブルの上に置き、ラテックスの手袋を丸めてポケットに突っ込む。秋野は椅子から腰を上げ、携帯を取り上げた。
 表で待機していた依頼人の使いが入ってきて、スーツケースとチェーンを持っていく。交わされる言葉はなく、倉庫の中はまた二人だけの空間になっていた。倉庫を出、扉に鍵を掛けながら、秋野はまた口を開いた。
「結局あれだ、あの馬鹿は俺を使えなくて別の奴を頼った。そいつはまた別の奴に話を持ち込み、三人間に入ってようやくお薬を手に入れた」
「ふうん。で、どっかに筋者でも絡むのか」
「お察しの通り。捌いた場所と量がまずかったらしくてな。ヤクザと揉めてここらにいられなくなったって話だ」
 街灯がまばらな道を歩きながら、哲がへえ、と気のない返事を煙と一緒に吐き出した。
 路地を出て真っ直ぐ歩き、一つ曲がって太い通りに出る。先ほどまでの人気のなさが嘘のように、突然人間と車が現れネオンが目を射った。
 こんな所に倉庫があると知っている人は多くはない。人が集まる繁華街でも、一本入ればそこには暗い路地があり、生活があり、また生活とはかけ離れた世界もある。秋野と哲を追い越していく中東系の男は、携帯電話に向かって日本語で怒鳴っていた。
「さっきの倉庫の持ち主が一時あいつとつるんでたんだが、消える前に些細なことで随分やり合ってた。それで、何となく思い出した」
 向かいから歩いてきた若い茶髪の男が、よろけて哲にぶつかり凭れかかる。哲ではなく秋野を見上げた彼の視線は微妙に焦点が合っていなかった。青いダウンの腕を思いのほか優しく押し退け、哲は煙を空に向けて勢いよく吐き出した。舌打ちの音が響くが、一言もなく歩み去る若い男には多分聞こえていないだろう。舞い上がる汚泥で濁った川の水のように、男の意識は不透明なのかも知れなかった。
 哲の顔をしかめさせたのは、男の将来や氾濫する薬物への危惧とは多分違う。哲は酷く不機嫌な顔のまま煙草を携帯灰皿に突っ込んだ。
「何で売ったりやったりすんだろうな、薬なんか」
「素面じゃ見られない何かを見たって、勘違い出来るからじゃないのか」
「お前、やったことあんのか」
 地面を睨んだまま哲は呟く。呼び込みの男が秋野の腕を掴みかけ、秋野と気付いて手を上げ挨拶をする。一見無邪気な笑顔の彼も、決して見た目どおりではない。
「ないよ」
 秋野が立ち止まると、数歩行った所で哲はこちらを振り返った。
 人の流れの中で止まった秋野と哲を迷惑そうに避けて通り、人波はまたひとつの流れになった。
 哲の前髪が伸びて目にかかっている。哲とチハルは外見も中身も似ても似つかないが、突き刺さるような目つきはどこか似ていなくもない気がした。
「前にも言ったよな。ガキの頃、それで駄目になった人間が周りに沢山いたんでね」
「ああ、聞いたな、そういえば」
「別に人に説教するような真っ当な理由があるわけじゃなくて、ああなるのが怖い。だから扱わないし、自分でやる気もない」
「……そうか」
「心配か?」
 秋野がにやつくと、哲はうんざりした顔をしてさっさと秋野に背を向けた。哲が向こうを向くと同時に、秋野の顔から笑みが引く。
 恋人を失った薬物中毒の女性が哲に求めたのは、愛ではなくて一時の慰めに違いなかった。哲が彼女を受け容れようと手を差し伸べたのもまた、苦しみを終わらせてやりたいという衝動からだった。それでも、哲を彼女に近づけたくなくて秋野は余計なことをした。
 恋愛感情だったわけではないと哲は言う。その言葉に多分嘘はないだろう。それでも、彼女の痛みが哲にも痛みを残したのだと思うと、いたたまれない。
 人の心は脆くてとても柔らかい。だから不必要なものまでも吸い込んでしまうことがあるのだと、秋野は思う。
 彼女も、哲も可哀相だ。
 おこがましいかも知れないが、何となくそう思ったのだから仕方なかった。先を行く哲の背中を追いながら、秋野は肩越しに振り返り、よろめきながら遠ざかる青いダウンの背中を暫し目で追った。