仕入屋錠前屋55 縋り付くその手をいま振り払って 1

 冷たい空気を吸い込むのは好きだ。
 メンソールの煙草は好みではないが、感覚としてはあれに似ている。
 そうでなければミントのガムを噛みながら煙草を吸うあの感じ。
 喉を通り過ぎて体内へ、肺へと吸い込まれていく冷気は、清々しい。冷たい空気に痛みすら感じるが、生温い空気より余程好みだ。

 かじかむ指の先を、暖かな感触が包む。やわらかな手の大きさは、まだ秋野の半分もない。
「ねーえ」
「ん?」
 利香はにっこり笑う。真っ赤になった頬はまるで果物の表面のようにも見えた。
「きょうね、ゆかりちゃんがね」
 一所懸命話す利香はもう小学生だ。ついこの間まで赤ん坊だった気がするのに、子供は驚くほどの速度で成長する、と驚嘆とともに改めて思う。
「ね、あきの!」
 誰よりも、何よりも大切だった彼女の面影が、時に利香に重なり色濃く浮かぶ。はっとするほど似ていると思うこともあるし、まるで似ていないと思うこともまた、よくあることだ。
 まったく心が動かないと言えば、嘘になる。いや、それも強がりと呼ぶべきか。
 ただ、思い出す回数は酷く減った。
 胃を掴まれるような息苦しさ、呼吸が浅くなる圧迫感。
 それは別の人間がもたらす別の何かに凌駕され、穏やかな痛みの残滓が、その存在を時折主張するだけに変わりつつある。
 癒されたわけではない。一定以上の冷気は傷口を焼く。多分、そういうことなのだと、何となく思う。
 大切なものとは一体何だ、と自問してみる。多香子か利香か、哲か、それとも尾山の家の人々か。彼ら一人ひとりが自分にとって意味を持ち、代わりはきかないただ一人だ。だが、一番大切なものはと問われたら、今の秋野には答えがない。
「あきの?」
「……ん?」
「さむいね」
 薄く雲が筋を引く空は、夏ほど濃い青ではないが、それでも久々の晴天だった。放射冷却のせいか、晴れているのに今日は気温が低かった。
 天気予報では明日の明け方に小雨が降るとか。今は雨の気配すらなく、日向は降り注ぐ陽光に温められている。街路樹の作る日陰は温度が低いが、耐えられないほどではない。
「そうだな」
「しげパパがねぇ、ばんごはんは、さむいからなべするんだよ、って。あきのもおいでって」
「そうか。でも今日は行けない。ごめんな」
「えー、こないの?」
「また今度行くよ。ほら、着いたぞ」
 丁度外を覗いたところだったのだろう。耀司の母親——利香の養母でもある——がカーテンの間から顔を見せ、満面の笑みで二人に手を振った。利香も嬉しそうに手を振り返す。
 その笑顔は、実母ではなくカーテンの向こうの養母にそっくりだった。

 

「ああ、お前と約束がなけりゃ鍋が食えたのにな」
「はぁ?」
 レイは素っ頓狂な声を上げた。
「何、鍋? 鍋ってあの鍋? 野菜とか肉とか白滝とか入れて食う鍋?」
「他にどんな鍋を食うんだよ。訳の分からん奴だな」
「俺あれ嫌い。一つの鍋にみんなで箸突っ込むのってちょっと気持ち悪くない? それにしてもアキと鍋ってすんごく不似合いだよな」
「うるさいよ」
 テーブルを蹴飛ばしてレイの膝にぶつけると、レイは一頻り文句を並べ立てた。
 それにしても、何度同じことをされても避けるということを知らない。反射神経の問題なのか、それとも楽しいこと以外はすぐに忘れてしまう性格のせいか。案外半々なのかも知れない。
「痣になるだろ! もう、野蛮だなー、相変わらず」
「すいませんね」
「利香ちゃんだっけ? 小さい子が真似したら困るんじゃないの?」
「……」
 秋野は顔をしかめ、無言で紙袋を差し出した。利香といるのを、一体どこから誰が見ていたのか。レイは善人とは言えないが、優秀な情報屋であることは間違いなかった。
「さてさて、ご対面」
 有名百貨店の紙袋から箱を取り出し、レイは鼻歌交じりながらも慎重な手つきでゆっくりと蓋を開けた。
 黒い箱の中にちんまりと収まっているのは、珊瑚と真珠、そして銀で出来た帯留である。秋野は和装についての知識がないからよく分からないが、高価なものだということだけは分かる。
 レイの知人からの依頼で、元々所有していた帯留を何らかの事情で複製したものだ。秋野が持ち込んだ先は帯留など殆ど触ったこともないという外国人の細工師だったが、彼は完璧といってもいい仕事をした。
「すごいね、写真だけでよく再現できるなあ」
「ああ、そうだな」
「職人だね、まさに。これなら文句なしだと思うよ。ありがとう」
「毎度」
 帯留は、レイの手で恭しく箱に戻された。
「——どんな美人に頼まれた?」
 普段なら品物の行き先など尋ねもしないが、先ほどの意趣返しもあってそう口にする。レイは無表情で振り返ったが、何せ親しくはしていないとはいっても幼馴染だ。表情の変化くらいすぐに分かる。
「何それ」
「そんなもん、男は使わないだろうが」
「そりゃそうだろうね」
「和服ってのは、脱がすのが楽しいよな」
「……」
「手間隙かかるが、その分やりがいがある」
「何だよ、もう……下品だな」
「育ちが悪いんでね」
 にやつく秋野に、そうだよ、美人だよ、と怒ったように言ってレイは紙袋をテーブルの端に押しやった。レイの事務所はインテリア雑誌の一頁のように、美しく整えられている。垢抜けたセンスは意外なことにレイのもので、調査事務所を商売にせずとも、そちらで食っていけるのではないかといつも思う。
 有名百貨店の紙袋さえも場違いに思えるほど、洒落ていると言っていい。その事務所で秋野が茶碗を割ったりテーブルを蹴飛ばしたりするのはいつものことで、そのせいか今日は茶の一杯すら出てこない。
 インテリアの一部としては完璧だが小さすぎる灰皿を勝手に引き寄せ、秋野は煙草に火を点けた。
「今日は、楊はいないのか」
「うん、今日は休み。何で?」
 意地の悪い上目遣いでレイは僅かに声を弾ませる。
「別に」
「またまた。佐崎くんの彼女のことじゃないの」
「楊に聞かなくたって様子は分かるさ。いちいちあれに結び付けるなよ」
「だってさあ……」
 秋野が吐き出す煙をもろに顔で受け、レイはごほごほと大袈裟に咳き込んでみせた。天井で音もなく回るファンが、手で払われた煙の残りを吸い込んでいく。
「大事そうだからさ」
「あれより大事なものは山ほどある」
「利香ちゃんとか?」
「——まあな」
 一瞬の間をどうとったのか、レイは何度か瞬きしたがそれ以上は突っ込んでこなかった。また和服美人のことに言及されたら面倒だと思ったのかも知れない。
「ふうん」
 小さく言って、レイは僅かに表情を変える。他に誰も居ないのに声を潜め、レイは秋野の顔を見ながら呟いた。
「まあいいや。それよりさ、チハルが戻ってきたって」
「何でお前がそんなこと知ってる」
 煙草を灰皿の縁に擦り付けて落とす。
 久しぶりに聞く名前に、秋野は露骨に顔をしかめた。懐かしくもなければ有難くもない。一生縁がなくてもいいと思う。
「一応、仲間うち……とは言いたくないけどさ、アキだってそうだろ」
「親が同じ国出身だってだけだろうが」
「分かってるよ。俺だってチハルなんか好きじゃないけど、耳には入ってきちゃうもん、仕方ないじゃん」
「それはそうだな」
「秋野、気をつけなよ。チハルに嫌われてるんだから」
「俺だって好きじゃない。言っておくけどな、あいつがここらに居られなくなったのは俺とは無関係だぞ」
「俺はちゃんと分かってるって。まあ、チハルもそれは分かってるんじゃない。あいつ別に馬鹿じゃないんだし」
 レイは口を尖らせてそう言い、でもさあ、と声を落とした。
「分かってても腹が立つことってあるだろ、誰だって」
 秋野は溜息を吐き、灰皿に煙草を押し付ける。小さすぎる灰皿から灰が舞い上がり、テーブルの上に点々と散る。
 落ちた灰を眺めながら、秋野はぼんやりとチハルの顔を思い出した。