拍手お礼 Ver.26 (24の別Ver)

 初心でがむしゃらな者など一人もいないが、それでも、なにかの新兵訓練に紛れ込んだ気分だった。
 警備員とか民間軍事会社の社員とか、実地に役立てるやつらはいい。だが、自分は一体なぜここにいるのだろう。
 昔ならともかく、今は磨く必要もない技術を記憶と身体の底から引っ張り出され、まともな部分を捨てさせられるのはある意味悪夢に近い経験だ。
 気を抜けばすぐに順応してしまう己を律するのは至難のわざで、面白半分に煽るアンヘルがぴったり張り付いているのだから尚更だった。
 実弾が入っていないと言っても、その辺のミリタリーマニアが使うようなものとは違う重火器を担ぎ、山の中を駆け、断崖を登り、藪の中を這いずり回る。弾は硬質ゴム弾。当たったら打撲でひどい内出血が起こるほどで、かなり痛む。防弾チョッキの上から銃撃されるようなものだ。
 最終的に刺されはしないはずだが──確約はできない、とアンヘルはにやにやした──携行しているナイフは本物だ。
 骨の数本折れたところで日常茶飯事、差し歯は当たり前の奴らに混じって、頭を空っぽにして言われたとおりにただ動く。
 顎の先から汗が滴る。もう何も考えることはない。馬鹿馬鹿しいとか、早く帰りたいとか、そんなことを考えていたのは最初の半日くらいだ。夢中になったのではなくて、考えていたらやっていられないから。
 そして、考えなければ身体が動くから。
 そうやって何かを締め出し、必要な情報以外は遮断して、反射だけで動いているうち何かが自分から剥がれ落ちていくのを感じるようになる。
 ぼろぼろと、食べこぼした菓子の屑のように。或いは掻き毟った肌から落ちる皮膚片のように。
 見えない何かが落ちていく。
 それは多分、落としてはいけないものなのだと分かっている。目の端で実際に見えるはずのないそれをとらえながらも、五感で確かめられるものにだけ注意が振り向けられていくのだ。
 音を立てず動け。忍び寄り、蹲り、気配を消して何時間でも待て。
 動く物を撃て。襲い掛かれ。
 息の根を止めろ。
 本当にそこまではやらない。
 だが、寸止めが難しくなるところまで追い詰められ、追い込まれる。
 あと一押しで、相手の喉を裂くところまで。
 今更いい人間のふりはしないし、過去をなかったことにしようとも思わない。だが、忘れていたいことだって確かにある。
 好きでやっているわけではない。
 そう思いながらも結果的には甘んじて受け入れる三週間のあれこれ、その結果削られる何か。それが人間性なのか理性なのかそれともまともな人間のフリなのか、秋野にはわからないし知りたくもない。
 そうやって剥がれ落ちた何か、正常ではなくなってしまった何かを元に戻すのには、ほんの少しだけ時間が要る。

 ドアを開けて哲が立っているのを見たときは、舌打ちしたい気分だった。
 多分、今一番会いたくないのは目の前に立つ錠前屋だ。
 衝動なら止められる。
 普段の自分の、目の前の男を食い散らかしたいという衝動なら、意志の力で何とかできる。だが、今もし本気で殴りかかってこられたら、衝動なんて感じる間もなく反射が勝つに違いない。
 三週間丸々それに費やしたのだ。何も考えずにただ動け。神経は勝手に骨と肉を動かすだろう。感情の入る余地などどこにもないし、そもそもそんなものがあったことすら今はきちんと掴めない。
 例え哲が常人離れした運動神経と強さを持っているといっても、こんなふうになった自分との差は歴然だ。喧嘩と、人を殺す技術はまるで違う。
 そんなことを考えていたら、哲の掌に伸びっぱなしの髭を擦られて我に返った。
「何か用か」
「いや別に用はねえけど」
 手を振り払ったら、哲は少し頰を歪めて面白がるような表情を浮かべた。
 面白がってる場合じゃない、怪我をしないうちにさっさと帰れ、と言ってやりたい気持ちと、傍にいて欲しい気持ちが半々。
 どうせ哲を寄越したのは耀司だろうが、感謝すればいいのか𠮟ればいいのか、それも判然としない有様だった。
 哲とのセックスが甘ったるいものだったことはない。それで何の不満もないが、今は、あんなやり方をして哲を傷つけないでいる自信がなかった。
 殴られたら殴り返すのが当然で、それでも普段は必ず加減をしている。だが、三週間もの間手加減を忘れるように強いられたその後で、いきなり元に戻るなんてことはない。
 だから、帰れと言ったらぶん殴られた。
 いつもどおりにはできないと──女とやるようにしかできないと、伝わったはずなのに。
 まったく、どうしようもない。

 なぜ、許すのか。
 訊いてみたかったが、どうでもいいような気もして結局口にはしなかった。
 唇を解放したら、哲は大きく息を吸い、秋野から離れて暫くそのまま突っ立っていた。何かを量るように、秋野の目を見つめたまま。
 帰ったっていいんだ、と口にしようとしたら、哲は秋野の脇を擦り抜けながらシャツを脱ぎ、床に放った。歩きながら服を脱いでいくそのやり方には色気も何もまったくない。
 ただ風呂に入りにでも行くように服や靴を脱ぎ捨て、あとはデニムと下着を残すだけになって、哲はベッドにたどり着き、そこに立ったまま秋野を見た。
 歩み寄り、すぐ前に立って哲を見下ろす。見上げてくる目の中に凶暴な色はない。哲は一歩秋野に近寄り、秋野の首に腕を回した。
 身体を密着させながら、哲は、まるで恋人にするように、秋野にキスをした。
「さっさと脱げよ」
 唇の上で囁いて、哲は秋野の下唇にそっと噛みついた。

 喘ぐ哲の膝裏を掬い上げるように抱えて身体を進める。哲の中に沈んでいく己の一部に目を落とした。
 誰かと繋がり誰かと体温を分け合って、そうして満たされるということは、自分はまだまともなのだと思って安堵する。狭隘な狭間に押し入り無理矢理充して満たされるも何もないものだと思いもするが、自分勝手なのは今に始まったことではない。
 哲は女のような声は上げない。それでも、掠れた声は普段とは違って淫らな響きがあって、突き上げられ身悶える顔も、いつもの数倍色気があった。
 喘ぎ震える喉元に軽く噛みつく。髭が擦れるのか、哲は微かに眉を寄せ、それでも文句は言わなかった。常識的な──痣や噛み跡が残らない強さで手当たり次第に噛みついて、唇を落とす。腹の間で擦れる哲のものに指を絡ませたら、先端から体液が溢れて秋野の指を濡らした。塗り拡げるように手を動かしたら、哲の粘膜がうねり、締まった。
「なあ……」
 哲の指が秋野の肩に食い込み、うなじに移動して覆い被さる秋野を引き寄せる。
「もっと──」
 間近で覗き込んだ目は快感で蕩けたように霞がかかって、それでも、鋭い、乾いた熱を孕んだような哲の目だった。
「──秋野」
 囁くような、甘えた声で名前を呼ばれて箍が外れた。
 哲の中に打ち込む度粘つく音が立ち、哲が掠れた声を上げる。
 剥がれ落ち、失くしたはずのものがまだ自分の中に残っていると不意に気づいて涙が出そうになった。
 限界を迎えて哲の身体が強張る。縮もうとする筋肉と粘膜を掻き分けるように硬いものをより深く捻じ込んだら、哲は喉を反らせて悲鳴を上げた。最後まで吐き出してもいないのは分かっていたが、何度も激しく奥まで突く。
「ん──あき……」
 ほとんど聞き取れないくらいしわがれた声で、哲は秋野の名前を口にした。
 それだけで膨れ上がるこれが欲望なのか、もっと違うものなのか、いきそうなだけなのかどうかも分からない。
 哲が秋野に何を見て、何を理解し、何を受け入れてくれたのかも。
 こんなことは本意ではないだろうに。

「哲──」
 今日、初めて名前を呼んだ。
 半分意識が飛んでいるのか、哲が何か言ったが聞き取れなかった。唇の端で微かに笑った錠前屋は、秋野の首筋に縋りつき、溜息を吐いて目を閉じた。