仕入屋錠前屋30 風化させないで 1

 体に纏わりつく線香の香りは、嫌いではなかった。縁起のいいものではないが、その香りはどこかしら安心感を伴う。半分異国の血が流れていても、日本以外で暮らしたことはない。言葉がいくつ使えても、今は頭の中まで日本語だ。遺伝子のなせる業か、それとも単なる記憶なのか。それは秋野には分からないが、とにかく嫌いな匂いではないのは間違いない。

 内田宗市の通夜の参列者は多かった。親戚だけでなく、教え子や学校関係者がかなりの数に昇っている。お陰で秋野は誰だったかと不審な目を向けられることもなく、適当な偽名で香典を持参し、何食わぬ顔でお参りが出来た。
 長く患っていた者の葬儀には、身を切るような悲嘆の空気は薄いものだ。諦めや、故人が楽になれたことへの安堵、疲労感や寂寥感。様々な感情が絡み合いながらも、どこかぼんやりした空気は穏やかだ。
 斎場の出口に向かう秋野の後ろに、誰かのスリッパの足音がした。
「君——」
 秋野が振り返ると、土橋が立っていた。土橋賢輔は、以前秋野に仕事を依頼してきた男で、内田宗市は彼の学友だった。
「土橋さん。お久し振りです」
 頭を下げる秋野に、土橋はいやあ、と柔らかい声を出した。
「君が来てるなんて思わなかった。その節は——」
 土橋の依頼は、かつての親友内田に贈るための稀購本を手に入れることだった。秋野はそれを内田に届けた折——本は受け取ってはもらえなかったが——内田と面識が出来、その後何度か見舞いに行った。病院で土橋と会った事はないが、内田から話は聞いているのだろう。
「内田が喜んでたんだよ。君が来てくれたら楽しいってね。彼は頭がいいって私に自慢するんだよ」
「こちらこそ、内田さんのお話はいつも面白くて、勉強させて頂きました」
 土橋は秋野に続いて靴箱から革靴を取り出して足を入れた。広い玄関のそこここで同じような風景が繰り広げられている。久し振りに会う知人。内田の話。あいつは本当にいい奴だった、と。
「君、これから用事があるかい?」
 土橋は手に持ったコートを羽織りながら秋野に訊いた。
「勿論、無理に誘ったりはしないんだが……何だか誰かと話をしたくて」
 寂しく笑う土橋の横顔に、秋野は黙って頷いた。

 

「そうですか」
「そうなんですよ」
 顔色が悪い内田は、半分起こしたベッドに凭れてそう言った。
「そんなわけで土橋が教授の家に押しかけて……」
 内田は、ぽつりぽつりと昔のことを語る。秋野が内田のところへ顔を出すのはもう結構な回数になる。さして深い意味はなかったが、内田の穏やかな雰囲気が好もしく何とはなしに見舞いに来たら随分と喜んだので、また来る約束をしてしまった。結局足繁く通うことになり、お互いのこともまるで知らぬまま、たまに会っては他愛ない話をした。そして今日は、内田は気分が悪そうだった。
「調子が悪そうですね。日を改めましょうか」
「いいや、いいんですよ。却って気が紛れるんです、話していると」
 内田は青い顔で微笑むと、軽く咳き込んで水を飲んだ。
「君は土橋と私の昔話なんか面白くもないでしょうが」
「いえ」
 秋野はパイプ椅子の上で足を組んで微笑んだ。実際、内田の話は面白かった。長年教鞭をとっていた内田の話は人をひきつけるツボを抑えていたし、何より頭の回転が速い。そういう人物の若かりし日の話が面白くないはずもなく、秋野は本心から有益な時間を過ごしていると思っていた。
「お世辞ではなく、面白いですよ」
「そうですか。ならいいですが。大体、赤の他人の私のところに頻繁に見舞いに来てくださるだけでも申し訳ないのにね」
「いえ」
 内田は秋野の顔を見つめて笑うと、溜息を吐いた。
「自分のことばかり話してしまうのは何故だろうね。君のことも聞かせてください」
「僕は話すほどのことは、何も」
「いいじゃないですか、いや、何も個人情報を聞き出そうって言うんじゃありません。いい加減自分の話にも飽きたので、何か冥土の土産でも持たせてください」
 にこにこ笑う内田に苦笑しながら考えたが、内田に聞かせるべき何かは思いつかず、秋野は首を捻った。下らないことは色々してきたが、人に話すほどのことでもないだろう、と思う。内田を見て軽く首を振ると、内田はまた笑った。
「じゃあ、お友達のことはどうですか」
「友達ですか」
「私も土橋とのことをお話しましたから、君の友達にどんな人がいるか教えてください。ほら、最初に来たときにも一緒に男の子がいたでしょう。例えば彼はどんな人ですか?」

 

 土橋はタクシーを止めると、先に乗り込み、住所を告げた。秋野は土橋の横に乗り込む。ドアが閉まって、タクシーは滑らかに発車した。斎場の駐車場にタクシーが何台も乗り入れ、参列者を拾っては走り去っていく。大きく書かれた内田家葬儀会場の看板が、ライトに照らされて白く光っていた。
 土橋の顔は、薄暗いタクシーの中で疲れて見えた。長年絶縁していた友人とやっとのことで和解した男は、今度はその友人を永遠に失い、外見はどうあれ悲嘆に暮れているようだった。内田と土橋が和解して、まだ日は浅い。取り戻せたものはどれだけあり、まだこれからであったものはどれだけだったのだろうと、秋野は流れていく外の景色を見ながらぼんやりと考えた。

 

 秋野は一瞬黙り込んだが、内田の顔を見ないで口を開いた。
「人生の先輩に、ご相談したらいいんでしょうか」
「私が明確なアドバイスをしてあげられることは、少ないですよ。内田先生から楽に単位をもぎ取るにはどうしたらいいか、とか」
 思わず秋野が笑うと、内田も笑った。秋野は膝の上で手を組んで、自分の足先を見つめた。内田が聞いているのは気配でわかる。
 こんなことを口に出して何になるのかとも思うが、他のどこかで吐き出せるというものでもない。赤の他人の内田に甘えて垂れ流しても、誰に迷惑もかからない。そう思えば、それはある意味妙案にも思えた。
「彼は、友人ではありません」
 内田は黙って聞いている。
「何なのか、僕にもまだ分からない。彼に対して、僕が感じるのは友情ではなくて、執着です。それも、とても——強い。彼が笑っても嬉しくないのに、僕に歯を剥くと嬉しくなる。自分のものにしてしまいたいと思いながら、そんなふうになるなら要らないとも思う」
 顔を上げて内田を見ると、内田は先ほどと同じ穏やかな顔で秋野を見ていた。
「相手を思いやる関係ではありません——内田さんと土橋さんのようには。優しい気持ちにはなれないし、労わることも喜ばせることも重要じゃない。殴り殺してやれたらどんなにいいかとも思うけれど、実際にそれができるわけでもない」
「——それは、愛情ではない?」
「違います」
 秋野は薄く笑い、緩く首を振って内田を見た。内田はベッドから身を起こして興味深げに秋野を見ている。
「もしそうだったらもっと簡単だったし、……僕はとっくに飽きてたはずです」
 内田は頬に掌を当ててうーん、と唸った。その顔が生徒に難問を投げかけられた先生そのものに見えて、秋野は思わず微笑んだ。
 少々ではすまないくらい顔色が悪く痩せているが、内田はどんな時も研究者そのものに見える。文章——詩を愛し、その少ない文字数の中に潜んだ精神を求めて行間を彷徨う文学者。内田の本質は常にそこにあるのだろう。
「難しいね」
「ええ、とても。一度はもう考えるのをやめたつもりでいましたが、何かにつけ考えてしまうのは僕の往生際の悪さでしょうかね」
 内田が眉を上げて秋野を見る。
「周りが口を揃えてそれは愛かと訊きますが、それは違う。僕にとっては酷く大事なこれは、愛情より脆いでしょうか? それとも愛情より下種な感情でしょうか? 愛がなくてだから何だと開き直ってみても、次の日になればまたそんなことを考える。……出口がない」