仕入屋錠前屋30 風化させないで 2

 土橋がタクシーに告げた先は、小さな料理屋だった。創作和食、と書かれた看板はモダンな雰囲気で、土橋の年齢よりは若者が好みそうにも見えたが、店の主人は土橋くらいの年齢だった。娘がそういった方面のデザイナーだとかで、わざわざ作ってくれたものらしい。親馬鹿丸出しの主人は土橋の脱サラした元同僚だとかで、二人は個室に通された。
「付き合せてしまって申し訳ないね」
「いいえ、構いませんよ」
「内田の追悼ってことでね、まあ、ちょっとだけ」
 土橋は微笑んでネクタイを緩める。運ばれてきたビールを注ぎ合い、お互い無言で口をつけた。微かにカウンター席の笑い声が聞こえ、食器のぶつかる高い音が聞こえてくる。
「涙が、出なくてねえ」
 土橋は突然ぽつりと呟いた。
「なんだろう、こう、陳腐な表現なんだけど、胸にぽっかり穴が開いた気分て言うのかな。ものすごく欠落してしまった部分があるんですよ、どこかに。だけど、悲しいと思うんだが、泣けないんだな」
「涙を流すことだけが重要なわけじゃありませんよ」
 土橋は箸を握った右手を宙に浮かせたまま曖昧に微笑んだ。
「そうなんだがね。内田のあの安らかな顔ね——ああいう方が、たまらないね。何というか……」
 詰まった言葉はそれ以上出てこない。向かいに座って顔を俯ける土橋を見ながら、秋野は黙って座っていた。

 

 内田はしばらく黙って秋野を眺めていたが、小さくほっと息を吐くとベッドに凭れて天井を見つめ、小さな声で話し出した。
「愛情とはそもそも何だろうね。愛と恋の違い、それだって未だにあちこちで取り上げられるテーマだが、明確な答えなんかない。要は捉え方の違いで——正義とか、そういうものと同じだね。何が正しいかは見方によって変わってくる」
 内田の顔色は青いし声は細いが、しかし響きはしっかりとしていた。
「君の彼への執着が何かは私にも分からない——人の感情は容易に分析できるものではないからね。ただ、君が彼を必要とするなら、理由はともかく手を放したりしないことだ」
 秋野はいつの間にか天井ではなく自分を見ていた内田の視線に気がついた。それは穏やかで、今にも消えて行きそうな危うさと、いつまでも残る力強さを同時に持っているように見える。
「気が強そうな子だったね——彼が暴れるなら首根っこを掴まえて引き摺って行きなさい」
 内田は悪戯っぽく目を煌かせて続けた。
 「手を放すことはいつでも出来るよ。けれど、放した後で気付いたところで、一旦手を放れたものは簡単には戻ってこない。戻ってきても、どれだけ取り戻せるのか、それは誰にも分からない。……あの事件の記憶を風化させないで、とよく言うね。記憶は風化するものだよ。その記憶が忘れていいものであろうが悪いものであろうが、それは関係ないことだ。覚えているためには強い何かが必要だ。それは恨みだったり反省だったり、それこそ愛情だったり友情だったり、様々だがね。一度手放せば風化していく。大切に仕舞いこんだつもりでも、人は必ず忘れていく。それが嫌なら、両手でしっかり掴まえておくことだよ」

 

「記憶は、風化するんだそうです」
 秋野は俯く土橋にそう呟いた。土橋はゆっくり顔を上げ、怪訝そうに秋野を見る。
「一昨日、です。最後にお会いした時、内田さんがそう言っていました。忘れたくなければ両手でしっかり掴まえておけと」
 土橋は箸を置き、両手で顔を擦って溜息を吐いた。
「どれだけ、失くしてしまったのか僕には分からない。取り戻せたものはありましたか。掴まえたものがあるなら、それを大事にしたらいい」
 若造が、とは言われなかった。土橋は泣き笑いのような顔をしてグラスを持つと一息に呷る。秋野がビール瓶を持ち上げると、頷いてグラスを差し出す。
 内田が言ったのは、失くした自分の友情のことかも知れなかった。長年のわだかまりは解けても、残された時間はあまりに短く、失った年月と育むはずだった友情は戻らなかった。それはどちらの落ち度でもなく、どちらからともなく離した手から零れ落ちた何かだ。
 これから先、土橋が内田のことを忘れていくのかどうか、秋野は知らない。二人の友情がどれほど深いのか、他人の物差しで量ることに意味はなかった。
 ただ、内田の優しい目を思う。あの眼差しを、忘れたくないと思う。そして、きっとそうすることが出来ると思った。

 

 長い呼び出し音のあと、しわがれた不機嫌な声が聞こえてきた。
「うるせえ」
「寝てたか」
 電話の向こうで欠伸と、ライターの音がした。見えはしないが、煙を吐き出す哲の姿が目に浮かぶ。
「丁度寝そうになってたとこだよ。まったくしつこい奴だな、お前は」
 秋野はいつもと変わらない哲の声に頬を緩めた。土橋と別れた時には既に日付が変わっていて、それから何時間か経っている。仕事がひけた哲が眠っていてもおかしくはなかった。
「今日は内田さんの通夜だった」
「——ああ、あの大学教授」
 哲はちょっと考えた後そう言った。哲は一度会ったきりだが、秋野が何度か見舞いに行ったのは知っているし、彼が末期癌で余命僅かと言うのも知っていた。哲は低い声でぼそりと悔やみの言葉を呟く。
 秋野は地面にしゃがみこんだ。自分のアパートの前の路上、部屋に入ればいいものを、なぜか室内ではなく今ここで哲の声が聞きたいと思う。まだ冷たい風の中で足元のアスファルトを見つめながら、秋野は掠れる声で囁いた。
「俺はお前を愛してない」
「……何言ってんだ、お前」
 哲の面白くもなさそうな声が電話から聞こえる。本当に、言わなくてもいいことを言っている、と思う。
「愛情なんかこれっぽっちも感じない。優しくしたくもない。笑った顔なんか見たくもない。骨まで噛み砕いて吐き出してやれたらいいと思う」
 哲は黙って聞いている。もしかしたら聞いていないのかも知れない。だがそれでも構わないと、僅かに酔いが回った頭で秋野は思った。口に出したいだけなのだからそれでいい。別に愛の告白ではないのだ。例え哲が聞いていようがいまいが、自分の行動に変わりがあるわけではないのだから。
「お前が欲しい」
 一層掠れた声が震える。恐怖のせいでも、緊張のせいでもない。それは、せり上がる興奮と眩暈のせいだ。
「ただそれだけだ。——手放す気は、ない」
 低く、電話に向かって囁いた。暫くの無音の後に、哲の常と変わらない声が秋野の耳に聞こえてきた。
「——で、今までと何か変わんのか」
「いや、別に変わらんよ」
「だったら、お前が何を考えようが、俺は別にどうでもいい」
 哲は飽くまでもいつもどおり。低い吐き出すような話し方に迷いはない。秋野は熱のこもらない声で言った。
「哲、俺のものになれよ」
「嫌だね」
 即答の後、一方的に通話が切れた。

 切れた電話の機械的な発信音に、秋野は唇の端を曲げた。拒否されたくて求めるなど、正気の沙汰ではないかも知れない。
 ついこの間ヨアニスに訊かれたときにも思ったはずだ。考えるのはやめた、と。それでも事あるごとに思いがそこに向かったのは、何かにつけ理由を必要とする己の小心さなのか、それとも後ろめたさの発露だったか。
 内田が言うとおり、悩もうが悩むまいが、手放したものは戻ってこない。それが哲ならば尚更だ。後ろも見ずに歩き去って後悔もしない男なら、何も今すぐ楽にしてやることはない。襟首を掴まえ、死ぬまで地面を引き摺り回してやればいいではないか。それを咎める権利は、哲以外の誰にもない。
 感情に名前をつけることなど無意味だった。一年近く堂々巡りしていた思考が馬鹿馬鹿しいほどあっけなく完結し、秋野は喉を震わせた。
 何と名をつけようが、確かなことは一つだけだ。理由なんてどこにもない。あのどうしようもない錠前屋が欲しい、ただそれだけ。愛しさより大事な何かがあって何が悪い。そしてそれが愛より脆いと、一体誰に断言できる?
 万が一、これが歪みきった愛だとしても、だから何だと今なら言えた。

 秋野は獰猛な笑みを浮かべると、立ち上がって部屋に向かう階段を昇る。変わらないならどうでもいいと言い切る哲を、引き裂いてしまいたい。この渇望は、食欲によく似ている。理由を追求することなく、それでも望む、生きるための何か。
 秋野は、部屋のドアを開けた。風が一緒に部屋に吹き込む。黒いコートの裾がはためき、髪が揺れた。胸のうちの呟きは吹き込んだ風に巻かれて空中に散る。風の通り過ぎた後、線香の香りがふと漂った。
 秋野は思わず低く笑った。乱暴で残忍な片割れと、酷くよく似た表情で。