仕入屋錠前屋29 ヨハネの再来 4

 ヨアニスと連絡が取れたのは翌日すぐだったが、月曜日、ヨアニスは本来の目的である視察のために多忙だった。秋野としては別に構わなかったが、耀司が煩く言うので電話をかけてみただけだ。哲には特に連絡していないが何も言ってきてはいないし、だとすれば何もなかったのだろうと推測できる。
 ヨアニスの出張は金曜で終わる。結局それまでヨアニスの体が空かず、秋野は金曜に空港まで見送りに行く約束をして、それだけだった。
 ヨアニスのことだ、哲に一言二言言ったかもしれないが、どうせ哲は聞いているのかいないのかという態度だったに違いない。あの後ヨアニスが何も言ってこないのは正直意外だったが、忙しいのだろうと思い、秋野自身は取り立てて気にもしなかった。
 既に荷物を預け、小さめのボストンバッグ一つを持ったヨアニスは、背の高い椅子に座り、コーヒーのカップと英字新聞片手に秋野に手を上げた。
「わざわざすまんな」
「いや、今回は殆ど顔見る暇もなかったからな。またそのうち来るんだろう?」
「ああ、提携した以上はそれなりにフォローも必要だし、こっちの技術提供にも期待してる。俺は日本語が出来るから重宝されてるんだ。今度は一年も置かないだろう。また近いうち、頻繁に顔出すよ」
 ヨアニスはそう言って笑った。
「耀司から、電話が来た。日曜」
 秋野が言うと、ヨアニスはああ、と言ってコーヒーのカップをテーブルに置いた。
「勝が口滑らせたか」
「滑った自覚もないぞ、あれは」
「まったく、馬鹿たれが」
 秋野が苦笑すると、ヨアニスも肩を竦める。秋野は目の前の青い目を覗き込んだ。
「お前に言わなかったのは、面倒だったからってだけで、隠してたわけじゃない」
「相変わらずものぐさだな。そんな説明も惜しむのか、お前は」
 秋野はヨアニスの仕草を真似て肩を竦めた。ヨアニスが目を逸らして溜息を吐く。どうせ哲に根掘り葉掘り聞いただろうに、それにしてはヨアニスの皮肉は冴えない。秋野は不思議に思ったが、別に必要以上に苛められたいという趣味があるわけでもなかった。ヨアニスはなんとも言えない表情で秋野を見ていたが、コーヒーを啜ると低く吐き捨てた。
「アキ、お前は馬鹿だ」
「知ってるよ。言わないでくれ、こたえるから」
「馬鹿だ」
「……しつこいな」
 ヨアニスはカップを弄びながら淡々と口に出した。
「お前が哲を愛してるって言うなら、俺はお前達が幸せであるように祈りもするよ。決して本意じゃないが努力する。本当だ。けど、愛してもない者を欲しがって、そんなふうにもがいて一体何になる? それに」
「それに、何だ」
 一瞬押し黙ったヨアニスを促すと、ヨアニスは緩く首を横に振った。
「哲は、本当に……本当にお前なんか愛してないぞ。少しでも期待してるなら馬鹿を見る」
「何言ってる。知ってるよ、そんなの」
 ヨアニスは平然とした秋野の顔をまじまじと見て、もう一度長い息を吐き出した。そして頭を振ると、何かを無理矢理払い落としたように、不自然な笑顔になった。
「長くは続かないぞ、こんなこと」
 ヨアニスの髪が、ガラス越しの陽光に透けて金色に光る。後光が射しているかのように輝く髪、同じ人間とは思えない、美しい青い目。その背後にはいくつもの蹲る機影が見えた。秋野は眉を上げてヨアニスを見た。
「預言者のつもりか?」
「ヨハネの再来? まさか。いくらヨアニスがヨハネのギリシア読みだからってそりゃあない」
 ヨアニスはいっそ憎たらしいほど爽やかに笑う。スーツを着こなし、片手にコーヒーのカップを持ったヨアニスは、有能なエグゼクティブそのものだ。大して上等な品性を持った男でもないが、纏う雰囲気はどこまでもお上品ときている。しかし秋野はヨアニスが好きだったし、彼の言うことは多かれ少なかれ、ある種の真実を含んでいることが多いのだ。——大抵は。
「恋愛してるわけじゃない。続くも続かないもないさ」
「耀司が言ってたぞ。哲が欲しいんじゃないのか」
 ヨアニスはカップを持ち替え、空いた手の指で軽くテーブルを叩いた。その長くて白い指に目をやりながら、秋野は脚を組み替えた。
「——手に入るなら母親だって売り飛ばすね」
「なんとまあ孝行な息子だ。お母上もさぞや鼻が高いだろう」
「まあ、欲しいって思ったところで簡単に手に入るような奴じゃない——ってのは見てわかっただろう」
 ヨアニスは何も言わずに険しい瞳で秋野を見つめた。
「俺に抱かれたところであいつにとっちゃ殴り合いと大差ないんだ。俺は間違いなくあいつにいかれてるが、残念ながら愛だ恋だとは違う。恋愛で済ませられたら俺も楽だったけどな」
 秋野の低い呟きに、ヨアニスは苦虫を噛み潰したような表情になり、似た者同士め、と呟いた。何のことだか分からないが、ヨアニスは秋野を見ないでコーヒーを飲み干し、左手首のタグホイヤーを見て立ち上がった。
「そろそろ行くよ」
「ああ」
 コートを腕にかけ、ボストンバッグを持ち上げるとヨアニスは秋野の顔を横目で見た。
「確かに哲のあの目にはそそられないこともないな。だが、俺はやっぱりグラマラスな美女がいいね。哲は骨っぽすぎて喉につかえる」
「そこがいいのに、わかってないな」
「別にわかりたくもないよ。所詮誰にも言えない、未来のない関係だ。苦しむのはお前なんだからな」
 皮肉な笑い声を上げたヨアニスは、バッグを持ち直して航空券を取り出した。じゃあまた、と短く言うと、チケットを振りながら背を向ける。搭乗ゲートに向かう厭味なほど颯爽とした背中を見送り、秋野は小さく息をついた。
 多分、怒ってはいないのだろう。ただ、困惑しているだけだ。
 ヨアニスが何を思おうと自分の生き方を変える気はないが、理解してもらうにはいささか特殊に過ぎることはわかっている。それでもヨアニスの心配は嬉しかった。それが例え余計なお世話であっても、友人の気持ちは単純に嬉しい。振り返らない背中を見ながら、秋野はそう思った。

 

 店から出てきた哲は既に銜え煙草で、ポケットに両手を突っ込んでいた。いつもあの格好で、それなのに誰かに殴りかかるときの素早さといったら、いつポケットから手が出たのかと思う。秋野はそんなことを考えながら哲を呼んだ。哲がゆっくり振り返って秋野を認め、表情を変えずにまた首を戻す。秋野が横に並んでも、哲は何も言わなかった。
 ヨアニスに何を訊かれたのか、それを訊くつもりだった。大して気になるわけでもないが、ヨアニスの覇気のなさはなかなか興味深かった。口から先に産まれて来たとしか思えないあのヨアニスに哲が何を言ったのか、聞いてみる価値はあるだろう。
 哲は何も喋らず、煙を吐きながら歩いていく。質問を急ぐこともないから秋野も黙って隣を歩いた。哲は秋野の部屋に向かう。これも珍しいことではない。秋野の部屋の方が、哲の勤め先に近いのだ。
 それにしても、いくら無愛想な哲にしても今日の沈黙は長かった。黙々と歩く哲は、不機嫌そうでも何でもないが、ただ、口を開かない。
 哲が銜えた煙草の先から灰がぽろりと崩れ落ちる。空中で細かく砕けた灰が散り、白い破片が宙に舞った。

 哲の後から玄関に入ると、靴を脱ぐ前にいきなり壁に叩きつけられた。結構な勢いに安アパートの壁がたわみ、舌を噛みそうになった。既に火の消えた煙草を銜えたままの哲の手が、秋野の胸倉を掴んで締め上げる。壁にぶつけた背中と後頭部が痛む。間近に哲の目があった。
「いきなり何だ」
 咳き込みながら秋野が訊いても、哲は黙って秋野を見ていた。何かに憤っているふうもない。いつもと変わらない興味なさげな表情で、哲は覗きこむようにして秋野の目を見つめている。
「哲?」
 哲は顔を背けて三和土に煙草を吐き出した。足元に、冷え切ってただのゴミと変わりなくなった吸殻が転がる。掴まれた胸倉を無理矢理引っ張られ、唇の端に齧りつかれた。焦点が合わないほどに間近に見える哲の目には、当然ながら、愛の欠片も見えはしなかった。

 

 哲の喉からざらついた濁音の呻き声が漏れる。長く尾を引くそれは、動物の断末魔にも聞こえた。死を前にしてもがく獣の唸りだ。
 秋野の耳に、ヨアニスの言葉が甦る。未来のない、執着だと。恋愛ならば、お前のために祈りもしよう。だが、愛しくもないものを何故手に入れようともがくのか、と。
 秋野は汗ばんだ哲の喉を食みながら、頭の片隅で考えた。愛しくないからこそ渇望するこの気持ちが、一体誰に理解できるのだろうか。自分さえ、その本質は見極められないでいると言うのに。
 手に入れたい、入れたくない。その狭間で煩悶するのは、もうやめようと決めたのだ。いくら悩んでも先は見えず執着は増すばかりで、考えて答えが出るものではないことは骨身に染みた。こんなふうに哲を抱くことが必要だったのかどうか、それすらも分からない。この情欲が何を根源としているのか、それを問うのももう諦めた。
 色っぽいことなど、まるでない。だが、体の下で荒い息を吐く哲には、野生動物の色気があった。狩の後の肉食獣、顎を血だらけにした捕食動物。哲は秋野を獣じみているとよく言うが、秋野に言わせれば哲とて同じようなものだった。種類は違うのかもしれないが、属するところは変わらない。だからこそ惹かれるのは間違いない。

「……くそっ……」
 およそ情事の最中とは思えない悪態が立て続けに哲の口をついて出る。いつものことに、秋野は笑った。これくらいで驚いていては、この野犬を地面にひっくり返そうなどとは思えない。
「死ね、馬鹿野郎」
 あながち冗談とは思えない凄みのある声で哲が呪う。そういう部分が酷く秋野を煽るのを、知っているのかいないのか。耳を甘噛みし、顎を舐めて顔を起こした。見下ろすと、目を眇めて睨まれる。
「わかってて、言ってるのか?」
「……ああ?」
「そういうところが——」
 哲が笑った。髪を乱し、息を荒げ。
 男臭い表情で片頬を歪め、誰かを殴り飛ばすその直前のように。
 そう、わかっていないわけがない。どちらかが相手の息の根を止めるまで、半ば殺し合いのじゃれ合いは続く。殴り、駆り立て、傷つけあって、時には気紛れに抱き合いながら、狙うのはその喉笛だ。それさえ確かなら、何がどうでもいいのはお互い様だ。
「——おら、どうした。止まってんじゃねえぞ、仕入屋」
 哲が踵で思い切り尻を蹴飛ばす。まったく、俺の錠前屋は下品で凶暴でどうしようもない。
「労わってるんだ」
「必要ねえ。さっさと終わらせろ」
「……まあ、そう急ぐな」
 その台詞に不満げに呻いた哲に顔を寄せ、僅かな声をも奪い去る。喉の奥を振動させる、威嚇の響き。絡む舌を通じて伝わる声なき唸りに、意味のある言葉を返そうとするだけ無駄に違いない。どうせ、哲は聞きはしない。この行為自体に、何か特別な意味はない。
 突き上げる動きに合わせ、哲の歯が唇の裏に食い込んだ。口腔に広がる血の味に駆り立てられるのは、人間の欲情か、それとも獣の本能か。
 何も考えられなくなっていく頭の中に、ヨアニスの言葉が点滅しては消えていく。預言者など、信じない。信じはしないが、この関係が終わるなら、いっそ今すぐ終わればいい。
 脚を抱え直して深く抉ると、哲が苛立たしげに、それでも多少は上擦った息を吐く。薄く開いた唇の間、薄赤く染まった哲の歯に、重い熱が下肢に集まる。痺れるような感覚に、秋野は深く息を吸った。
 これが何か、それが俺には分からない。