仕入屋錠前屋29 ヨハネの再来 3

 嫌な予感はした。哲は目の前のグラスに浮かぶライムの薄切りを睨みつけながらそう思った。透明な酒に浮かぶ緑色は、ガラス越しに歪んで見える。哲の視線に負けたのか、不意に崩れた氷の上で、ライムは危なっかしく左右に揺れ、おかしな角度で何とか止まった。
 目を上げると、色とりどりの酒瓶が視界を彩る。ホテルのバーに来ることは殆どないが、初めてと言うわけでもない。お仕着せの赤いベストが似合わないくたびれた初老のバーテンダーが、手つきだけは鮮やかにシェイカーを振っている。
 隣でグラスを傾けているヨアニスは、映画のワンシーンのようにバーの雰囲気に溶け込み、まるで今ここに存在する人間ではないように見えた。青い瞳は間接照明の下でも際立った色合いを見せ、窓際の席の背の高い女が、物欲しげに彼を見ていた。
 結局秋野のおかげで、望みもしない役回りをする羽目になるのはいつものことだ。どうせこの男も、根掘り葉掘り聞き出してはそれをネタに秋野を小突き回して喜ぼうとしているに違いない。そうしたければ思う存分すればいいし、むしろ混ぜて頂きたいくらいではあるが、何やかや些細なことまで詮索されるのは面倒だった。
 ヨアニスはアイーダを出るとホテルまで帰るのに道が分からないとか言い始め——絶対に嘘だ——、連れ帰ればお礼に酒の一杯でも、と笑顔で宣言し、結局ホテルの最上階のバーに無理矢理連れ込まれた。
「君は——」
 ヨアニスの声は隣の哲が聞き取れる程度には通り、回りに聞こえないくらいには低い。
「アキの仕事仲間なんだって? あいつと同じような仕事をしてるの?」
 哲はグラスを手に取り、飲まずに少し傾けた。氷が更に崩れ、ライムが殆ど垂直になる。
「錠前屋。金庫、玄関、抽斗、まあ何でも」
「へえ。じゃあアタッシェケースが開かなくなったら呼ぶよ」
「SMプレイの最中で手錠が外れなくなったら呼んでくれ」
 仏頂面の哲の横顔を見て、ヨアニスはおかしそうに笑った。
「君は面白いな、哲」
「そりゃどうも」
 哲が煙草を銜えると、ヨアニスがライターを取り出した。哲が首を振って自分で火をつけると、肩を竦める。ライターを持っているということは喫煙するのだろうが、ヨアニスは煙草を取り出さなかった。金色の高価そうなライターをしまうと、僅かに体を捻って哲のほうに顔を向けた。
「アキは昔からものを欲しがらない奴だった」
 哲が黙っていると、ヨアニスは両の掌でグラスを挟み、からりと氷の音をさせた。
「僕がアキと耀司に会ったのは、十歳になったくらいかな。アキは耀司の家に来て少し経っててね、あいつらはもう兄弟そのものだったよ。アキは年に何度かは母親に会ってたようだけど、殆ど尾山の子だった気がする。でもあいつは、尾山さんを父親とは呼ばないんだよ、あんな子供の頃からずっとね」
 ヨアニスは続けた。
「何も欲しがらないのは、遠慮してるからじゃない。何かが自分の物になるってことが、よくわかってないんだな。実感できないというか」
 哲はグラスの酒を呷った。煙草の味と酒の味が混じり合う。慣れ親しんだ苦い味は、ヨアニスの話を聞いて、哲が当然感じるべき苦さの程度を表しているのかも知れない。だが、哲の胸に特別な思いは湧かなかった。
「多香子は、まさにアキが初めて欲しがったもの、だ。本当の父親を知らなくて、それを探すことも出来ない。それで未だに尾山さんを父親と呼ぶことすら出来ない男が、ようやく子供みたいに手に入れたがったのが多香子だね。まあ、結果はこの通りだが、男と女だからうまくいかなかったことはもう仕方がない。——そして、次が君ってわけだ、哲」
 不意に呼ばれた名前に、哲はヨアニスに顔を向けた。ヨアニスの口元は上品な笑みを刻んでいたが、青い瞳は毛筋ほども微笑んではいなかった。

 

「別に哲が泣かされて帰ってくるとは天地がひっくり返っても思わないけどさあ」
 耀司は電話の向こうでそう呟いた。
「ヨアニスは秋野とおんなじで容赦ないし、もっとねちこいから。だから」
 ヨアニスが聞いたら耀司の耳たぶをつまんで引っ張り上げそうだ。あいつは昔からそういう陰険な嫌がらせが大好きだった。秋野はそう考えて溜息を漏らした。
「哲がキレちゃわないかそっちが心配で」
 耀司が心配げにそう吐き出す。哲は本来、ヨアニスが厭味のひとつふたつ言ったところでかっとくるような繊細な男ではない。しかし哲は時に意図的にキレるという器用極まりないことをするから、耀司の心配もあながち的外れではなかった。
「まあ、大丈夫だろう、……多分」
「多分じゃ心配だよ……。ヨアニスはしつっこいから、ひどくしたら仕返しに何されるかわかんないよ」
 耀司の訴えを半分上の空で聞きながら、秋野は適当な返事を返した。ヨアニスに哲と関係があることを言わなかったのは、わざわざ言う必要があるとは思わなかったからで、別に隠すつもりだったわけではない。
 誰にでも知られていいことではないが、ヨアニスは耀司と同様身内同然だし、誰かにべらべら喋る心配はまったくない。それでも余計な誤解を招くのは面倒だったから黙っていたに過ぎないが——。秋野は片手で顔を擦って口を開いた。
「哲もいきなりヨアニスを再起不能にしたりはしないだろう。せいぜいやって二、三発殴って終わりだ」
「……それ、十分酷いから……。哲だよ? 俺の二、三発じゃないんだよ? せいぜいって思うのお前だけ」
「そうなのか?」
「だから秋野は救い難いって言うんだよ。ある意味幸せボケじゃん、それって。相当間違ってるけど」
 訳のわからないことを言われ、面倒になって続ける耀司を無視して通話を切った。耀司は慣れているから今頃またか、と溜息を吐いているに違いない。秋野は携帯のアドレス帳を呼び出し、哲にかけようか一瞬悩んだが、結局電話をソファに放り投げた。
 何も子供じゃあるまいし、ヨアニスも別に本気で哲を攻撃しようとはしないだろう。もしヨアニスが困惑し、嫌悪感を抱いたとしたらそれは自分にであって哲にではない。その矛先が一瞬哲に向いているのかも知れないが、長年の友人は真剣に哲を糾弾するほど愚かでも冷酷でもない。
 秋野は床に転がり、明日になったらヨアニスに電話をしようと思いながら、銜えた煙草に火を点けた。

 

 ヨアニスの視線を、哲は正面から受け止めた。やましいことなど何もないし、別にこの男に好かれたいとも思わない。暫く黙って見ていたら、ヨアニスが先に視線を逸らした。そりゃそうだろうな、と哲は他人事のように考えた。何せガンタレの年季だけは無駄に長い。
 長くなった灰を灰皿の縁にこすり付けるようにして落とす。煙草をまわしながら落としていくと、灰が剣先のように尖る。昔から、どういうわけかそうするのが好きだった。
「君は、——秋野が欲しいと思う?」
 ヨアニスが低い声で呟いた。哲は一瞬考えたが、やはり答えは決まっている。
「別に」
 即答に、ヨアニスが疑うように目を眇めた。そんな顔をされても、別に欲しいと思ったことはないのだから仕方がない。あの男に抱く感情は自分でも掴みにくいし上手く表現できないが、欲しいと言うのとは違う気がした。
 執着しているのか、と訊かれたらそうだと答えただろうが、それを教えてやるほど親切でもない。
「じゃあアキの片想いなのかな」
 どこからどう見ても白人のなりをして片想い、とか言われると冗談のような気がしてくる。訛りのない完璧な日本語なだけに、一層その感覚は強くなる。
「そういう意味で、好かれてると思ったことはねえけど」
「……耀司も、君とアキは好き合ってはいないと言ってた。僕にはまったく理解できない」
 ヨアニスはシャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出し、カウンターに肘を突いて金色のライターで火をつけた。藁のような色の髪を片手でかき上げながら、首を曲げて哲を見る。
「僕は、アキの友達だからアキが好きだし心配だ。別に君らのことを口喧しく言う気はないけど、あいつが人に言えない恋をするのはあまり嬉しくないんだよ。分かるだろう」
「あのなあ……」
 哲はうんざりしてヨアニスに体ごと振り向いた。
「別に恋はしてねえ、あいつのことも好きじゃねえ。あんたが俺があいつとやるのが常識的な友人として気に入らねえって言うなら俺はいつでもあんなことはやめてやる」
 哲の台詞に、ヨアニスは虚を突かれた様に黙り込んだ。多かれ少なかれ、哲の反発か怒りを想像してはいたのだろうが、ヨアニスの想像はこういった方向ではなかったのだろう。
 ——当然だ。片想いだの恋だの、そういう単語を使う時点で完全にはき違えている。男同士で関係している以上、そう思われても仕方がないのは分かるのだが、哲にとっては心外という以外の何物でもなかった。
「男に突っ込まれて俺が喜んでるとでも思うのか、あんた。冗談じゃねえ、あの馬鹿が相手じゃなきゃ首をへし折ってるとこだ」
 ヨアニスは僅かに表情を歪め、小さな声で囁いた。
「……それは、アキだけだ、ということは、君の中では愛とは言わないのか?」
「あんた、俺に肩を噛まれたらどう思う?」
 哲の言葉に、ヨアニスは目をしばたたいた。
「何——?」
「何ヶ月経っても傷が消えねえくらい酷く、だ。舌を入れりゃ物も喰えねえほど口の中齧られるのをどう思う? 腰振ってる最中に思いっきり横面張られたらどんな気分だ、なあ?」
 立て続けに吐き出される哲の質問に、ヨアニスは整った顔を困惑気に歪ませた。哲は暫くその顔を眺めていたが、獣じみた薄ら笑いを口元に浮かべた。
「あいつは、それでも笑う」
 哲は首を傾け、顔を引き攣らせるヨアニスを避けて煙草の煙を吐き出した。
「だから俺はあいつと寝る。そういうのを愛って呼ぶのか、あんたの国では」
「——野蛮だな。君も、アキも」
「まあな」
 素っ気ない哲の返事に、ヨアニスはカウンターに目を落とした。右手に挟んだ煙草の煙が天井に向け、真っ直ぐに立ち昇っていく。哲は短くなった煙草を灰皿に押し付けて消した。ヨアニスは、黙ってその仕草を目で追っていた。