仕入屋錠前屋29 ヨハネの再来 1

 ヨアニス。
 耳に馴染まないその響きは、ギリシアの名前だそうだ。目の前に立つ人物にギリシア人を思わせる部分は殆どない。欧米人と付き合いがない哲には、彼はアングロサクソンそのものに見える。だが、正直言って白人は区別がつかない。もっとも、哲には黒人もみんな同じ顔に思えるだけでなく、韓国人と日本人の見分けもつかない。
 日本語が通じるか通じないか。哲にとって「外人」の定義はそのくらいのものだ。そして目の前の男——金にも見える藁のような色の髪に濃い青い目——は、日本語を話すので外人とは言えない。
「君が、哲?」
 にっこり笑って見下ろす高さは酷く哲を苛立たせる。ということは、秋野と同じ身長か、もしくは非常に近い身長、と言う事だ。
 差し出した白い手を胡散臭げに見られても、男は頓着しなかった。どこぞの映画俳優のように整った顔を笑ませて、流暢な日本語ですらすらと話す。流暢、とは言えない。これは後で覚えたものではないだろう。イントネーションは完全に日本人と変わらなかった。
「僕はアメリカ人だけど、両親が永住ビザを持っててね。子供の頃暫く日本で暮らしたので」
 聞きもしないことをすらすらと話す男はにっこり笑い、背後の秋野は憮然として腕を組んで立っていた。

 

 哲が秋野について知っていることは、酷く少ない。それを不満に思ったことも不思議に思ったこともまるでないが、知っていることを挙げていくと、その少なさに改めて驚く。自分が如何にあの男の過去や人間関係に興味がないか知れようと言うものだ。
 当然親しい友人の話などしたこともないし、訊いたこともなかった。しかし秋野とて今まで生きてきた三十一年、数多くの人とすれ違ってきたわけだから、どんな知り合いがいても別に不思議ではない。そして現われた友人が日本語を日本人のように話すアメリカ人だと言うのもまた、秋野らしいと言えば秋野らしく、変わっていた。
「ヨアニスの親父は結構有名な日本文学の研究者で、昔から日本に住んでるんだ」
 秋野はヨアニスの隣の椅子でそう言った。ホテルのロビーは、ホテルそのものと同様、取り澄まして見える。最近オープンしたばかりのこのホテルは隅から隅まで無駄がなくシンプルで機能的で清潔で、哲に言わせれば息が詰まることこの上ない内装だった。
 目の前の男どもは、ロビーの洒落た椅子に二人で並ぶとまるで不気味な雛人形のようだった。片や仕立てのいいダークグレーのスーツとストライプのシャツにネクタイを締めた白人男、片やダメージ加工のジーンズにブラックシャツ、ブラックジャケット、ノーネクタイの混血男。
 どちらも同じような体型に同じような身長で、雰囲気と顔は違えど、元になっている型式は同じではないかと思わせるほど似通うものがあった。
「で、何人だって?」
 哲の質問に微笑むと、ヨアニスは座ったままで軽くお辞儀をしてみせる。
「ギリシア生まれ、日本とアメリカ育ちのアメリカ国籍。ヨアニス・クリフォードです。宜しく、哲」
「はあ」
 秋野からの電話は、いつになく歯切れが悪く、来たくないなら来なくていい、いやむしろ来ないでくれと言外に訴えていた。そういう声を出されると万難排してでも行ってやろうという気になるから不思議だ。誰かに無理矢理掛けさせられているかのようなその電話に誘われてふらふらとやって来たのがこのホテル、待っていたのは秋野と目の前の白人だった。
 昔尾山の家の近所に住んでいて秋野と知り合ったというヨアニスは、勤務先の企業——予想に反せず大企業だった——の日本における提携先の業務視察、と言う名目の出張に来たとかで、一年振りの日本だそうだ。どうせ哲のことを話して聞かせたのは秋野ではなくて耀司辺りだろう。秋野の仏頂面が如実にそれを物語っている。
 耀司は秋野が大好きなくせに、機会があれば秋野を困らせて喜んでやろうと窺っている。血は繋がっていないが、兄弟とはそんなものなのか。兄弟がいない哲にはよく分からない。
「アキの新しいお気に入りはどんなかと思ってね。本当は新しい恋人でも紹介してほしかったんだけれど、残念ながらまだいないようだから。二回も無様に多香子に捨てられて余程女に懲りたんだな、お前も」
 青い目を細め、爽やかに笑って酷いことをずけずけと言う。成程秋野の渋い顔にも納得できる。なかなかいい、もっとやれと声に出さずに呟くと、空気中の哲の言葉を読んだのか秋野の険しい目に睨まれた。それにしても青だの薄茶だの、インターナショナルな空間で恐れ入る。
 哲は欠伸を噛み殺しながら腰を上げた。昨日は久々に猪田と会って飲みすぎた。
「じゃあ俺帰るわ。バイトあるし」
「わざわざ有難う。気をつけて」
 当然秋野は憮然として無言でフィルターを噛んでいた。大きな手をひらひらと振るヨアニスに手を上げて、哲はホテルを後にした。

 

「耀司はお前が随分目をかけてるって言ってたけど。どうってことない、普通の青年に見えるな。まあ、ちょっと荒っぽそうでもあるけど」
 ヨアニスは長い脚を組み替え、頬に人差し指をあてて眉を上げた。そういう仕草はどこからどう見ても米国人、しかも猛烈に気障ときている。秋野は噛み締めてすっかりよたった煙草を灰皿に荒々しく押し付けた。本当なら床に吐き出してやりたいくらいだったが、それをしないくらいの分別と常識くらいは持っている。
「どうってことない青年なんだから当たり前だろう。大体俺が目をかけてるっていうのは違う。仕事仲間だ。それにお前が気に入るような男じゃない」
 ヨアニスが嫌いなわけでは決してない。むしろ好きだし、昔は耀司と三人、随分と悪さもした。それでもヨアニスのからかうような物言いは癇に障る。
 耀司が言うにはお互い似ているから腹が立つんじゃないか、ということで、どうやら秋野とヨアニスは似た部分が多いらしい。
 勿論そっくり、と言う訳ではないが、確かに秋野自身が振り返っても似ている部分はあった。何にしても、自分が今は言われたくないと思う台詞を必ず相手が吐くというのは、かなり忌々しいことだ。
「それはそうかもしれないな。彼はなんと言うか——」
「粗暴、凶暴、乱暴、横暴」
「暴、がつかない単語を言ってくれよ」
「どうでもいいだろ。大体なんでそんなに会いたがる」
 ヨアニスは、来日することを耀司の家に連絡してきた。その時耀司が余計なことをべらべら喋ったらしく、秋野の前に現われるなり哲に会わせろ、今すぐ会わせろと言い出した。いつもの不精振りを発揮してくれればいいものを、こちらが来て欲しくないと臭わせればにやにやしながらやって来るのが哲であるから、まったくもってどいつもこいつも手に負えない。
「お前が執着するなんて、興味深い。だろう?」
「知らん」
 椅子に沈んだ秋野の顔を、青い瞳が下から覗き込む。秋野が目だけ動かして睨むと、瞳の主は素知らぬふりで屈んだ体を元に戻した。
「こっちにいる間にちょっとくらいいじってもいいだろ」
「好きにしろ。噛み付かれても知らんぞ」
 仏頂面の秋野の肩を軽く叩いて、ヨアニスは楽しげに笑い声を立てた。