仕入屋錠前屋28 のぼりくだりの階段

 ざわざわと、それを追って毛穴が開く。
 血管の中を勢いよく流れる有害な物質。朝、最初に吸う煙草の中の、明らかに体を毒する微細な何か。肺に吸い込んだ煙が血液に溶けて体中を巡り出す、その一瞬。流れる毒の道筋のままに、肌が粟立ち頭が痺れる。
 悪くない。まったく、悪くない。
 くらくらする頭を反らせ満足げに溜息を吐きながら、哲は束の間目を閉じた。

 

 

 秋野は、足元の床に転がる哲を見下ろして、眉を顰めた。
 哲が夜中に酔っ払ってやって来る——そしてトイレで散々吐いて気持ちよく沈没する——のは初めてではないが、床で寝たまま腕を組み、目を閉じて煙草を吸っている姿は初めて見た。
「死んでるのか」
「生きてるに決まってんだろ、つまんねえこと訊くな」
 哲は目を閉じたまま眉を寄せ、銜えた煙草の先を揺らしてそう答えた。何となく娘か息子に説教を垂れている頑固親父のようだ。もっとも若干二十六歳の錠前屋は、どちらかと言うと説教される方だと思うが。そしてそれは年齢ではなく、主に素行に起因する。
「あー、畜生」
「何だ」
 哲の低い声に、秋野は眉を上げて問い返した。哲は相変わらず転がったまま、ゆっくりと目だけを開けた。どこかぼんやりとした視線が秋野を通り越して宙を彷徨い、吐き出した煙の行方を追った。
「……起き抜けの煙草は効く。最悪に」
 哲の緩慢な口調はどこか気が抜けたような、ぼやけた響きを帯びていた。いついかなる時でも短い言葉を吐き捨てるように喋る哲にしては、それは驚くほど緩やかな響きだった。しかし勿論、いきなり朝起きたら優しい心が芽生えていたとか言うものではない。
「——なんだ、ラリってたのか」
「るせえな、文句あるか」
 上体を起こして片膝を立て頭を掻くと、哲は煙草を再度吸い込んだ。
 苦しげに顰められた眉や窪んだ頬。煙草を吸い込む時、人は何故こうも切なげな顔をするのだろうか。自分もそういった表情をしているのだろうが、鏡で見ながら吸うわけではないから気にして見たことはない。秋野は哲の表情をのんびりと観察した。
 哲は普段、ゆっくりと味わうように煙を吸い込む。深く、肺の奥まで、血管の隅々まで有害な物質で満たされたいとでも言うように。だが今は、流れていくその一筋も惜しむかのように何度か立て続けに吸い込んでから灰皿に押し付けた。
「いつもと違う」
「あ? 何が」
 哲はいつも通りの素っ気ない口調で訊き返し、傍に立つ秋野を見上げた。
「吸い方が。いつもはもっとゆっくり吸い込むだろう」
「そうか? 知らねえ」
「そういう顔ってのは——」
 詰まった言葉を聞きとがめて、哲はきつい視線を秋野に向けた。寝乱れた髪の後頭部の一房が、おかしな方向に跳ねている。まだ僅かに重たげな瞼の奥で、それでもいつもの凶暴さは既に目を覚ましている。

「俺の顔が何だって?」
「……いや」
 せわしなく煙を吸い込む、その表情は。
 酷く扇情的だ、と。
 言えば本気で蹴られるだろう。秋野はちょっと笑って哲を跨ぐと洗面所に向かうドアを開ける。
「言いかけたらはっきり言え、馬鹿」
 哲はそう言いながらも、既に秋野に興味を失っている。大きな欠伸をしながら髪をかき上げ、滲んだ涙を掌の付け根で拭う。肩越しにその背中を見ながら、秋野は低く呟いた。
「俺は完全にどっかいかれてるな」
「何ぃ? 聞こえねえ」
「何でもない」
 肩を竦めた哲をそのままに、秋野は浴室の戸を引き開け、シャワーの栓をひねった。冷え切った浴室に湯気が立ちこめ、鏡が曇る。まるで体を毒する煙草の白い煙のように、蒸気が視界を覆っていく。
 まるで、のぼりくだりの階段だ。霧の中どこまでも続く、昇降を繰り返す長い階段。そんなイメージが惚けた頭にいきなり浮かんだ。
 哲の視線一つ、仕草一つで、自分はいとも簡単に心が動く。上がったり下がったり、思いも寄らぬ所に向かって、蛇行しながら這いずり回る。それは何かしらの特別な感情の起伏ではなくて、単なる気分の浮き沈みに過ぎないが、それでもまったく癪なことに動かされていることには変わりない。
 秋野は一つ息を吐き、今はまだ冷たすぎて入る気のしない浴室の曇った鏡に、誰に見せるでもなく苦笑した。
 仕方がない。自分で望んで昇りかけた階段だ。それがどれだけ長かろうがきつかろうが、急かされるまま進むしかないではないか。
 その先に何があるのか。それは今白い靄の向こうに霞んで消え、窺い知ることは不可能だった。