仕入屋錠前屋27 さすらい鳥 3

 秋野の黒い髪が風に揺れる。肌を刺すように冷たい風は、時折建物の間で渦巻くようにしながら吹き抜ける。長身を風に晒して立つ秋野は、どこか普通と違って見えた。
 何が、とは言えない。目の色以外は決定的に周囲と違うこともなく、常ならぬ何かがあるわけでもない。それでも、暗がりの中から名前を呼ばれたあの時から、秋野は変わらず、誰とも、何とも違って見える。
「哲?」
 秋野の低い声が名前を呼んだ。今更だが、今でも。名前を呼ばれると無意識にどこかが構える。柔らかそうに見せかけた爪が、臓物を掻き出し、腹の中を抉る気がする。
 そう——秋野が前に言ったように。望むと望まざるとに、かかわらず。
「——ああ」
 哲はとりとめのない考えを振り払って秋野に顔を向けた。秋野は相変わらず機嫌が悪い。それは、エリの付き合っていた男が結局どうしようもなかったという事実にも起因するし、エリを心配しているからでもあるが、残りの部分に関しては分からない。それだけが原因なのか、それとも他にも何かあるのか知らないが、とにかく口数は妙に少ない。

 

 金庫の中身は、映像が入ったディスクだった。見ただけでは当然中身が分からず、店の裏のテレビに映したそれは、男女の濡れ場、と言う奴だった。一瞬単なるAVかと思ってエリと顔を見合わせたが、そうやらそれは隠し撮りした物らしいと言う事が分かった。エリが、その部屋に見覚えがあると言い出したからだ。
 エリの男は、別に他人の行為を見てマスをかきたかったわけではなく、それをネタにケチな強請りをしていたらしかった。
「これ、彼の友達のやってるラブホだわ」
 エリは眉間に皺を寄せて画面を見つめてそう言った。
「それにこの人知ってる。なんだかっていうラジオ局のディレクターか何かよ。やあね、毛深くて」
 最後の一言は完全に余計だったが、その時点で哲とエリは各々溜息を吐いた。エリは恐らく、来るべき別れを思って。哲は、秋野の仏頂面を目に浮かべて。
 不倫や援交、同性愛、人に言えない情事を重ねる知り合いに親切面で相棒のホテルを紹介しては、盗み撮りして金をたかっていたらしい。ディスクを受け取りに来るのは男が雇った強請り担当のチンピラで、結局ママは人の善さに目を付けられて使われていたという話だ。
 自分も人に言えない性癖を持っていながら人の弱みを握ってたかるなど、一体何の冗談かと思う。それでいてエリに優しかったのは本心のようだから、人というのは不可思議な生き物だった。
 電話で、淡々と顛末を語るエリの心中を思うとなにやら哀れな気もしたが、大人同士の色恋沙汰なのだから哲が口を出しても仕方がない。何なら彼氏を一発殴ってやるか、と訊いたときだけ、エリの笑い声が酷く震えた。

 

 アイーダの入り口は、丁度道路に面しており、隣は時間制の百円パーキングになっている。この時間に酒場ばかりのこんな界隈に車で来る奴がいるとは思えなかったが、半分が埋まっていた。
「俺はここで待ってる」
 秋野は駐車場のタイヤ止めの上に腰掛け、長い体を窮屈そうに折りたたんで煙草の箱を取り出した。
「入んねえのか」
 哲が見下ろすと、秋野はああ、と口元を歪める。ライターの火が秋野の顔を照らし、あっという間に消える。暗がりに沈んだ秋野の顔に取り立てて変わった表情は浮かんでいなかったが、哲は暫しその顔を眺めた。形のよい眉が顰められ、薄茶の眼で睨まれる。
「……何だ」
「別に」
 背を向けると、秋野が吐く溜息と煙が追ってきた。秋野は何も言わないが、エリの嗜好に対して、父親のように苛立ち気を揉んでいるのが、今は分かった。それは意外と言えば意外なことだったが、相手を気に入ればどこまでも大事にするのが秋野だから、それ自体は別におかしなことでもない。
 自分も時折紛れもなく男である哲に手を出しているということは、秋野にとってまた別問題らしいというのは面白かった。恋愛感情が介在していないことがもっとも大きな理由だろうが、どちらも——肉体的には勿論内面的にも——女とは程遠い、というのもあるのかも知れない。
 女装や、いわゆるオカマ、ゲイ、と言った人種を否定しているわけではないのに、エリの姿を見たがらない秋野の心情。それは狭量、と取られても仕方ないものかも知れないが、哲はそう罵る気にはなれなかった。
 エリは、やはりどこか女なのだ。根本的にどうしようもなく男であるのに、それでもどこかに匂い立つ女という存在。さすらう鳥のように、男と女の間で行ったり来たりするエリの悲哀。それを見るのが辛い秋野は、きっと酷く人間らしいに違いなかった。

 エリはカナリアのような黄色のドレスにがっちりした体躯を包み、輝かんばかりの笑顔で哲に駆け寄ってきた。
「わざわざ悪いわねえ」
「いや、近くに用もあったから構わねえよ」
 エリは哲を引っ張ってカウンターに連れて行く。あれがママよ、と耳打ちされて見た先には、なるほどぼんやりした笑顔の、大人しそうなオカマが立っていた。軽く頭を下げると、どう見ても中年女にしか見えないママは僅かに笑ってカウンターを出て行った。
「もう大変だったのよ、別れたくないって彼、泣いちゃってさ」
 エリはからからと笑ってそんなことを言った。カウンターの前に、スツールには座らずに立ったまま話す。エリは秋野と同じくらいの身長があり、今はハイヒールのせいで更にでかかった。哲はフルメイクのエリを見上げて苦笑する。まったく、靴くらい低いのを履きゃいいのに。そういう意味ではエリはとことん潔い。
「秋野にも電話したんだけど、何も言われなかった。却って気味が悪いわ」
「あんただって子供じゃないんだから、あいつがうるさく言うことでもねえだろう」
 当の本人が仏頂面ですぐそこにいることは伏せておいた。エリは会いたがるだろうが、この攻撃的に露出度の高いドレスを見て秋野がぶち切れたら、それはそれで厄介だ。
「これ」
 エリはクラッチバッグを取り出し、封筒を寄越した。哲は黙ってジーンズに封筒を突っ込む。それはいささか厚すぎるような気がしたが、哲は多すぎる、とは思っても言わなかった。今のエリは、何かを自分の思い通りに出来ると思えたほうが幸せだろう。例えそれがしけた錠前屋でも、僅かな金でも、何でもだ。
「あーあ、また渡り鳥に逆戻りだわ」
 エリはつけ睫毛で飾られた目をぐるりとまわしておどけて見せた。それ程落ち込んでいる様子は見えないが、外見を取り繕うのには慣れているだろう。哲は差し出された灰皿に首を振って、エリを見た。
「いいじゃねえか、渡り鳥上等、どんどん渡って歩け」
「ちょっと、何よ他人事だと思って」
 中南海を銜えたエリがむくれて見せる。綺麗に塗った爪の先が、ほんの少し震える。
「下手な鉄砲も何とかって言うじゃねえか。そのうちあんたに合う男がきっと見つかる」
 エリは目を丸くして哲を見た。エリが息を吸ったのだろう、銜えた煙草の穂先が、不意に赤く光る。エリは暫くそのまま目を瞬いて哲を眺めていたが、大きく煙を吐き出し、ゴールドのアイシャドウに囲まれた目を細めた。
 いい顔だ、と哲は思う。いい女、と思えるほど哲は人間ができていないが、悲しくても明るく笑って前を向くエリの生き方は好きになれた。
「……あんた、実は結構いい男ね。あたしと付き合わない?」
「男はおっかねえのが好きなんだ、俺は。悪いな」
「あーもうついてないわぁ、あたしって」
 笑い声を上げたエリに手を振り、哲は騒がしい店を出た。カナリア色のドレスのいかついオカマは、また来てねえ、と後ろから野太く陽気な声で叫んでいた。

 

 秋野は足元に二本の吸殻をばら撒き、口に銜えた一本を犬歯で噛んでいた。目の前に立つと、顔を上げてじっと見る。
「行くぞ」
 哲がポケットに手を突っ込んだまま顎をしゃくると、億劫そうに溜息を吐き、それでも腰を上げようとしない。
「大丈夫だ、ありゃ元気だよ」
 哲の台詞に、秋野は少し首を傾げる。薄茶の眼は眇められ、寒いのか顔色は白い。
「口説かれた」
 秋野が思わず、と言ったふうに一瞬笑う。片方の口の端を曲げて笑うその笑みに、哲はうなじを這う何かを感じる。足元に蹲る不機嫌な猛獣は、ようやくその長躯を起こした。左手で拾い上げた吸殻を哲に押し付け、背を向ける。
「てめえのゴミくらいてめえで始末しろ、馬鹿」
 突然振り返った秋野が哲の右手を捻り上げる。開いた哲の掌から吸殻が零れ落ちた。
「何だよ」
 哲は秋野の顔を眺めた。エリに兄のような、父親のようなごくありふれた心配をして苛立つ秋野。その反面、初めて会ったときから変わらずどこか異質でもある。
 指先が痺れるほどの力で手首を握る指も、苛烈な視線も、噛み締めたフィルターの犬歯の痕も。
 お前は他の誰とも違う。人間らしく足掻きながらもその顎で俺を噛み砕く。違うか?
「哲」
「何だ」
 秋野は掴んだ時と同じように突然手を放し、黙って歩き出した。哲は舌打ちをして足元の吸殻を拾い上げる。三歩で追いつき背中の真ん中を蹴飛ばすと、つんのめった秋野が顔をしかめて振り返る。哲はその歪んだ顔に残酷な満足感を覚えながら、秋野の隣を歩き出した。