仕入屋錠前屋27 さすらい鳥 2

「ごめんねえ、ありがとう」
 エリは相変わらずの格好で、やたらと尻を振る歩き方で現われた。女がすればそれなりに目の保養かもしれないが、エリの硬そうで平らな臀部を幾ら振られても哲はげんなりするばかりだ。
 無言で促すと、エリはすりガラスの嵌った木の扉の前に立ち、いそいそと鍵を回す。扉の奥は観葉植物と複製の版画で飾られた短い通路になっており、かぎの手に曲がった向こうにフロアがあった。
「やっぱり彼、昨日も何かを預けて行ったの」
 先に立って店内を歩きながらエリは言った。
「もうほんと、変なものじゃなきゃいいんだけど」
「変なものだったらどうすんだ?」
 哲が訊くと、エリは眉を八の字にして溜息をつきながら肩越しに振り返った。
「そりゃあ、きれいさっぱりお別れするわ。悪いけど、オカマな上に犯罪者の恋人なんて最悪だもの。お金もないし、取り得って言ったら友達がラブホのオーナーで使い放題ってことと、優しいってことくらい。そんなしみったれた男だもんねえ」
 こぼしながら、エリはカウンターを回り、酒の載った棚の下を開けた。キャビネットになったそこは、開き戸がいくつか並んでいる。マホガニーを模した合板のキャビネットの一つを開くと、アイボリーに塗られた防火金庫が入っていた。
「これよ」
 哲はカウンターの上から金庫を覗きこんで頷いた。それ程新しくもない、一般的な防火金庫だ。持ち出し防止の据付タイプでもないし、大して手こずることもないだろう。
 大きな体を避けて哲を通したエリを見上げて、哲は昨夜の秋野を思い出した。結局あれから飲みに行くでもなく店の前で別れたが、殆ど口をきこうともしなかった。
「秋野が、あんたをえらい心配してた」
 余計な世話だと思いながらも、何となく口に出す。エリは悪戯を見つかった子供のような、何とも言えない顔になった。
「知ってるわ。心配してくれなくてもいいのにね。秋野って意外に常識的で意外に心配性なのよ」
「根っこは破綻してっけどな」
「そうそう!!」
 哲の言葉に、エリは我が意を得たりとばかりに掌を叩いて喜んだ。哲は金庫の前の床に座り込み、ポケットから使い捨ての手袋を取り出して慎重に嵌める。エリは興味深げにそれを眺めながら、近くのスツールを引き寄せる。
「本当に誰も来ねえんだろうな」
「来ないわよ、大丈夫」
 見上げた哲ににっと笑って、エリは煙草を取り出した。あまり似合わない銘柄の箱を左手で弄っている。
「——何で中南海なんだよ」
「うるさいわね、いいじゃない。文句あんの」
「ねえけどよ」
 哲は金庫に向き直って何度か両手を握り合わせ、手袋の空気を抜いた。エリはのんびりと煙を吐き出し、哲の作業を目で追っている。
「あたしの彼はさ、普通の男よ。ライターなんてやってて、マスコミにも顔が利く、なんて言ってるけど、顔見知りが多少いるくらいで実際お友達づきあいしてるのは普通の人ばっか。優しくて好きだけど、見栄っ張りで嫌んなっちゃうときもある」
 エリは低い声で、僅かに節をつけるように喋った。
「何をしてるんだか、普通にしてくれてればそれでいいのに」
 エリはそう吐き出して、あーあ、と大きな声を出した。金庫に屈みこむ哲に、「ねえ、ねえ」と何度か声を掛ける。うるさいので無視していたら、男声丸出しの太い声で再度呼ばれた。まったく、集中させてくれ。
「……ねえ」
「うるせえ。気が散る」
「いいじゃない、時間はたっぷりあるんだから」
 エリはごつい脚をスツールの下でぶらぶらさせながら話しかけてくる。哲は溜息を吐きながら何だよ、と返事をした。目の前の耐火金庫は最新式ではなかったし、防盗金庫よりは錠の造りも甘いのだが、話しかけられるとどうしても作業が遅くなる。それでもエリがよければ——そしてその言葉通り定休日で誰もここには来ないのなら——相手をしてやるくらいはいいのだが。
「いいじゃない、ちょっとくらい寂しいオカマのお喋りに付き合ってくれたって」
「分かった、早く言ってくれ」
 エリはひひひ、と変な声で笑うと、煙草を銜え、カウンターに頬杖をついた。
「恋人いる?」
「決まった女はいねえよ」
「決まってないのはいるの」
「さあな」
 続く他愛ない質問を適当に受け流しながら、哲の指は滑るように動く。薄いゴムの皮膜を通して感じるダイヤルの微妙な癖、ひっかかりと歪み。多分他の人間は気付かないその違和感を頼りに、少しずつ左右に動かす。エリが何か喋っているが、哲は指先に集中し、半分上の空で当たり障りのない相槌を返していた。
「あんた、秋野と寝てんの」
 いきなり耳に飛び込んできた質問に、哲は思わずダイヤルを回しすぎ、舌打ちした。よりによって何て胸糞悪いことを聞きやがる。そう思って見上げたエリは、真面目な顔で哲を見下ろして返事を待っている。
 哲は大きく溜息を吐きながら、不承不承頷いた。いちいち正直に言わなくてもよさそうなものだが、このオカマに嘘をついても、しつこく食い下がられそうな気がした。
「——たまにな」
 短い哲の返事に、エリは顔を輝かせて頷いた。
「やっぱりそうなんだ。ああ、心配しなくても、普通はわかんないわよ。あたしはほら、そういうの鋭い上に昔から秋野知ってるから」
「そう願いてえな」
 ぼやきながらダイヤルを合わせなおす哲に笑いながら、エリはスツールを降りて哲の隣に胡坐をかいた。
「うらやましいなあ、幸せで」
「アホか。そういうんじゃねえって」
 勘違いも甚だしい言葉に横目でエリを睨むと、エリはあらそう、と言って煙草を銜え直し、頬を窪ませ、眉を顰めて煙を吸い込む。女言葉を使って女の格好をしていても、そういう仕草は紛れもなく男のものだ。
 エリが女になりたい男なのか、性的嗜好のために便宜上そうしているのか哲にはよく分からないが、とにかく彼の根本は結局男なのだろう。もしも心底女になることを求めているとしたら、それなりに可哀相な話だと、哲は思った。
「あんなのが欲しけりゃくれてやるぞ。別に俺のもんじゃねえが」
「いらないわ、怖いもん。昔は憧れたりもしたけどね、ほら、格好いいから。でもねえ、この歳になったら見た目より中身よ。あんな物騒なのに惚れるほど根性ないのよ、あたし」
 そう言って哲の顔を一瞥すると煙を吐き出す。
「でも、正直言って意外だわ。秋野もあんたも、ノンケ以外の何者にも見えないんだけど。今回はあたしの勘が間違ってるのかなあ、と思ってた」
 哲はやっと微調整しなおしたダイヤルから手を離し、エリを見た。エリは短くなった煙草を吸いながら、片眉を上げて哲を見ている。
「別に、成り行きと勢いの結果ってだけだ」
「でも普通はそれで男同士どうにかなったりしないもんよ」
 哲はしつこく拘るエリを横目で見ると、手の甲で額を擦りながら適当に呟いた。
「——物騒なのが好きなんだよ」
「ああ、そりゃ仕方ないわねえ。まあ、物騒って言えば秋野以上なのはそうそういないわ」
 いい加減な哲の返事に、エリはごつい肩を竦めてにいっと笑う。化粧を施したいかつい顔は凶器のようにも思えるが、愛嬌がないとは言えない。
「私ねえ、色んな男と付き合ったのよ」
「……はあ」
「ちょっと、あんた今お前みたいなのと付き合う男の気が知れないとか思ったでしょ!」
 哲の内心を読んだかのようにエリは言うと、自分でげらげらと笑い出した。その顔に卑屈さや自嘲はなくて、あるのは哲をまごつかせたことに対するちょっとした喜びだけだった。
 そういう顔で笑われると、どうしても嫌いになれない。卑屈な人間は嫌いだし、うんざりするが、少なくともエリはそうではないらしい。頬を緩めた哲の、針金を使う手の動きを見ながらエリは続ける。
「もう正にさすらい鳥よ、男から男へ。……今度ばかりは、巣を見つけたと思ったんだけど。また秋野に怒られちゃう」
 哲の手の中で錠が小さくかちりと音を立てた。話しながら溜息を吐くエリを見上げ、哲はほんの僅か首を傾げた。エリは、本当に金庫が開くことを望んでいるのだろうか。もしかすると、陽気な態度と饒舌の陰には開かなければいいと言う一縷の望みが、あったのだろうか。考えてみたところで分かるわけはないが、一瞬開くのを躊躇する。
 エリは明るくて、自分を憐れんでいるようでもない。それでも世間的には忌避される性癖を持ち、おまけに外見はちっともそれにそぐわない、それで何一つ悩まないわけがないだろう。知らぬ振りをすれば失わないかも知れない——それさえ確実ではないにしろ——エリの言う巣を木の枝から振り落とす、最後の一蹴りをするのは気が引けた。
 それでも、ここから先は自分の領分ではないし、開けることが俺の仕事だ。そう思い直して、哲は短く息を吸った。
 無言でレバーを引くと、微かな金属の軋みと共に扉が開く。エリの顔が強張って、眉間に深い二本の皺が寄った。その顔は恐ろしげで、見ようによってはプロレスの悪役か何かにも思えたが、哲にはなぜか初めてエリが女に見えた。