仕入屋錠前屋27 さすらい鳥 1

 右腕に人間をへばりつかせて現われた秋野に、哲は思わず吹き出した。
 その人物の格好もさることながら、それをぶら下げた秋野の顔が、これ以上ないと言う位渋い表情だったからだ。
 恐らく笑われることを予期していたであろう——しないわけがない——秋野は右腕を見下ろしたが、太い腕に絡まれたそれは、容易に自由になりそうもなかった。

「初めまして、エリです」
 そう名乗った男は、多分今この瞬間、半径百キロ以内で最もエリと言う名前が似合わない人物だということは確実だ。
 ニットカーディガンから覗くロゴとスパンコールで飾られたTシャツは逞しい胸筋によって盛り上がり、ロゴは昔懐かしの横倍角状態になっている。これでスカートなど穿かれていたら目にしただけで倒れてしまいそうだが、幸い下は女っぽいデザインではあるものの、ジーンズだった。
 それでも、いかつい顔を縁取る巻き髪に、哲はさすがに眩暈を覚えた。耀司の女装も気色悪いが、耀司はまだ体も細いし、化粧をすれば顔も見られる。しかし、今目の前にいる軍隊から脱走してきたゴリラみたいな生き物は、耀司とは比べ物にならないほど恐ろしかった。こういう芸能人がいたような気がしたが、テレビ画面で見るのと目の前にするのとではわけが違う。
「……どうも」
 それでもやっとの思いで声を絞り出し、殺人的な迫力の笑顔を眺めた。彼——彼女とは思えない——は、秋野と変わらない高さにある顔を、一層綻ばせた。

 秋野の仏頂面と対照的な笑顔の男は自称エリだったが、耀司が言うには本名は富田勝と言うそうだ。エリよりマサルのほうが数段似合っているが、本人がエリだと言い張るからエリでいいんだろう。どうでもいいことだと半ば聞き流しながら、哲は煙草を銜えなおした。
 大谷ビルヂング——相変わらず、「ル」はないままだ——の耀司の家は、今日も甘ったるい匂いに包まれている。先日真菜から貰った包みはケーキでちょっと閉口したが、腹に入れば同じかと思い直して何とか食った。
 真菜のガスオーブン熱は冷めていないようで、本人は留守だが耀司によって目の前に山盛りのクッキーが置かれている。哲と秋野は見て見ない振りをしているが、エリはさっきから嬉しそうにつまんで——小指は立っていた——口に運んでいる。
 富田勝——エリは、耀司の中学高校の同級生だそうで、耀司は久し振りに顔を見るとかで嬉しそうだった。この格好を見ても驚かないと言うことは、それなりに年季が入ってるのだろう。
「俺がゲイバーなんかに勤めようと思ったのは勝の勧めがあったからなんだよね」
 それを裏付けるように耀司が言い、哲は何となく想像する。秋野の仏頂面はその辺も込みなのかもしれない。
「もう、勝じゃなくてエリって呼んでって言ってるじゃない」
「お前だって俺のことマナって呼ばないじゃんか」
「馬鹿ね、あんたは贋物だからいいのよ」
 野太い声の女言葉に、秋野が益々憮然とするのが酷く面白い。哲が喉の奥で笑うと、秋野に思いきり睨まれた。秋野は一層深くソファに沈み、剣呑な目で哲を眺める。
「おっかねえ顔」
 哲が笑うとエリがこちらを向き、何度か哲と秋野の顔を交互に見やって首を傾げ、もう一度哲に笑い掛けた。こちらは別の意味でおっかないことこの上なかったが、まあ見慣れてしまえばそれまでで、結局は秋野のほうが余程恐ろしいことに変わりはなかった。

「あたし、アイーダって言う店に勤めてるんだけど」
 おかしな名前だと思ったが、哲は敢えて口には出さなかった。このプロレスラーみたいな体で暴れ出されたらそれはそれで楽しそうだが、さすがに秋野と耀司の知り合いにまで喧嘩を売るほど暴力に飢えてはいない。いや、それでも向こうから売られれば喜んで買わせて頂くが、向こうにその気はないだろう。エリの巻き毛を眺めながら哲は曖昧に頷いた。
「店の金庫を開けてもらえないかなあ、と思って。秋野に相談したらあんたに頼めって言うから」
「横領にしては随分な力技じゃねえか」
 眉を上げた哲に笑いながら、エリは隣の秋野の腿をばしばしと叩いた。秋野が嫌そうに顔をしかめて体を斜めにし、脚を避ける。
「勝、痛いからやめろ」
「勝じゃないって言ってんのにっ」
 小鼻を膨らませて迫るエリを煩げに見て、秋野は立ち上がって哲の隣に移動してきた。
「お前の隣のがまだマシだ」
「秋野は哲の隣が好きなだけなんじゃないの」
 耀司の軽口を完全に無視して、秋野は煙草を銜えて火をつけながら、哲を見ないで口を開いた。
「勝の付き合ってる男ってのがアイーダの常連なんだと」
「そうなの。そうなのよ」
 突然目的を思い出したのか、エリがテーブル越しに上半身を乗り出してくる。
「まあ、どうってことない見た目だけど、でも大事にしてくれるし、あたしはまあまあ幸せなんだけど。何かよくないことしてるみたいで」
「よくないこと?」
 耀司がコーヒーの入ったマグの縁から怪訝そうにエリを見る。
「わかんないのよ、具体的には。ママも一枚噛んでるのかしら。でも、ママはぼーっとしてるから関係ないのかも知れないし」
 エリは膝の上で大きくごつい手を捩った。
「最近、店に来るとね、あたしの目を盗むみたいにして何かママに渡すのよ。ママはそれを金庫に入れて、大抵次の日、男がそれを引き取っていくの」
 エリは眉根を寄せて哲を見た。
「それが何か、知りたいの」

 

 エリが独りで帰った後、秋野は相変わらずの仏頂面でソファに沈んだままだった。耀司はエリが半分程征服したクッキーの山を別の容器に移したりしながら、新しいコーヒーを運んで来る。真菜も料理上手だが、耀司もかなりまめな部類に入るだろう。客にコーヒーだ茶菓子だと、いつも楽しそうに準備する。
「いやー、久し振りだったから楽しかったな」
 耀司はにこにこ顔でそれぞれの前にカップを置いた。
「哲、びっくりしたろ? 俺あいつとはずっと仲良くてさ、秋野も昔から親戚かなんかみたいにかまってやってたんだよね」
「昔からああなのか」
 哲の疑問に耀司は腕を組んで考え込んだ。
「いや、高校のときは女の子と付き合ったりしてたような気がする。もう突き抜けてああなったのは大学ん時だけど、元々そうだったのかどうかは聞いたことない」
「へえ」
 普通に見えて案外普通でない耀司のことだから、どうせどっちでもそれ程気にしないのだろう。哲はコーヒーを啜りながら相槌を打った。
 エリは今、フリーのライターと付き合っているのだそうだ。その男はエリの勤めるゲイバーの常連で、エリは毎晩口説かれてその気になったとか。あのいかついのを口説く勇気があるライターに哲は心底感心したが、それはこの際関係ない。人の好みは千差万別、そういうことにしておこう。
 そのライターが、エリの目を盗んでは、ママに何かを預け、ママはそれを金庫にしまうと言う。エリの心配は、男がクスリや何か——とにかく手が後ろに回るようなことをしていないかどうか、と言うことだった。
「さっさと別れちまえばいいんだ、そんな男」
 秋野が低い声でぼそりと呟いた。秋野がこういうことを言うのは珍しい。哲は首を捻って耀司を見たが、耀司は微かに苦笑したきり、何も言おうとしなかった。

 哲の勤める居酒屋の店主の娘が、先日ハワイで結婚した。家族総出で出向いたハワイに余程感激したのか、親父は土産だ写真だとおおはしゃぎだった。いかにも和風、居酒屋でございます、と言った店内に飾られたいくつかの不似合いな代物——ピンクのレイをした木彫りの人形とか、ウクレレとか——が、未だその名残をとどめている。
 秋野はカウンターの端に飾られた親父さん自慢の娘のドレスの写真を前にして、しきりと溜息をついていた。
「何だよ、ふられた女の写真でも見てるみたいだな」
 哲が隣の椅子を引き出して腰掛けると、秋野は億劫げに顔を振り向けた。店は一時間ほど前に閉まって、ようやく後片付けが済んだところだ。最近哲は最後に戸締りをして帰ることが多く、その時間を狙ったようにして秋野が現われることもまた多い。
 もっと早くに来て店に金を落とせと言ったら、お前が厨房に引っ込んでいるのに来ても意味がない、といけしゃあしゃあと口に出す。まったく救い難い二枚舌だ。
 腰から下の黒い前掛けを外しながら、哲はカウンターに突っ伏した。
「眠てえ」
「明日、何時に行くんだ?」
「一時」
 哲は突っ伏したまま投げやりに答えた。エリとの約束は明日の午後一時、アイーダの前だ。明日はアイーダの定休日で、誰も店には出てこない。その隙に金庫を開けてほしいというのがエリの頼みだった。エリはママの信頼篤く、店の鍵は預かっているという。
「そうか」
 秋野は低く呟いて、また溜息を吐いた。まったくさっきから溜息ばかり吐きやがって、聞いてるこっちの気分がしけてくる。哲は顔を上げて秋野を睨み、カウンターの下で蹴飛ばした。
「さっきから景気悪ぃな、お前は」
「——ああ」
 秋野は右手でがりがりと頭を掻き、呻きながら背を反らす。
「勝のことを考えると気が沈む」
「何で。ろくでもないフリーライターにひっかかってるからか」
「……というか、何というか。いや、俺がどうこう言うことじゃないがね」
 哲が外した前掛けに手を伸ばして引き寄せ、秋野は呟く。親戚のように可愛がった少年の行く末が心配だと言う事なのだろうか。哲は肩を回しながら隣の秋野の横顔を窺った。なぜか丁寧に前掛けを畳んでいる。
「同性愛者じゃなかったとしても、悪い女にひっかかることだってあるぞ」
「まあな」
「そう言うお前だって俺とやってるじゃねえか」
「わかってる」
「じゃあ何でそんな不機嫌になんだよ」
「うるさい、黙れ」
 畳み終えた前掛けを押しやりながら、秋野は哲を見ないでそう吐き出した。声は荒げず、表情も常と変わらない。それでもそれ以上訊くな、と言うメッセージは間違いなく伝わった。哲は無言で肩を竦めると、前掛けを掴んで立ち上がった。