仕入屋錠前屋26 彼の世界を変えるひと

 ホテルの濃いベージュの絨毯にしゃがみこんだ遠山は、まるで電池が切れたように動かなかった。
 秋野が夏実を抱えて姿を消して、狭い客室の緊張感は一気に緩んだ。その代わり、垂れ込める空気はなぜか重苦しい。秋野は部屋を出がけに、夏実を部屋まで届けて戻ってくると言い置いた。それならばとここに残ってはみたものの、いたたまれない雰囲気に、哲はそっと溜息を吐く。
 自分の女の不始末は自分の不始末、ということになるのだろうか。祥央会を引っ込ませるには、何がしかのお土産が必要だろう。遠山の女にからかわれただけとあっては、向こうも面目が立たないに違いない。指か命か、それとも金か知らないが、そんな物騒な相談が始まる前にとっとと退散したかった。
 哲が壁に凭れた背を浮かしかけたとき、ナカジマが低い声で呟いた。
「なあ、遠山」
「——はい」
 返す言葉は、聞き取れないほど弱々しい。
「何なんだ?」
「え……?」
 遠山が顔を上げた。茶色の前髪が色を失った額に貼り付いていた。切れ長の眼が訝しげにナカジマに向けられ、質問の意味を問う。
「さっき、あの子がお前にぶつけたもんさ」
 遠山は握ったままの掌をぼんやり見つめた。ナカジマは首を傾げる。
「まさか、ヤクとかじゃねえだろうな? お前、うちの組がクスリはご法度なのは知ってんだろう?」
「ヤク?」
 遠山は目を瞬いた。放心したような表情のせいで、若いヤクザは妙に子供っぽく見える。
「だってお前、あの子がお前を困らせるためにわざわざ盗って、祥央会に売ろうとしたんだろうが。そんな大事なもの——」
 遠山の顔が僅かに歪む。次いで、それは見る見る赤くなった。哲とナカジマが見守る中、耳の先まで赤くなった遠山は、ゆっくりと右手を差し出す。
 開いた掌には、擦り切れた小さなお守りが載っていた。

 

「そうかい、来ちまったかい」
 風が新緑を揺らす。萌え出した草木の明るい緑が、中嶋の背後、窓越しに見えていた。
「ちゃんと卒業して来ました」
 殺風景な事務所の中はあの時と変わっていなかった。相変わらず趣味の悪いネクタイを締めたそのヤクザは、細い目を遠山に注ぐ。洋モクだったんだ、と、煙草の箱を目にして遠山は思う。あの時は、中嶋の煙草の銘柄に目など行きはしなかった。中嶋の前にあるその箱を眺めながら、その分、ほんの僅かではあるけれど、自分は成長したのかと思ったりもした。
「まあ、お前さんの人生だ。ろくでもない世界で生きていこうってんなら、そうすりゃあいいさね」
 頭を掻いて煙を吐き出す中嶋に、遠山は右手を差し出す。
「これ、」
「何だ、お前さんまだ持ってたのかい、こんなの」
 有名な神社の、小さなお守り。学業成就のその赤い袋は、今回はその任を間違いなく果たしたと言えよう。
「誰の土産だったかなあ、もう覚えてねえな。何を間違ったかヤクザに学業成就なんて嫌味かと思ったけどよ、何でも役に立つことがあるもんさね」
「役立ちました、少なくとも俺には」
 中嶋は細い目を細め、仕方ねえなあ、と言って笑う。遠山は、二年前に決めたことをまた決めた。中嶋さんの役に立つようになろうと。
 ヤクザなんて、所詮は日陰者だ。こうやって遠山を気に掛けた中嶋だって、実はどんな汚い、物騒なことをやらかしているか知れたものではなかったが、それでも構わないと思ってしまった。
 こういうのを、男に惚れると言うのだろうか。それこそ任侠の世界、はっきり言って柄ではなかったけれど、堅気の世界で鬱々と送る人生より、ろくでなしでも幸せになりたかった。多分、目の前のヤクザが、彼の世界を変えるひとになるのだろう。遠山はもう一度中嶋の煙草を見つめ、薄く微笑んだ。
 「何笑ってんだよ」
 中嶋は遠山を見て苦笑する。両親も家も兄も何一つ要らない。切り捨てようと思うのは、中嶋に会ったあの日に諦めた。捨てようと思って捨てられるものではないことに気付いたから、というのも勿論ある。
 ただ、それだけではない。きっと泣くだろう彼等を措いても、僅かに残る良心を措いても、目の前のこの人が変える世界について行く、それだけが望みだった。
 遠山は、小さなお守りをポケットにしまいこむ。ご利益があったんだから捨てちまえ、と笑う中嶋に頷きながら、遠山はポケットの中の手を握り締めた。

 

 哲がホテルを出ると、秋野は車寄せの辺りにぼんやりと立っていた。タクシーが、近づいてくる哲にドアを開ける。首を振って見せると、肥った運転手はガラス越しに肩を竦めた。
「あの子は」
 哲が訊くと、秋野は哲をちらりと見下ろした。
「部屋に放り込んできた。泣いてるか寝てるかしてるだろう」
「お前、優しいのか冷たいのかまるでわかんねえな」
 先ほどの秋野を思い出し、哲は正直に口に出す。泣き崩れる夏実を抱き締める秋野の仕草は、酷く優しかった。そのさなかに哲を見やった視線以外は。
「優しくなんかない」
 呟く秋野の声は硬かった。秋野を促して歩き出しながら、哲は横を歩く男の削げたような輪郭を眺めた。夏実に同情したのか、それとももっと別の感情だったのか。哲にはどうでもいいことだが、優しくないと本人が言うのならば、違うのだろう。
「誰かのすべてを手に入れたい気持ちは、よく分かる」
 秋野がぼそりと呟いた。
「相手がそれを望もうが望むまいが、傷つけてもいいから全部手に入れたいと思うのは。だから」
 哲は秋野の長い睫毛が作る陰影を見上げた。愛情は、時に酷くエゴイスティックだ。夏実の叫びは胸に迫ったが、遠山にはどう響いたか。
「あの子とお前のは、違うだろ」
「——まあな」
 今更、秋野が誰を欲しいかなどと訊くつもりはなかった。どうせ秋野が自分の名を吐いたところで嬉しくなるものでもないし、はいそうですかと与えてやれるものでもない。
「……飲みにでも、行くか」
「そうだな」
 答えながら、握った拳で軽く脇腹を打ってやる。小さく呻いた秋野の足を避け、哲は低く喉を鳴らした。

 

 後日聞いた話では、北沢組系列のおしぼり業者が、得意先をいくらか手放したと言うことだった。今は、祥央会に繋がる業者がその得意先におしぼりを納入しているに違いない。幾らの損失なのか、詳しいことは知らないが、それが夏実の電話に対する謝罪になったと見ていいのだろう。
 遠山の指が一本減ろうがどうしようが哲には関係はなかったが、まあ余計な血が流れないに越したことはないだろう。
 それに。
 自分の掌を眺めながら、哲は思う。
 たった指一本でも、欠ければそこから、必ず何かが零れ落ちる。掴み取ったはずの、何かさえ。
 今日は珍しく酔ったのか目の前のソファで寝息を立てる秋野の髪を、ふと思いついて掬い上げる。指の間から流れ落ちる黒い筋は、あの日の夏実の髪によく似ていた。
 あの男は、何をつかもうとして何を手放すのか。遠山の手に握られた小さなお守り。堅気を食い物にしてのさばるヤクザの大事な思い出。掌に纏わりつく黒髪の、持ち主の頭の中。
 どれもこれも難解だ。まあ、理解できなくても問題ないし、分かったところでそれでも世界は変わらない。
 眠り込んだ秋野の髪から手を離し、哲は立ち上がって部屋を出た。