仕入屋錠前屋26 両手いっぱいの 5

床の一点を見つめていた遠山は、哲の二度目の呼びかけにやっと顔を上げた。自分がどこにいるか分からないような表情で瞬きし、こちらに顔を向ける。哲の後ろの、秋野に連れられた夏実を見て、表情が強張った。
「夏実、お前」
 夏実は、一言も発しなかった。哲と秋野の前で散々泣き喚いたが、これから遠山と会うと告げるとぴたりと収まって静かになった。それから遠山が指定したホテルに着くまで、何も喋らず、表情も動かず、人形のように歩くだけ。哲が遠山から盗ったものは持ったかと訊いた時だけ、黒い目を光らせて持ったわ、と低く答えた。
 遠山は腰掛けていた椅子から立ち上がったが、夏実は遠山を見ようとしなかった。この先は二人の話で、自分たちは関係ない。そう思い、部屋を出ようとする哲の腕を、夏実が掴んだ。
「行かないでよ」
「——俺達には関係ねえ」
「行かないでよ!!」
 びっくりする程大きな声で夏実は怒鳴り、哲を見上げた。
「けどなあ、あんた……」
 哲は夏実を見たが、彼女の顔は既に背けられていた。溜息を吐いて夏実の細い手を引き剥がす。見た目と違って随分と熱いその手をゆっくりと下ろして、哲は言った。
「わかったよ。あんたが居ろってんなら」
 こくりと頷いた夏実の背を遠山の方に軽く押しやって、哲は秋野の隣に立った。秋野が横目で哲を見下ろす。女に負けたことを非難しているのか、それとも女に優しくないことを非難しているのかはよくわからない。睨みつけると目は逸らされたが、哲は一瞬歪んだ頬を見逃さなかった。軽く蹴飛ばすと、同じようにして返される。まったく、いけ好かない奴だ。
「夏実、お前あれ持ってんだろう」
 遠山の静かな声が、重苦しい沈黙を破る。夏実は腿の横で白くなるほど握った拳をぴくりと動かし、それでも質問には答えない。
「夏実」
 苛立ったような遠山の声に、夏実は細い声を出す。
「奥さんと別れてよ」
「……何でだ」
「愛人じゃ嫌」
「今そんな事言うな。大体最初からそのつもりで、お互いに話したろ」
 遠山の細面が歪められる。それは忌々しい、というのではなく、傷口に塩を擦りこまれたような表情だった。遠山は女房とうまく行っていないのだろうか。昼間のドラマのような目の前の情景に、何となくそんな事を考えて哲はひっそり苦笑する。他人事だと思えば、幾らでも無責任になれるものだ。秋野が腕時計にちらりと目をやった。つられて哲も秋野の腕を見る。秋野は視線を上げ、夏実の背中を物憂げに見やった。
「夏実、返せ」
「何よ、あんなもの捨てたわよ! そうやって仕事仕事って、私」
「夏実!!」
 遠山の怒鳴り声に、気の抜けた声が被さった。
「女を怒鳴るのはよくねえなあ、遠山」
 客室の重たいドアを開けて、ナカジマのキツネ顔が覗いていた。困ったような表情のナカジマは、秋野に目を向けて肩を竦め、「何もこんな修羅場に呼んでくれなくたっていいのによ」と呟いた。

 

「すいませんね、お呼び立てして」
 秋野ののんびりした低い声が、決して広くない客室に妙に響く。ナカジマは頭を掻きながら秋野に対した。遠山と夏実は固まったまま、口論も忘れてしまったように突然登場したナカジマを見つめている。
「男と女の話になんで俺が出張る必要があんのか、ちゃんと説明してくれんだろうね」
「その話はあの二人に任せますが、祥央会絡みなんでね。ナカジマさんにも話通しておくほうが無難でしょう」
 ナカジマが眉を上げて秋野を見る。「祥央会?」と呟いて哲を見、遠山を見た。遠山は訳が分からないという顔をしていたが、夏実が唇を噛んだのを見て、秋野を見やって目を眇めた。
「夏実さんが、あなたの秘密を売るって祥央会に連絡を取ったんですよ、遠山さん。あなたは随分向こうに買われてるようですよ。今更冗談だ、痴話喧嘩のとばっちりだって言っても納得しないでしょうから、ナカジマさんに知らせないってわけにも、もう行かないと思ってね」
 秋野がナカジマに目を戻すと、ナカジマは遠山と夏実を見て溜息を吐き、秋野を見上げた。
「何で兄さんがそんなこと知ってんだい」
 ナカジマの疑問に秋野は顔をしかめて見せた。
「彼女、知り合いの妹でしてね」
「夏実、何やってんだ、お前」
 遠山の呆れたような声に夏実の体が跳ね上がった。
「あなたが欲しいからに決まってるじゃないの!!」
 夏実の顔が蒼白になった。ナカジマが目を瞬いて夏実の背中を見る。
「奥さんとうまく行ってないのは知ってる。私がただの愛人なのも知ってる。あなたは仕事が一番大事なのも知ってる! だけど私、だけど——」
「夏実」
 遠山はもう一度、小さく吐き出した。
「返せ」
 夏実はやおらジーンズのポケットに手を突っ込むと、小さなものを思いがけない力で遠山に投げつけた。遠山の頬に、鋭い音を立ててそれがぶつかる。夏実の眼から涙が溢れて頬を伝った。遠山は、夏実を見ないでゆっくりと屈みこみ、拾い上げたものを掌で握りこんで、立ち上がらずに囁いた。
「これで仕舞いだ」
「嫌」
「夏実」
「嫌、嫌、嫌!!」
 駄々っ子のように首を振る夏実は、顔を覆って泣き出した。遠山は床を見たまま立ち上がらず、ナカジマは腕を組んで傍観者に徹している。哲は見ていられずに顎を掻いたが、隣の秋野が壁に凭れた背を起こした。

 大股で夏実に近づいた秋野の手が、揺れる彼女の細い肩を引き寄せる。小柄な夏実は、秋野の腕の中で酷く儚く、まるで小さな子供に見えた。秋野が、あやすように優しく、胸に抱いた夏実の体を揺らす。何度も、何度も。低い声で、多分さして意味のない慰めの言葉を囁きながら、その額に口付けながら。
 子供のように声を上げて泣く夏実の髪を撫でながら、秋野の薄茶の瞳が哲を見た。