仕入屋錠前屋26 両手いっぱいの 4

川端の知り合いの探偵——名前は聞かなかった——は、遠山の愛人だと言う女の家族構成を調べて来た。
 遠山が取り戻したいのは女が遠山から盗んだ物。それを返してもらうために女に会いたいというのが遠山の話だった。
 遠山が女を住まわせていた部屋からは当然ながらとっくに姿を消しているらしい。勤め先のクラブにも顔を出しておらず、両親は遠く離れた地元に住んでいた。
 哲は目の前のアパートを見上げた。四階建てのアパートは、独身者用のものだ。ここに女の兄が住んでいるらしいが、しかし一体どうしたものかと哲は首を傾げた。
 妹さんが、ヤクザと付き合っていて、盗みをしたそうです。だから引き渡して下さい?
 哲は溜息を吐いて煙草を取り出す。どう考えても兄が妹を盆に載せて差し出すわけがない。仕方がないから暫く様子を見て、もし妹らしき女が現われたら遠山自らお出まし願うか。しかしそれも随分忍耐の要る話だ——そう思いながら上を見上げて、哲は口を開けた。視線に気付いた秋野が哲を見下ろして怪訝そうな顔をする。
「哲、何やってるんだ」
「こっちが聞きてえ」
 階段を降りてきた秋野が、薄茶の目で哲を見下ろし、首を傾げた。

 

 但木夏実はきれいな女だった。ただどこか寒々しい印象を与えるのは、細すぎるうなじのせいか、それとも表情がないせいか。
 どうやら同じ女が係わっているらしいと分かり、哲は秋野と連れ立って夏実の部屋に顔を出した。家具の殆どない殺風景な部屋は、居心地よくしようという努力が微塵も感じられない。そこにあるものを、そのまま使っているだけの部屋。
「あんた、北沢組の遠山正志の女なのか」
 哲の質問に、夏実は目を瞬いた。ゆっくりと首を動かして秋野を見、もう一度哲に視線を戻すとこくりと頷く。相変わらず、笑うでも戸惑うでもなく、その表情は動かない。黒いニットは襟ぐりが広く、細い鎖骨が浮き上がっていて一層儚げに見える。ジーンズの膝を抱えて床に座った夏実は、もう一度頷いた。
「愛人よ。素敵でしょう、ヤクザの情婦。映画みたい」
 素敵とは欠片も思っていない口調で夏実は呟く。秋野が息を吐いて床に座った。
「借金の話は嘘なんだな」
 夏実は黙って秋野を見た。
「さっき但木のところに寄って来た。あいつの所にはヤクザなんか現われてないらしい。普通、あいつらは家族のところにもやって来る。あんたが言ったように逃げ回っているのが本当なら」
 哲は秋野の後ろの壁に凭れた。夏実は暫く黙り込んでいたが、ようやく口を開いた。
「そう、嘘」
「何で祥央会があんたを探してる?」
「私が電話したから」
 夏実はそう言って、跳ねるように立ち上がると苛々と歩き回り始めた。まるで何かを一枚剥いだような急激な変貌。
 人形が突然歩き始めたようで、一瞬別人がいるかと思った。無表情は、感情の蓋だったのか。哲はいきなり苛立ちを露にした夏実を眺めてそう思った。噴出しそうなものを押さえつけるための脆い蓋。
「北沢組の遠山の秘密を握ってるって電話したから。遠山に捨てられて復讐したいから、取りに来てって電話したの」
 挑戦的に二人を睨む夏実の目は充血して赤かった。眦を吊り上げ大きな目をぎらつかせて立つ夏実は、ついさっきまでの無表情が嘘のように生気に満ちていた。どこか不健康な、切羽詰ったものが感じられたが、それが彼女の昏い美しさを一段と引き立てているようにも見える。
「じゃあ何で逃げる」
 床に目を落として爪を噛んでいた夏実が、顔を上げて秋野を睨み付けた。
「秘密なんてないもの!」
 夏実は大声を上げた。ヒステリックな高音が哲の癇に障る。夏実は握り締めた拳で何度も自分の腿を叩きながら喚く。
「遠山を困らせてやりたかっただけよ……困らせたらきっと追いかけてくれると思ってた。私はただ、両手いっぱいの愛がほしかっただけ!! 遠山が好きなの!」
 悲鳴のようなその声は、今はここにいない遠山に向けて発せられたものだった。答えも、慰める言葉すらも持たない哲はただ黙って荒れ狂う彼女を見つめた。黙りこむ哲と秋野など目に入らないように、夏実は突然ぼろぼろと涙を零した。頬を伝う涙はまるで紛い物の宝石のように、やけに輝いて見える。
「奥さんと、私と、中嶋さんと、三等分なんて嫌よ! 私は全部欲しい! 両手に抱えきれないくらい、遠山の全部が欲しいのよ!!」

 

 

「坊主、お前幾つだ」
 ヤクザは、訊いた。細い体に細い顔、吊りあがった細い目。何もかも細い、恐らく三十代半ばのヤクザは、中嶋と言うのだそうだ。遠山をここに連れて来た男は、遠山に言っていた。
「中嶋さんは、幹部になる人だ。気に入られて損はねえ。絶対に」
 ヤクザっぽい格好だが、それ程恐ろしげではない。遠山は彼の目を見て答えた。
「ハタチになったばっかです」
「そうかい。若いねえ」
 淡々と、中嶋は呟く。痩せた手の甲に、筋が浮いている。彼が煙草を吸ったり持ち替えたりする度に、筋が動くのが見えた。遠山は、その動きに何となく目をやった。
 遠山のヤクザの知り合いは一人だけ、それも実は親戚だ。ヤクザという以前に親戚が先に来るから、本当の意味ではヤクザを知っていると言うことにはならない。だから、ヤクザというものが怖くないと言えば嘘になる。だが、怖いと言い切ることも出来なかった。
「大学生なんだってなあ」
 中嶋はそう言って目を細めた。遠山は膝に乗せた手に目を落とした。程ほどの私大の経済学部に、遠山の籍はあった。なぜか分からない焦燥感や、駆り立てられるままに片足を突っ込んだ真っ当でない世界。そんなものにかまけて、最近は殆ど顔を出していなかった。
 ヤクザになろうと決心してからは、益々大学に行く気が失せた。暴力的で歪んだ世界に学歴など必要ないと思ったし、とにかく、すべてを捨てたいと思ったからだ。
 親の目、親の体面、何かに付け持ち出される兄弟との差。取り立てて特殊でもない自分の家庭環境に、それでも遠山が抱くどろりとした思いは深く粘着質だった。
「——はい。でも、すぐ辞めてもいいんです。だから」
「ああ、駄目だ駄目だ、卒業しろ」
 中嶋は目の前で手を振って、銜えた煙草を揉み消した。遠山は耳を疑う。今時珍しい若い志願者、ヤクザにとっては使い捨て部品のような若造に向かって大学を卒業しろとは、自分の耳が壊れたかと思った。
「ヤクザだってなあ、昔と違って頭使うんだよ。勉強しといて損になるってこたねえんだからな」
「けど」
 遠山は何と言っていいのか分からなかった。家が嫌で、大学が嫌で、全部が嫌で。なのに、目の前のヤクザが親と同じことを言う。言葉に詰まった遠山を眺めて、中嶋は口を開いた。
「お前、名前なんて言う」
「……遠山正志、です」
「遠山」
 中嶋の目は今までとは打って変わって鋭く、遠山の体は竦んだ。本物のヤクザの前にいるのだと不意にはっきり自覚して、座っていながら膝が震える。
「この商売は汚ねえし、ろくでもねえ。死に方だって多分ひでえもんだし、世間様が思うほど金が唸ってるわけでもねえ。それでもこっちに来たいってんなら、俺は止めねえ」
 中嶋の凄みのある目が遠山を見据え、遠山の震えは更に酷くなる。
「だが、来るならきっちり大学出て来い。空手のお前に価値なんざねえし、そういう若造は使い捨てだ。そうなりたくなきゃあ、自分で自分にちゃんと付加価値つけてやれ。大体辛いからって放り投げる奴ぁ、どこにいったって同じ地面を這い回る以外ねえんだ」
 遠山は何も言えずに固まった。中嶋は不意に立ち上がると、何かを探し始めた。
「あー、どこに……ここか? いや、違うな」
 呟きながら事務所のあちこちをひっくり返し「おお、これこれ」と呟くと、何か小さなものを放って寄越す。
「それ、お前にやるよ」
 咄嗟に受け取ったものを見て、遠山は思わず首を捻った。
「誰かの土産だ。俺が買ったもんじゃねえんだが」
 見上げた中嶋の細い目は、笑っても怒ってもいなかった。遠山を家具の一部のように一瞥すると、急に興味を失ったように背を向ける。
「じゃあな、坊主。間違ってもせこい鉄砲玉なんかに使われんじゃねえぞ」
 痩せたヤクザは、そう言って姿を消した。