仕入屋錠前屋26 両手いっぱいの 3

玉井さんは、せっせと机を拭いていた。雑然としたこの界隈の中で、特に混沌としている川端の事務所を救おうと、彼女はいつも奮闘している。
「どうも」
 もっとも、愛想はまるでない。哲の気のない挨拶により一層気のない視線を寄越し、玉井さんは雑巾に注意を戻した。
 建て付けの悪いドアを蹴飛ばして開けると、川端の声が飛んできた。
「壊れる!!」
「いっそ壊れりゃ取り替える気になるんじゃねえのか」
 川端はいつもの通り、よれた格好でデスクに向かっている。それにしても不動産屋というのは本当にこんなに暇なのだろうか。哲はゴルフの月刊誌を握り締めた不動産業者を胡乱げな目付きで見やる。川端は口に銜えた爪楊枝をゴミ箱に捨てると、端がよれた雑誌を置いた。
「何だよ、家賃ならこの間もらったぞ」
「お願いがあるんだけど」
「気持ち悪いからやめろ、その言い方」
 即座に返されて、そういやさっきもそんなことを言われたと、哲は頬を緩める。
「なあ、あんた探偵とか何とかに知り合いいるんだろう」
 途端に無言になった川端の顔を見ながら、哲はデスクに両手をついた。川端本人ははっきり言わないが、どうも本業の他に色々とつてを持っているようだった。元々川端は哲の祖父英治の知人の息子で、自分の父親が英治に世話になったから、と言っては面倒を見てくれる。
 錠前破りの衝動に克てなかったばっかりに社会的立場を失った祖父が、真っ当な手段で誰かを世話するとは思えない。そう考えれば、川端が父親譲りの多少後ろ暗い経歴を持っていたとしても驚くことではなかった。
「ちょっと調べたいことがあんだよ、紹介してくれ」
「仕入屋に頼めばいいだろう」
「あいつは探偵じゃねえよ」
 哲が川端を睨むと、川端は薄い頭頂部が羨ましさに身を捩りそうな濃い眉を寄せ、必要以上に大きな溜息をついた。
「また仕入屋絡みか」
「だったら何だ、クソ親父」
 哲がスチールデスクを蹴飛ばすと、べこりと嫌な音がした。
「わかったわかった、これ以上ボロにしないでくれよ」
 川端は突き出た腹の上で毛深い両手を組んで、椅子の背に凭れた。古い回転椅子が抗議するように甲高い悲鳴を上げる。
「わかったよ、紹介してやるよ、探偵でもかみさんでも」
「かみさんはいらねえ」
「誰の何を調べたいんだ?」
「ヤクザの女の居所」
 川端は顔をしかめた。
「またか? 前もそんな——」
「今度は本人が逃げた愛人を探してんだとよ。まったく、俺だって係わりたくねえけど断って逆恨みされんのもアホくせえし」
 ううん、と唸り声を上げた川端は、天井の蛍光管を睨んで呟いた。
「天国の佐崎の爺さん、哲を更正させたまえ」
「うるせえ」

 

 但木夏実の住んでいたマンション前には、確かにヤクザらしき男がうろついていた。昨日今日とふらりと近くを通ってみたが、数こそ多くないものの、間違いなく彼女の帰りを待っている様子だった。
 クラブだかなんだか知らないが、いくら高収入の水商売とは言え、あの年頃の娘が住むには随分といいマンションだ。その周りをうろつく人相の悪い男達は妙に目立って、わざわざ探すまでもなかった。
 車のナンバーと人相を知人に確認したところ、祥央会の下っ端に間違いないという話で、秋野は溜息をつきながらマンションを後にした。
 夏実を用意した部屋に送り届ければ仕事は終わりだったが、但木は友人だけに気になった。おまけに夏実の話はどこか胡散臭いような気がした。但木はあの調子ですっかり真に受けているが、ヤクザの取立てに遭ったにしては怖がる様子を見せるでもなし、やけにはしゃいで見せさえする。
 もしやすべて嘘なのではと思ってここまで足を運んだが、実際に祥央会が出張ってきている。それに、いくら疑ってみたところでそんな狂言で彼女に得があるとも思えない。
 ああいう態度ではあるが、見かけによらず実は怖がっているのかも知れない——秋野は無理矢理自分を納得させ、歩き出した。

 

 哲の差し出した平たい箱を見て、カウンターに座った秋野は眉を上げた。
「……チョコレート?」
「親父さんのハワイ土産」
 哲はこげ茶色のあまりに有名なその箱を、秋野に放り投げた。秋野は嫌そうに受け取り、カウンターの向こうの女に箱を振る。
「ママ、哲からプレゼントだって」
「あらあ、嬉しい! これ美味しいよねえ」
 年齢で言えば秋野の母親、いや、どちらかと言えば祖母に近いくらいのママは、濃い化粧の顔を輝かせた。
「ありがとうねえ。じゃあ今日は何かサービスしてあげよう」
 いそいそと裏に引っ込むママの広い背中を見て、哲は肩を竦める。
「意外と役立つな」
「お前に睨まれるより幸せだ、マカダミアナッツも」
 秋野の脚に蹴りを入れながら、哲は並んでカウンターに座った。田舎のスナックのようなこの店が意外に混みあっているのは、ママの料理が美味いのが一つ。もう一つは多分、女の子達が皆、並の容姿ながら一様に聞き上手なせいではないかと秋野は言う。
 ママは秋野の母親のダンサー仲間だったという女で——今となっては踊ることはどうやっても無理だろうが——哲が初めて秋野に連れられて行った時は、妙に喜んだ。
「アキが誰か連れてくるなんてね」
 涙まで浮かべられて、行方不明の放蕩息子が連れて帰った嫁になったような、曰く言いがたい気分になったものだった。
「この間道歩いてたらナカジマのおっさんに拉致された」
 哲が前置きもなしに言うと、秋野は眉を寄せた。
「またか? 腐れ縁だな、そこまで行くと」
「まったく、嫌になる」
 二人して黙って煙を吐き出した。ママが煮付けの入った鉢を持って現われると、カウンターに置いて歯を見せて笑い、客が呼ぶテーブル席へと移って行った。
「お前に渡りを付けてくれって頼まれたんだけど」
 哲が煮付けの蕗を箸で挟みながら言うと、秋野は眉を上げる。
「組と関係なく、個人で人探ししてくれって。けど人探しはお前の仕事じゃねえし、川端のおっさんに頼んだからな」
「ナカジマがか?」
「いや。一緒に山城引き取りに来たお前くらいの若いやつ。何てったかな、——遠山?」
 秋野はちょっと顔をしかめて口を開きかけたが、結局文句は言わないことに決めたようだった。短くなった煙草を最後にもう一度吸って、陶器の灰皿に押し付けて消す。
「——何だかヤクザづいてるな」
「何だ、そうなのか」
「こっちは祥央会のほうだけどな。知り合いの妹がヤクザの取立てに遭ってるらしくて」
「そりゃ気の毒に」
 哲の気のない返事に横目をくれてカウンターに肘をつくと、秋野は頭を垂れて溜息を吐いた。
「ヤクザ絡みはごめんだって言ってるのに、嫌になるな」
「ああ」
「妹ってのはなんだかわけがわからん女だし、どうもすっきりしない」
 秋野は体を傾け、哲の肩に頭を預け、猫のように額を押し付ける。重くて邪魔だが、いちいち退かすのも面倒でそのまま煮付けに専念していると、ママがテーブル席から大声を出した。
「アキ! くっつくならうちの店の子にしときなよ! 店に貢献しとくれ」
「俺は貧乏だからこれでいいんだよ、放っといてくれ」
 秋野の投げやりな返事にその場の全員が笑い、哲は箸の頭で力一杯秋野を小突いた。