仕入屋錠前屋26 両手いっぱいの 2

「あたし、チョコレートソースは嫌いなの。キャラメルソースがすき。だってそうじゃない? どろどろのチョコレートなんて。チョコレートは冷蔵庫でぱりぱりに冷やした方が美味しいに決まってる」
 彼女は目の前に置いたチョコレートパフェの中に長いスプーンを突き刺しながら言った。
「それにチョコレートのアイスクリームも嫌い。アイスはやっぱりバニラでしょ? 絶対そうだと思うのよ」
 食べられることなく突き崩されていくアイスクリームと生クリームの城の崩壊を見ながら、秋野は無表情の下で但木を呪った。但木は秋野の昔の知り合いで、目の前の女性は彼の妹だ。
 背の高いチューリップの花のようなグラスの中でどろどろに混じり合ったものを満足げに眺めて、但木夏実はにっこりと笑った。

 但木は、秋野が尾山の店に勤めていた時のアルバイトのボーイだった。秋野自身は店のスタッフと言うよりは尾山の会社の見習いとでも言った立場だったのだが、気が向けば何でもやったから、あちらこちらの店に顔見知りはいた。但木はその中でも歳が近く、それなりに友人付き合いをした。今でもごくたまに電話で話すことがあるが、親密というほどではない。
「秋野? 俺——、但木だけど」
 久し振りに電話が来たのは数日前、但木と話すのはかなり久し振りだった。
「久し振りだな」
 秋野の挨拶に適当に返事をして、但木は早口で言った。
「お前に頼みたいことがあるんだよ。あのさ、マンションの部屋ひとつ、どうにかなんないかな?」

 但木はどちらかと言うとおとなしい、ごく普通の青年だった。酔えばたまには羽目を外し、普段は真面目にきちんと働く。これと言って特徴もない、常識的な男だ。彼は秋野の前で、隣に座る美人のほうをしきりに気にしながら頭を下げた。
「悪いな、急に」
「いや、いいよ、別に」
 その女性は、秋野を見ようともしなかった。ファミレスのガラス窓からぼんやりと道行く人を眺めている。どこか危うい雰囲気の美人、とでも言えばいいか。気の抜けたような表情をしていても、何かの拍子でいきなり発火しそうな緊張感。長めのショートカットは今時珍しいくらい真っ黒で、それが白い顔によく似合う。
「こいつ、夏実。俺の妹なんだ」
 但木の言葉に、秋野は一瞬担がれているのかと思った。但木の地味な顔と、彼女の顔立ちはまるで似ていない。但木はその反応には慣れっこなのか、弱々しく笑う。
「似てないけど、正真正銘妹だから。俺は母さん似で夏実は親父似なんだ、ものの見事に」
「そりゃまた随分仲良く分けたんだな」
 秋野の言葉に但木はちょっと笑って、真面目な顔になった。
「お前に頼んだ部屋、こいつを暫く住まわせたいんだ。なんか、借金したらしくて、ヤクザがアパートまで取り立てに来るらしいんだよ——おい、夏実、お前ちゃんと尾山さんに挨拶しろよ。助けてくれるんだぞ」
 但木が妹を睨むと、夏実はやっと秋野に目を向けた。
「尾山さん」
「はい」
 秋野は彼女を見返す。昔から、秋野は必要があれば遠縁ということにして尾山姓を名乗る。但木も目の前の男は戸籍上正しく尾山秋野だと、今も信じている。
「ありがとぉ」
 ただの少しも感謝の感じられない口調でそう言うと、夏実はまた顔を背けて窓の方を向く。但木は顔をしかめたが、秋野は別に感謝されなくても問題ないから黙っていた。但木はその後仕事があるから、と言って慌しく去っていき、秋野は夏実と二人、ファミレスのやけにだだっ広いソファ席に残された。
 秋野が口を開こうとした途端、夏実はウェイトレスを呼ぶボタンを押し、素晴らしい笑顔で「チョコレートパフェ、食べていい?」と言った。

 そして今、目の前には食べ物とは思えない惨状を呈するチョコレートパフェと、美人だがよく分からない女が鎮座している。
 秋野は彼女の笑顔を眺めながら声をかける。
「但木さん?」
「夏実」
「——夏実さん」
「なあに?」
 先ほどまでの無表情とは打って変わってにこやかだ。それがチョコレートパフェを惨殺したせいなのか、真面目で心配性の兄がいなくなったからなのか、秋野には判じかねた。
「ヤクザが取り立てに来るって?」
 秋野の質問に、彼女は急に拗ねたような顔をして頷いた。
「お金なくて消費者金融で借りたの。レディースローン、とかって、雑誌の後ろに広告でてるやつ。エステとかの後ろのほうに」
 黙って聞いていると、夏実は少し黙ってまた続けた。
「忙しくて返しにいけなくて、ちょっとくらいいいかな、とか思ってたらなんか、電話とか来始めて、アパートにも来るからお兄ちゃんとこ行ったの」
 二十代半ばくらいに見えるが、やけにぽつりぽつりと、言葉を探すような話し方だった。
「ヤクザは、どこのヤクザ?」
「何だっけ。ショウ、……セイ? あれ、何だっけ。ショウノウ?」
「祥央会?」
「あ、それ」
 秋野は腕を組んで溜息を吐いた。ヤクザの取立てにあっている女を庇うのは本意ではなかったが、但木の妹だし、秋野がするのは部屋の調達までだからこれ以上は係わることもないだろう。まだパフェの中をこねくり回している夏実を案内すべく、秋野は重い腰を上げた。

 

「あの」
 北沢組の敷地を出たところで、声を掛けられた。哲が振り向くと、そこにはナカジマがトオヤマと呼んだ若いヤクザが立っていた。
「ちょっと、時間ないですか」
 哲は無遠慮にトオヤマを観察した。黒いハーフコートと砂色のスーツは、高価そうだがヤクザ仕様とは言えない。どちらかと言うとスカウトと称される若者達か、ホストが着ていそうなものだ。切れ長の眼は今はごく穏やかで、ヤクザだと分かるような部分は特に目に付かない。
「なんか、用」
 哲の口調に苦笑して、トオヤマは首を傾げた。
「用がなければ待ってませんよ。……ここじゃ何だから」
 トオヤマは先に立って歩き、入り組んだ裏道のビルの地下の、洒落たカフェに入った。ジャズが流れ、黒と木目で統一された店内で見るトオヤマは、やはりヤクザと言うよりはホストに見える。任侠の世界とは程遠い涼しげな容貌も、それに一役買っていた。
「遠山正志です」
 トオヤマが差し出した名刺には、「北沢興産 遠山正志」と刷ってある。哲が無言で名刺を眺めていると、遠山は煙草に火をつけ、煙を吐いた。煙がまともに顔にかかる。哲が睨むと、遠山はちょっとたじろいだような顔をして、次の瞬間弾けるように笑い出した。
「すげえ顔すんなあ。中嶋さんが気に入るの分かるよ、あんた」
「嬉しくねえな」
 吐き捨てた哲にまた笑うと、遠山は身を乗り出した。
「いや、悪かったよ。別にからかおうと思って声掛けたわけじゃないんだ。あんた、仕入屋ってのとつるんでるんだろう?」
 哲は黙って遠山の細面に目をやった。遠山は既に笑いを消している。
「頼みたいことがあるんだよ、個人的に」
「ヤクザが、素人に何を頼むって」
「だから、ヤクザとして頼みたいんじゃないんだってのに」
 遠山は長い前髪をかき上げて言う。
「女を捜して、盗まれたもんを取り戻したい」
「それは仕入屋の仕事じゃねえだろう」
 哲が煙草を銜えて言うと、遠山は大袈裟に溜息を吐いて椅子の背に凭れる。芝居がかった態度の割には表情は真剣だった。女のように細くて長い指が、煙草を灰皿に押し付ける。遠山は頼むよ、と小さな声で呟いた。
「組に——中嶋さんには知られたくねえから、仕入屋に頼みたい。優秀だって、聞いたから」
 遠山はテーブルの上で長い指を組んだり解いたりした。
「中嶋さんが言ってたよ。あんたらは一緒に仕事してんだろう? だから頼む、仕入屋に渡りをつけてくんねえか。このとおりだ」
 頭を下げられて、哲は銜えた煙草の先を所在無く上下に揺らした。秋野にヤクザの仕事など持って行きたくはない。だが、無下に断って逆恨みされても厄介だ。どうしたもんかと思いながら、哲は仕方なく息を吐いた。
「——聞くだけ聞くが、あいつが受けるかどうか知らねえぞ」
「悪い、恩に着る」
 見るからに今時のインテリヤクザらしいこの男が本気で恩に着るものなのか。信じるつもりはまるでなかったが、哲は取り敢えず、やる気なく頷いた。