仕入屋錠前屋26 両手いっぱいの 1

 彼女は、椅子の背に掛けられた上着からそれを見つけるとバッグの中に落とし込み、そっと部屋を抜け出した。男はシャワーを浴びている。多分暫く出てこないだろう。
 エレベーターの「閉」のボタンを押しながら、ほんの少し涙が出た。
 男は、彼女を鬱陶しいと思い始めている。彼女が彼を独占したがるから。愛人という立場に満足できないことを、ふと漏らしてしまったから。
 彼を失うなんて、耐えられなかった。それなら彼の言うとおり、便利な愛人でいればいい。なのに、彼女の体全部が、細胞全部が、彼のすべてがほしくて悲鳴を上げる。
 彼の妻にも、上司にも、心を注いで欲しくなかった。自分だけを見て欲しい。私に全部頂戴。
 男が肌身離さず持っているあれは、大事なものなのだろう。誰から、何の目的で貰ったのかは分からないが、以前そんなもの必要あるのと訊いたら酷く機嫌が悪くなった。
 だから盗ってやった。私を追いかけてくれればいい。困らせてやりたい。追いかけてくれればいい。
 彼女は独り、涙を零した。

 

 高級車というわけではないだろう。哲は車のことは人並みにしか知らないが、その辺で走っているのをたまに見かける車種だ。運転しているのは大抵中高年、トランクにはゴルフバッグが入っていたりするのだろう。
 一方通行の狭くて長い道に侵入してきたその車を肩越しに見て、哲は道の脇に寄った。
 車にはねられたりひっかけられたりするほど馬鹿なことはないと思うから、無理に道路を斜め横断したりしない。結構のんびり手押しの信号を待ったりしていると、哲を知る友人は声を揃えて言う。何故、喧嘩の時にその気長さを発揮できないのかと。
 のろのろ進んできた車が、哲の近くになって一層スピードを落とした。安全運転で結構だが、さっさと行ってくれたほうが有り難いのに。
 そう思って何気なく車中を見やり、哲は慌てて早足になった。しかし、既に遅かった。
 車は今度は速度を僅かに上げて哲に追いすがり、また減速する。後部座席の窓がなめらかに開き、「よお」と声がしたが、聞こえない振りをして歩く。そうしたらあろうことか、車が幅寄せして来た。思わず立ち止まると、車も止まる。こういう時に限って後続車が来ないのはやはり、日ごろの行いかもしれなかった。
「何だよ、無視することねえだろう」
「車が人間相手に幅寄せすんじゃねえ」
「ちっと挨拶しようとしただけじゃねえか、固いこと言うなよ」
 いっそ爽やかと言ってもいい笑顔で、哲の知るヤクザはそうのたまった。今日はいつもとは打って変わってラフな格好をしている。まるで接待ゴルフに向かう会社役員のようだ。——眼光以外は。
「こんにちは。じゃあな」
 さっさと歩き出す哲に、ナカジマの「おいおい」と言うぼやきが聞こえ、急発進した車が前方で斜めに止まって道を塞ぐ。うんざりして足を止めた哲のところまで今度はバックで戻ってくると、ナカジマがもう一度顔を出した。
「どこまで行くんだ? 乗っけてくぜ」

 ハンドルを握っているのは、前に見た若いヤクザだった。あまりヤクザっぽくは見えないが、ナカジマを乗っけて歩いているということは、まさか運転代行業者ではあるまい。
 茶色くした長めの髪に涼しげな顔をした一見水商売風の男は、ルームミラー越しに哲に会釈して視線を前に戻す。
 哲はナカジマの隣のシートにだらしなく浅く座って、若いヤクザに会釈を返した。しかし礼儀にかなった会釈になっているとは、哲自身思えなかったが。
「何だよ、そんな仏頂面すんなよ」
「俺は歩きてえんだよ」
「どっか行くんだろう。送ってやるってのに」
「どこも行かねえよ」
 すっかり不機嫌になった哲に、ナカジマは楽しそうに言う。
「そうか、どこも行かねえのか。遠山、お客さんを事務所までお連れしろ」
「はい」
「事務所ぉ?」
 哲は嫌そうに声を上げたが、得体の知れないよそ行きの微笑を浮かべたトオヤマと言う男と、なぜか上機嫌のナカジマは意に介する様子もない。ヤクザの車の中でヤクザに逆らうのもどうかと思って開きかけた口を閉じた哲は、一層不機嫌な顔をしてシートに沈み込んだ。

 

 前に迷って裏口に出たことはあるが、入るのは初めてだ。目立たない北沢組の看板の横を通り過ぎながら、哲はげんなりして辺りを見回した。
 映画に出てくるような日本庭園もなければ、親分らしき着流しの老人もいない。ごく普通の会社のビルと、その敷地と言った感じではある。しかしあちらこちらに立ったり歩いたりしているのはやはりヤクザ者で、普通の格好をしていても恐ろしい顔つきの者ばかりだった。
 哲は別に一人ひとりのヤクザを怖いとは思わないが、一個人と組織では力の差は歴然だし、進んで敵に回すほど愚かではない。そんなわけで、すれ違う組員を本能的に睨みつけてしまいそうな目を何とか足元に落として、前を行くナカジマの背を追った。
 ナカジマはのんびりとした足取りで、建物の階段を昇った。二階の廊下を奥まで進み、応接室と思しき部屋へ哲を案内する。哲は渋々部屋に入ると、溜息を吐いた。

「コーヒーか、紅茶か?」
「緑茶」
「じじむせえなあ、若いのによ」
 ナカジマは内線らしき電話で、「おう、お客さんにお茶ひとつ」などと言っている。制服姿のお姉ちゃんが出てきてお茶を出してもおかしくない感じだったが、実際は、やっぱりと言うか何と言うか、高校生に毛の生えたような若造が危なっかしい手つきで運んで来て、哲は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
「いただきます」
 一応棒読みで断ると、ナカジマは妙な顔をする。
「気持ち悪いからやめなよ。お前さんが大人しいと気が抜けるじゃねえか」
「ヤーさんの事務所ん中でいきがるほど頭足りなくねえんだよ」
 哲が茶碗の縁から睨み上げると、ナカジマはにやりと笑って、自分も茶碗に口をつけた。
 部屋はそれ程大きくもない。いかにも事務用品のカタログから選んだような無機質なソファに重たそうなテーブル。大理石模様のごつい灰皿とライターは、客人がおかしな気を起こしたときには武器代わりにもなりそうな代物だ。ヤクザの事務所というよりは消費者金融の応接室と言ったところか——まあどちらも大した違いはないが。
 ぼんやりと辺りを見回す哲に、ナカジマは灰皿を押す。
「吸っていいぞ」
「ああ」
 哲が煙草を出して火をつけると、ナカジマも自分の煙草を出した。いかにも日本のヤクザ屋さんな外見のくせになぜかマルボロライトなのが似合わないような、それとも意外に似合うのか。
「俺になんか用か」
「いやあ、本当に用はねえんだ。あの道入ったらお前さんが歩いてたんでな。用がなきゃいけねえのかい」
「俺はヤクザは嫌いだ」
 哲が言うと、ナカジマはわざとらしく傷ついたような素振りをしてみせる。
「ひでえこと言うねえ、お前さん」
「あんたは嫌いじゃねえが、ヤクザは嫌いだ。だからあんたとも係わりたくねえ」
 仏頂面の正直者に、ナカジマは苦笑した。