仕入屋錠前屋25 道端を飾る花 2

 背後に秋野の気配を感じた。
 気配が哲に近寄り、後ろから伸ばされた手が髪に差し込まれる。耳の裏からうなじにかけて、長い指が掻き分けるようにして頭髪をよける。丁度耳の後ろの出っ張った骨に唇を押し当てて、秋野は呟いた。
「お前は、払う用意があるか?」
 その声は小さかったが、声がじかに頭蓋に響いて、まるで秋野が頭の中で喋っているように聞こえた。
「何にだよ」
「自分で言ったんだろう」
 投げやりに言うと、すぐにそう返された。いきなり骨をべろりと舐め上げられて、肩甲骨の間から顎の骨まで、一気に何かが駆け上がる。背中から肩に瞬間的に鳥肌が立ち、発熱の前の悪寒を感じたようにぶるりと身震いが起きた。
 反射的に右腕を引いたが、すぐに後ろから抱えるように押さえ込まれて動かすことは出来なかった。後頭部に、かすかに笑ったのか、秋野の息がかかる。哲は舌打ちをして秋野の腕を払った。
「離せ」
 秋野は無言で腕を解くと、哲の肩を掴んで自分のほうに向けた。引き寄せられた体が密着しているので、目の前に秋野の顔がある。丁度哲の目の辺りに秋野の唇があり、案の定、それは獲物を前にした獣のように歪められていた。

 最後までいってしまうと、苦痛と快感と怒りと興奮がいっしょくたになって、気持ちがいいとは口が裂けても言えない状態になる。それはそれでアドレナリンが出る行為ではあるが、自分の感覚的には性行為というより殴り合いに近くなってしまうようだ。ただ、その前の段階はごく普通に気持ちがいいのは否定しないが。
 哲はどこか鈍磨したような意識の中でそんなことを考える。
 誰にされようが、触れられることには変わりはない。目さえ閉じれば、大した違いはないはずだ。それがミキだろうが他の女だろうが、秋野だろうが。
 触れられている間、頭のどこか一部分、酷く冷めた場所でそんな言葉がぐるぐると回る。
 本当は、すべてがどうでもよかった。指の先がむず痒いような、神経の末端だけが過敏になったようなこの状態の中で思うそれらは、どれも瑣末なことだった。
 どこか近くで細かい振動と電子音がして、哲はぼんやりと視線を彷徨わせた。鎖骨の辺りに触れる秋野の黒い髪。天井。額に載せられた自分の手の甲。——電話だ。
「——おい」
 哲が呟くと、秋野が哲の胸から顔を上げた。薄茶の目が哲を見つめる。
「電話。お前の携帯じゃねえか」
 電話は、ベッドのすぐ下から聞こえた。多分、秋野の服のポケットの中にでもあるのだろう。秋野はそちらに目もやらずに低く答える。
「放っときゃ諦めるだろ」
 しかし、電話は甲高い音を撒き散らして、なかなか鳴り止もうとしない。哲は秋野の肩を小突いてもう一度言った。
「うるせえからさっさと出ろ」
 秋野が首を傾げて哲を見下ろし、顔をしかめる。
「ここで止めてか?」
「俺はちっとも構わねえ」
 哲が言うと、秋野は眉を寄せた。哲が強がっているわけでも無理をしているわけでもないのは、よく分かっているだろう。ここで終わったら終わったで、哲のほうは大して問題はなかった。寧ろ帰ってゆっくり寝られて大歓迎と言ったところだ。
 秋野は暫し哲を眺めてから、上半身を乗り出して片手で床を探る。左手はがっちりと哲の肩を押さえつけたままだ。
「おい、秋野」
「ああ、しつこいと思ったら手塚だ」
「お前なあ、このまま出る気じゃ」
 秋野が覆い被さってきて唇を塞ぐ。執拗に、思う様口腔内を蹂躙しながら、秋野は通話ボタンを押した。
「……何か用か」
 低いしゃがれた声で電話に出ながら哲の耳を噛む。哲は膝を蹴り上げたが、いまいち角度が悪く大した打撃を与えることはできなかった。動かすことの出来る左手で頭を殴りつけてやる。
「痛っ! この——ああ? ああ。……え? 哲だよ」
 秋野がごく低く、獣が喉の奥を鳴らすように笑う。振動が胸骨を通じて哲の体にも伝わった。低音が背骨に響いてぞくりとする。こんな声で囁かれたら女は一発でまいるだろう。残念ながら哲は逆に一発お見舞いしてやりたくなるが。
「わかってる——、ああ、うん。——分かった、ああ、今哲で手一杯だからもうかけてくるな」
 切った電話の電源まで切り、部屋の真ん中に放り投げて、秋野は哲に向き直った。口の端を曲げて笑った顔は、ぞっとするほど男っぽく獰猛に見える。
「体の下に誰がいるのかって訊かれたよ」
「あんな声で出りゃな」
 哲は仏頂面で秋野を睨み上げる。まったく、次に手塚に会ったら今度は何を言われるか。別に今更照れるでもないが、あの調子で色々聞かれるのは願い下げだ。
 より一層腹立たしいことに、不機嫌度を増した哲を見て満足したらしい秋野は、もう一度哲の上に屈みこむ。今度は狙ったとおり入った膝が秋野の肋骨に当たった。痛そうに呻きながらも笑う秋野の唇が、哲の肩に押し当てられた。

 

 秋野はベッドの下の床に座り、煙草の煙を吐き出していた。事が済んだ途端に哲に蹴り落とされた秋野は、落ちたその場所で服を身につけ、そのまま煙草を吸い始めた。案外ものぐさなのは、今更知ることでもない。
「そういや、あれどこにやったかな」
 秋野が独り言を呟きながら隣の部屋に行き、戻ってきた時には例の茶封筒を手にしていた。だらしなく着た服と乱れた髪が、まるで寝起きのようだ。同じ場所に座りなおして封筒を破る。
「何だ、それ」
「お前の開けた抽斗の中身」
「ああ?」
 哲はベッドの上でジーンズを引っ張り上げながら訊き返す。手塚はそんな事は一言も言っていなかった。まあ、秋野の仕事に関するものだとしたら哲相手にでも喋るべき事ではないのだが。
「なんだ、それで交通費かよ」
「何が」
「いや、こっちの話」
 ジーンズを履き終えてベッドに転がる哲をちょっと振り返って、秋野は封筒に専念した。中から紙を取り出して眺め始める。
「仕事のもんか?」
「いや、俺の健康診断の結果。さっきの電話で言ってた。お前に持たせたのがそうだって。——去年より痩せてるな。お前で苦労してるからかね」
「健康診断だあ?」
 思わず声が大きくなった哲を振り返り、秋野は事も無げに言う。
「年に一回、手塚に受けさせられてるんだよ。会社勤めもしてないし」
「それが何で鍵かけてしまうほど重要なんだ」
 哲がうんざりした顔で聞き返すと、秋野は肩を竦めた。
「重要って言うか、保険証なしでやってるから看護婦とか受付に見つかったら面倒臭くて嫌なんだろう。あそこの看護婦は手塚の机の上まで自分のテリトリーだと思ってるからな」
「——くだらねえ」
 思わず盛大に溜息を吐いた哲の上に、体の向きを変えた秋野が紙をひらひらと翳して見せた。
「何でだ。俺のガンマGTPの数値を知っておくのも悪くないぞ」
「わけわかんねえ。何だそりゃ」
「肝機能だ、肝機能」
「くたばれ、仕入屋」
 秋野は笑いながら紙を床に落とし、空いた手で哲の不機嫌に寄せられた眉間の皺をなぞる。哲は、頬を滑り降りる秋野の指先に手加減なしで齧りついた。
「手塚に泣きつけ、馬鹿が」
 くっきりと歯型が付いた指先に秋野が顔をしかめる。起き上がった哲が床のシャツに手を伸ばすと、秋野に手首を強く掴まれた。
「おい、秋野。いい加減にしろ」

 聞こえたのか聞こえなかったのか。——聞く気がないのか。
 至近距離で光る薄茶の虹彩に所々散る金と茶の点。哲は脳天が痺れるような感覚に身震いする。その目に指を突っ込んで眼窩から抉り出してやりたいと、激しい欲望を覚えながら。
 頭を引き寄せ、瞼の上から眼球を舌でなぞる。秋野が小さく、食うなよ、と呟いた。
 「——うるせえ、指図すんな」
 塞がれた唇から、低く、どちらのものともつかない唸り声が漏れる。
 花束だろうが、その辺に咲く花だろうが、どちらでもいい。
 手に入れて飾りたいとは思わないが、地面に叩きつけて踏みにじってやりたい。この凶暴な衝動を満足させてくれるなら、どんな代価も支払う覚悟は、既にある。
 牙を剥いた獣に、哲は頬を歪めて対峙する。
 殴れ、引き裂け、痛めつけろ。牙を、爪を、花びらをむしり取って宙に散らせ。
 たぎる本能のまませり上がる咆哮を奥歯で噛み締め、哲は暫し、目を閉じた。