仕入屋錠前屋25 道端を飾る花 1

「——今度は本当だろうな、先生」
 哲の疑わしげな眼差しに、手塚はのほほん、と笑った。
「嫌だなあ、騙したりしないよ」
 穏やかな面長の顔——馬と言うよりロバ、と失礼極まりないことを哲は思った——を楽しそうに崩して、手塚は言う。
「一晩鍵かけて朝起きたら本当に鍵がなくなちゃったんだよねえ。滅多にしないことするとこれだから」
 哲は軽く溜息をついてスチールデスクに向き直った。
 手塚医院は相変わらず患者がいない。先程哲が来た時には近所の住人と思われる老婆がいたが、会計をして帰ってしまった。前に来たときと変わらず、机の上は色々なものがごちゃごちゃと載っている。
 手塚が指す抽斗は一番右上、スチールデスクの鍵付き引き出しといえば、なぜか右上と決まっている。そういえばそれには何か理由があるのだろうか、と考えながら手塚の回転椅子に腰掛けた。手塚は診察台に腰掛け、子供のように足をぶらぶらさせている。
 鍵穴に針金を突っ込んで少しいじると、特に抵抗もなくくるりと回る。手塚がうわあ、とこれまた子供のように歓声を上げた。
「すごいね、佐崎君」
「机の鍵なんてどれも変わんねえから」
 肩を竦めた哲に眼鏡の奥の目を向けて、手塚は微笑んだ。

「いらねえよ、こんなんで金なんて」
 待合室のソファに腰掛けて哲は手塚を見たが、手塚は「まあまあ」と言って千円札を三枚差し出す。
「じゃあ、ご飯代と交通費」
「それであんたの気が済むなら貰っとくけど」
「済む済む」
 受付のおばさんはカルテの棚の陰で休憩でもしているのか姿が見えず、待合室は無人だった。午後の陽射しが大量に入り込み、のどかそのもの、と言ったところだ。哲は欠伸をしながら札をポケットに押し込む。
「何で事務用品店呼ばねえんだよ。マスターキーでもスペアキーでもすぐ出してくるぞ、あいつら」
 哲が隣に腰掛けた手塚を見ると、手塚は楽しそうに白衣のポケットに手を突っ込んで笑う。
「秋野に言われたから」
「ああ? 秋野?」
「哲は錠前に関してはキチガイみたいなもんだから、機会があったら与えてやってくれって」
「あの野郎」
 鼻に皺を寄せて唸る哲を見て、手塚は更に笑みを大きくした。
「そういうとこ見ると、君が秋野をがぶりとやるのも目に浮かぶよね」
「は?」
 訝しげな哲に、手塚は自分の肩を指して言った。
「前に、秋野の肩をがっつり噛んだでしょ? ここに治療に来たから」
「ああ……」
「あれきりだったのかな? あいつ、あれから治療には来てないけど」
 にこにこして訊く手塚を横目で見て、哲は仏頂面で黙り込んだ。

 

 ドアが開いた瞬間に、顔めがけて脚を振り上げた。
 秋野がさすがに驚いた顔で仰け反り、ドアを掴んで体を支えたものの支えきれず、そのまま二歩下がる。
 別に腹が立っているわけではなかったが、手塚に散々意味深な質問をされて、誰かに当たりたくなった。そしてこの場合、最も当たり甲斐のある奴と言えば秋野しかいなかったし、その上事の元凶でもあった。
 折角の蹴りを避けられて、哲は残念そうに溜息をつく。
「一体何が気に入らないんだ」
「別に、気に入らねえってことはねえよ」
 秋野は体勢を立て直して哲を睨む。哲はその顔を見て少しだけ気分がよくなった。秋野を苛立たせてやったと思うと胸がすく。
「どうした、バイトの時間じゃないのか」
 哲は居酒屋の厨房で働いている。金曜のこの時間は、飲食店が一番忙しい時間帯だ。普段なら、定休日以外哲がこの時間にうろついていることは殆どない。
「臨時休業」
「どうして?」
「親父さんの娘が結婚するってんで、明日からハワイなんだと」
「へえ」
 哲の勤める居酒屋は、今日から店を休んで家族総出で旅行の準備をするという。長い休みが即収入減に繋がる自営業のこと、今まで大した旅行もしなかったのだろう。親族だけでハワイで式を挙げるそうで、それはさぞやいい思い出になるだろう。
「親父さんのことはどうでもいいんだけどよ。今日昼間先生のところの机の鍵開けてきた」
 先生、と言うのは手塚のことだ。秋野はへえ、と呟く。
「で、ついでにお前に渡してくれって」
 哲は何の変哲もない茶封筒を差し出した。手塚に帰り際に思い出したように渡されたのだ。秋野は黙って封筒を受け取る。哲はコートを羽織った秋野の格好を見て僅かに首を傾げた。
「出掛けるとこか?」
「いや、戻ったところだ。上がれば」
 哲は頷くと秋野の横を通り抜けて部屋に入り、その時ついでに向こう脛を蹴飛ばすのも忘れなかった。

「そういやカツラギってお前知ってるか?」
「ああ、なんかいたな、そういうの」
 秋野がコートを掛けながら言い、哲は一瞬考えてあの男の顔を思い出した。仙田に一杯食わされてきりきりしていた奴がそんな名前ではなかったか。
「安永の下にいた奴なんだって? そいつが安永のとこから出たとかなんとか聞いたが」
 秋野はコートの下に着ていたジャケットをソファに脱ぎ捨てながら訊く。普段は哲と変わらないカジュアルな格好だが、今日はどこへ行っていたのか、洒落た服を着込んでいた。
「仙田と会ってたのか」
「いや、何で」
「仙田を追っかけてた奴だろ、それ」
「ああ、やっぱりそうなのか」
 秋野は哲の向かいに腰を下ろすと溜息を吐く。首でも凝っているのか、自分のうなじを揉みながら、物憂げに薄茶の瞳を上げた。
「耀司の親父さんと会ってたんだ。そっち通しでまわってきた仕事があったから」
「あの、きれい好きとかって?」
 煙草を銜えながら哲が訊くと、秋野は目を瞬いた。自分で話したことを忘れたらしい。それこそ仙田のごたごたの時に拳を腫れあがらせて現われて、そんなことを話していったことがあったのだ。
 秋野は自分でも思い当たったのか、ゆっくりと口の端を曲げると頷いた。
「——そうだな。そんな話したか」
「お前ガキの頃耀司の家に住んでたって言ってたか? じゃあ耀司の親父さんはお前の父親みたいなもんか」
「まあ、……そうであったらいいとは思うがね」
 哲の質問に、秋野は突っ込みすぎだとばかりに苦笑する。その辺は、哲には理解できないが複雑なのだろう。もしかして自分が何事も単純に捉えすぎるだけかも知れないが。
 哲は黙って煙を吐いた。紫煙がふわりと広がって顔の周りを取り囲み、ほんの一瞬目の前の秋野が霞む。
 手塚は興味ありげに色々訊いてきたが、本当の意味で立ち入ったことはひとつも訊きはしなかった。それが大人と言うもので、手塚の気遣いと言うものなのだろう。
 しかし哲は、こと秋野に限ってはそうして質問を選んでやる気が起きなかった。好奇心や、興味というのともちょっと違う。秋野を深く知りたいと思うわけでもない。
 その感覚は、錠前を開けるときに似ている。
 手を突っ込んで、こじ開けて、引きずり出してやりたいのだ。
 その感情をなんと呼ぶのか、哲は知らない。秋野が哲のすべてを手に入れて咀嚼したがるように、哲は秋野のすべてを引きずり出して地面にぶちまけてみたかった。

 

「——しかしお前、見かけもそうだけど経歴も派手だよな」
「そうかね」
 煙草の先の灰が今にも落ちそうになっていた。ゆっくりと灰皿に落とすと、秋野が訝しげに哲を見る。自分で思うより長い間、秋野の顔を凝視していたらしい。
「そうじゃねえの。中々いねえだろ」
「そりゃ、ありふれてるとは言いかねるがね。俺は別に希少品種になりたかったわけじゃない」
「じゃあどうなりたいんだよ」
 哲が聞き返すと、秋野はちょっと考え込んだ。改めて問われるとどう答えたものか決めかねる、と言った風情だ。哲が煙を肺に二回送り込む間、秋野は黙りこくっていた。
「……普通」
「ああ?」
「普通に。あれだ、埋没する個性ってやつ?」
 眉を上げる哲に秋野は肩を竦めてみせた。わざとらしいふざけた態度が、却ってその言葉が真実だと訴えているような気がする。
「よく言うだろ、高価な花束より道端を飾る花のほうがいいとか何とか」
「あれか、派手で金食う女より地味で料理上手がいいってやつか」
「——何か違う気もするがまあそうだ」
 秋野は髪を掻き毟って溜息をつく。セットされた髪がぐしゃぐしゃになるが、頓着していない様子で顔を擦った。
「けど、普通のお前って、どんなだ」
「さあ。——普通の家に産まれて、普通の眼の色で、普通に学校に通って、ってことか」
「だからってまともに育つとは限んねえけどな。俺がいい見本だ」
 哲は頬を歪めて煙草を揉み消す。まったく、秋野の言う普通、はすべて自分に当てはまると言うのに、自分が世間的に普通かと問われれば我が事ながら首を捻りたくなる。
 哲の手元から一筋、断末魔のような細く鋭い煙が立ち昇る。哲は不意に喉の渇きを覚えて立ち上がった。水道を捻りながら哲は続ける。
「それに、お前が普通だったら俺と会ってねえだろう。もし何かで偶然会ってても、俺はそんなお前に興味ねえよ」
 秋野は、コップの水を飲み干す哲の喉仏の上下を黙って見つめている。
「お前は道端の花ってタイプじゃねえ。せいぜい高い金を払わせてやりゃあいいんだ」