仕入屋錠前屋24 いつも笑顔でいるということ / 涙の軌跡

 哲は透明な水面をぼんやりと眺めた。
 緑の茶と書いて緑茶だが、それは殆ど黄色に見えた。
 誰かが言っていた。お湯の温度が高すぎると黄色くなるの。あれは前に付き合っていた女だったか、それともどこかの居酒屋のおばちゃんか。

 祖父の遺体は、眠っているかのようにきれいだった。車に轢かれた人間がどうなるのか他に見たことはないからわからないが、祖父の顔には地面に転がった時にできた擦り傷しかなかった。
 頭と体を強く打ったことが死因だったが、年寄りでなければ死ぬことまではなかったかもしれない。
 今、祖父の体は火の中だ。
 火葬場の立派なロビーで出された弁当は、場違いに美味かった。そしてなぜか、やけに大きなやかんに入った茶は黄色い。哲はガラスを透かして見える外を見やった。
 今頃じいちゃんは煙にまじってこのあたりを浮遊しているのだろうか。俺だけ美味い弁当で悪いな、じいちゃん。胸のうちの呟きは、誰が聞くこともなくことりと落ちる。

 

 母親が小学校の時に出て行き、父親が高校の時に肝臓を患って死んだ。そして今度は祖父、佐崎英治が死んで、哲は本当に一人になった。と言ってももう二十三、誰かがいなければならない歳ではないが、元気だった祖父を亡くしたのはそれなりにショックでもあったし、悲しかった。
 あまりに急に逝ってしまったので実感が湧かず、気付けば鍋に二人分の味噌汁を作っている。
 哲は溜息をついてこれまた二つ出してしまった椀の片方に味噌汁をよそった。こうやって暫くは無意識のうちに二人分の飯を用意してしまうだろうことは想像に難くなかったし、その度に気持ちが沈むのだろう。
 簡素な食事を終えたところで電話が鳴り出し、面倒で相手も確認せずに出ると絢だった。
「哲?」
「ああ」
「全部無事終わった?」
「ああ」
「大丈夫?」
「ああ」
「ああ以外言えないわけ? 言っとくけど私の名前は『あや』で、『ああ』じゃないわよ」
 絢はちょっと苛立ったように声を高くする。彼女は見た目も中身もかなりいい女だが、気が荒い。周りに言わせればよく自分の女版みたいなのと付き合うな、ということになるのだが、少なくとも絢は哲のように暴力に訴えはしない。
「ああ」
「また。人が心配してるのに」
「ああ……、ってこれ以上言ったら切られるな」
「わかってるなら言わないでよ。近くにいるの。行っていい?」
「勝手にしろ」
 電話が切れ、きっかり五分後には彼女が戸口に立っていた。

 

「飯食うか?」
「いい。悠美と食べてきた」
 彼女は同僚の名前を言うと、テーブルの前に正座した。そこは英治がいつも座る場所だったが、絢はそんな事は知らない。敢えて指摘しても喜ばないだろうからやめておいた。
 絢は薄いコートを脱ごうとはしなかった。長居する気はないのだろう。英治は死んで絢も消える。そういう時期なのだろうか、と哲は他人事のように思う。大事なものが指の間からすり抜けていく、そういう時期が誰にでもあるのかも知れない。
 絢は哲が前に短期間アルバイトをしていた建設会社の事務員で、給料を貰う時に顔を合わせる相手だった。
 哲は祖父に持ち込まれる錠前開けを手伝うのが言わば『本業』だったから、定職に就く気はまるでなかった。
 それ程大それたことをしているわけではなかったが、法に触れることもある。雇用保険を払う身分でやることではないと思っていたし、祖父の過去を考えた上での、それは哲なりの決め事だった。
 それで、高校を出た後、あちらこちらで色々な職に就いた。絢の勤め先では定番の土方を何ヶ月かやった。いい女だな、とは思ったが、何故絢が土方風情に興味を持ったのか、今もってよくわからない。気がついたら何度か飲みに行って、なるようになっていた。
「哲、顔色悪いよ」
 絢はテーブルに両手を置いて、哲をじっと見つめた。英治がいつも同じように哲を見た、その位置から。
「絢」
「何」
「ちょっと、どいてくれ」
「え?」
 なぜか呼吸が苦しかった。額に冷や汗が浮くのが分かる。哲は一つ大きく息を吐いた。
「そこに座るんじゃねえ。——頼むから」
 絢は大人しく立ち上がり歩み寄ると、哲の頭を抱いた。

 多分最後だろう。そう思いながら女を抱いたことなどない。別れると分かっている女を抱くなど時間と体力の無駄のような気がする。おまけに今はまるでそんな気分ではないというのに。
「哲……」
 それでも絢の体の暖かさは心地良かった。柔らかな髪が頬に触れて、何とはなしに香りを嗅ぐ。絢の香水の名前は知らない。前に買ってやろうかと言ったら、自分で買うからいらないと言われた。それ以来訊いたことはない。
「ねえ、哲」
 脱力した絢が掠れた声で哲の名前を呼ぶ。暖かい掌が哲の肩を滑った。
「——何だよ」
 顔を持ち上げて絢の顔を見る。
「……ああ、乾いちゃった」
「何が」
 見下ろす絢の上気して化粧の剥げた顔は、さっきより余程きれいに見えた。
「涙の、軌跡」
「き——?」
「あと、のほうよ。ミラクルじゃなくて」
 絢は細い指を伸ばして哲の頬をそっとなぞった。目を見たままその指を掴まえて口付けると、絢は少しだけ笑う。
「哲、泣いてたよ」
「うるせえ」
 僅かに歪んだ哲の声に、絢が切なげに目を閉じた。

 泣くことなど滅多にないが、泣きたくなることだってある。笑いたきゃ笑え。哲は自分を嘲笑う自分に頭の中で悪態を吐く。
 いつも笑顔でいるということは難しい。普段からそうだというのに、今このとき、笑えるわけはなかった。

 

 

 その日、哲は大事なものをまたひとつ手放した。これで、ふたつ。
 ひとつは数日前、思いがけなく、突然に。
 ひとつはついさっき、納得して、仕方ないさと背を向けた。失うこともあるのが人生だし、開かない鍵はどうやっても開かない。
 一人で生きていくのは難しくはない。友人がいないわけではないし、女が欲しければどうにでもなる。
 何もこれから一生誰ともめぐり合わないわけではないだろう。先のことなど分かりはしないのだ。
 数年後、絢より余程自分によく似たモノに出会うことなど露知らず、哲はそう考えて煙を吐き出す。既に乾いた哲の頬に、涙の跡は残っていなかった。