仕入屋錠前屋23 どうにかこうにか

 誰だって髪を洗い流す時は多かれ少なかれ目をつぶるに違いない。
 だから、背後に立つ人間が誰かなんて見てはいないし、まさかその人間に蹴られるとは思いもしないだろう。

 秋野は裸の背中を蹴飛ばされて、泡だらけの水を顔にかぶってしまった。
 掌で顔を拭って振り返ると、意外というべきか案の定と言うべきかそこには哲が立っていて、にやにや笑いながら秋野を見下ろしていた。
「よう」
「ようじゃないよ、挨拶代わりに蹴るのも大概にしろ」
 シャワーの湯を哲のほうに向けてやると、哲はそれを避けながら隣の椅子に腰掛けた。
 まつ乃湯は相変わらず悲しくなるほどの盛況ぶりだ。意外と広い湯船にはそのまま倒れはしないかと心配になるほど高齢の年寄り。洗い場には他に二人の、これまた老人がいるが、普通なら風呂屋が一番混む時間にこれだけでよく営業できると感心してしまう。大体が秋野はよく来るが、ここで哲と会ったのは初めてだった。
「お前風呂でも壊れたのか?」
 秋野が洗った髪をかき上げながら訊くと、哲は首を振った。
「いや、俺の部屋じゃなくてなんかアパートの水道管がどうしたとか言ってたけど、よくわかんねえ。待ってりゃ直ったんだろうけど、面倒で」
 哲は洗面器に湯を張ると顔を洗いながら言う。
「抽斗開けてから来てなかったんだけどな」
「そりゃ薄情なことで」
 秋野は立ち上がって哲の背中を見下ろした。そっとシャワーを冷水にして、屈む哲の背中にかけてやる。飛び上がった哲に洗面器を投げつけられ、秋野は声を立てて笑った。

 湯船に浮かんだまま寝ているのではないかとも思えた老人が驚くほどしっかりとした足取りで上がって行き、入れ替わりで哲が入って来た。
「温いな」
「そうか?」
 秋野から人一人分置いた距離で隣に座る。本来はそれが哲の間合いなのだろう。秋野は、いつもは自分が無遠慮にその間合いを詰めているだけだと改めて気付き、薄く笑った。
「何だよその顔」
「生まれつきだ」
「物騒な赤ん坊だな」
 肩を竦めた哲は肩まで湯につかり、壁に凭れて目を閉じた。秋野はその哲を何となく見やった。
 くっきりとした輪郭、寝顔までも不機嫌そうな顔は、今もどこかしら怒っているような表情だ。それこそ生まれつき、というやつだろう。
 服を着ているときは痩せて見えるが、しっかりした骨格には薄いながら引き締まった筋肉の束が載っている。平らな腹や硬そうな腿は、こうやって見ていても何一つ性的なものを喚起させなかった。
 秋野は内心溜息を漏らした。素っ裸で隣にいてもまったく食指が動かない。それなのになぜああいうことになってしまうのか、自分でも自分の本能を測りかねる。
 気付くと哲が目を開け、射るような目で見上げていた。
「何だよ」
「いや、色っぽくないな、と思って」
「気色悪いこと言うんじゃねえよ。のぼせたか」
 哲は露骨に嫌そうな顔をして秋野の目を臆することなく見る。
 眼で殺せ、とは使い古された表現だが。もしそれが可能ならば自分は哲と会ってからこっち、何度死んでいるかわからない、と秋野は思った。
「あー上がったらビール飲みてえな」
「瓶の牛乳とかな」
「ああ、ガキの頃飲んだな。コーヒー牛乳とかフルーツ牛乳とか」
「買ってやろうか?」
 秋野が言うと哲は笑った。
「いらねえよ。甘ったるいのは好きじゃねえんだ」
 食べ物や飲み物だけではないだろう。どこまでも甘いという形容詞が似合わない哲の、濡れた肩の線を見ながら秋野は頬を緩めた。
 抱いても甘い声一つ上げようとしない哲。それだからこそ欲しいのだし、そうでなければこの目にさえ意味はない。
 殺されそうにきつい視線に満足そうに目を細め、秋野は湯船から上がった。哲は再び目を閉じる。出口に向かいかけた秋野の背に哲が声を掛けた。
「秋野」
「何だ?」
 振り返れば、哲の目は閉じられたまま。
「風呂場で並んで喋ってたら、爺になった気分になんねえか」
「——まあな」
「俺の分も買っておいてくれ」
「コーヒー牛乳?」
「違う、ビールだ馬鹿」
 開いた目に睨まれる前に、秋野は哲に背を向けた。これ以上あの目で見られては堪らない。さすがに公共の場で獲物に食らいつくのは躊躇われる。
 今ここであの馬鹿の腕の一本でも食い千切ってやれたら、どんなにいい気分か知れない。
 どうにかこうにかその衝動を飲み込んで、濡れた床を踏む。
 秋野は口の端を曲げて笑いながら、湯気で曇ったガラス戸を引き開けた。