仕入屋錠前屋22 風まかせ

 葛木は、これ以上ないと言うくらい渋い顔をしている。見る者によっては可愛いとさえ言いそうなその顔立ちを歪め、寒空の下待ちたくもない人物を待っていた。土曜の午後、スクランブル交差点は人でごった返している。大きな紙袋を持った派手な格好の少女に突き飛ばされ、葛木は口の中で少女と紙袋を罵った。
 信号が赤になり、やっと人並みが途切れたが、待ち人の姿はどこにも見えない。携帯を開いて時間を確認すると、指定の時間を十五分近く過ぎている。葛木は味気ないデジタル表示を睨みつけて心に決めた。十五分待ったら帰ろう。俺が待っていてやる義理はない。この時計が十五時十五分を指したら、帰ろう。
 次に時計を見たら、十五時四十八分と表示されていた。葛木は舌打ちして携帯をジーンズに突っ込んだ。外の風は冷たいし、もうすっぽかされたと見て間違いない。よくも四十八分も待ったものだと、自分に感心さえしてしまう。もう一度交差点を眺めて溜息をつき、地下に入ろうと百貨店を振り返ったら、ガラス戸の向こうでセンダが手を振っていた。
「ずっと後ろにいたんだよー。カツラギ、全然気付かないんだもん」
「声かけろよっ!!」
 思わず大声を出した葛木を通り過ぎる主婦の集団が眉を顰めて避けて通った。センダはにこやかに葛木の肩を叩くとまあまあ、と言う。
「だってえ。俺のこと待っててくれるかと思うと嬉しくってさあ」
 およそ誠意の欠片も感じさせない軽薄な口調でそう言って、葛木を見た。
「カツラギ、寒いでしょ。ずっと外にいたもんね」
「誰のせいだと思ってるんだ。早く用件を言え」
「こんなとこで?」
 そう訊かれて見回せば、百貨店の入り口は、待ち合わせの相手を待つおばちゃんでいっぱいだった。葛木はうんざりした声を出した。
「どこでもいいから早くしろよ。それと俺を呼び捨てにするな」
「了解、カツラギさん」
 わざとらしいセンダの返事に、葛木は思わず、地面を蹴った。

 百貨店の向かいに建つファッションビルに入ったカフェは空いていた。時間的にはお茶でも一杯、と言う客が多そうなのだが、センダ曰く、夜の食事の時間のほうが混むと言う。左腕に刺青をし、唇にピアスをぶらさげたセンダはこの場所に妙に馴染んでいたが、葛木は落ち着かなかった。メンズの売り場にぶらりと入ったことはあるが、いわゆるカフェらしいカフェの雰囲気に慣れていないのだ。やたらふわふわしたソファも、くもの巣に引っかかった虫のような気分にさせられる。
 嫌味なほど洒落たグラスに入った水が運ばれてきた。押し黙る葛木に苦笑して、センダはコーヒー二つ、と女の子に笑顔を向けた。
「そんな顔しないでよ」
「生まれつきこういう顔なんだよ」
 ふて腐れた葛木に、センダは益々機嫌よさげに微笑んだ。その顔を見ていると大声で叫び出したくなる。とにかくこちらの神経を逆なでするためにこの世に存在しているとしか思えない。
 センダはコーヒーを運んできた女の子に、ペン貸してもらえますか、と話しかけた。女の子がボールペンを持って戻ってくる。センダはテーブルの上の紙ナプキンを一枚取り出して何かを書き付け、葛木に押して寄越した。
「仙田次暢って言います。はじめまして」
 センダの名前や連絡先など今更別に知りたくもなかったが、葛木ははあ、と言って頷いた。だから一体何だと言うのだ。
「カツラギの名前も教えてよ」
「——いやだね」
「何でー? いいじゃん、別に」
 子供のように騒ぐ仙田を忌々しげに見て、葛木は渡されたボールペンを取った。葛木優、と律儀にフルネームを書いてしまう。仙田がマサル? と訊くから、また正直に違う、ユウだ、と答えてしまった。
「葛木ってこういう字書くんだね」
 放り出されたボールペンを受け取って右手で回しながら、仙田は記された名前を眺めて微笑んだ。
「ねえ、葛木ってどうして安永の下なんかにいんの。全然合わないと思うんだけど?」
 葛木はわざと音を立ててコーヒーを啜り、乱暴にソーサーにカップを戻した。がしゃりと音がして、ソーサーの上のスプーンが跳ねる。
「てめえに何の関係があんだよ。散々迷惑掛けて次は詮索かよ」
「だって知りたいんだから仕方ないでしょ」
 何が仕方ないのか、奥二重の目を楽しそうに煌かせる仙田を睨みながら葛木は言った。
「——合うとか合わないじゃあなくて、拾ってくれた恩があんだよ」
 恩と言っても大したことではない。こだわる自分のほうが律儀すぎるのだろうし、安永は粗大ゴミの中から使える椅子を拾ったくらいにしか思っていないのは分かっている。安永のことだってちっとも好きではなかった。それでもそういうことをなかったことに出来ないのは、自分の育ちのせいかもしれないし、小心者の性格ゆえかもしれない。
 そう思った葛木は、仙田にここまで腹が立つ理由を突然悟った。
 自分の前で一見邪気がなくにこやかにコーヒーを啜っている男の、いい加減とも言える気ままさに、初めて会ったときから憎悪に近いものを覚えたのだ。風まかせに漂う何か。次はどこにいて何をしているのかわからない何かに。自分がやりたくてもできないことをする男が、羨ましくて憎たらしかった。
 仙田は大きな笑みを見せると、葛木の名前を書いたナプキンをポケットに突っ込み、立ち上がった。
「何かあったら、連絡頂戴。お仕事ならいつでも引き受けるよ」
「てめえみたいな信用できないやつに頼むわけがないだろ」
「ひっどいなあ。今回迷惑掛けたから、次回はお安くするよ。じゃあね、葛木さん」
 仙田はコートを手に取り、手を振りながら出て行った。一体なんだったのか。葛木は暫く呆気に取られていたが、思わず吹き出した。確かに安永のところから出るにはいい機会かもしれない。元の生活に戻るにせよ、このままろくでもない世界に残るにせよ。
 いずれにせよ仙田のように風まかせに生きることは出来そうもないが、それでも自分の中の何かが、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。
 葛木は、机の上に残された紙ナプキンを見た。仙田次暢、と意外にきれいな筆跡で書かれた下に、携帯の番号。その番号を見ながら、ゆっくりとボタンを押していく。呼び出し音二回で、明るい声が電話に出た。
「はい、センです」
「コーヒー代くらい払って行けよ、馬鹿野郎」
 楽しそうな笑い声がして、店の入り口に現われた仙田が、葛木を手招いた。