仕入屋錠前屋22 理由が必要なら

 あの丸顔の男を殴っている間、ジャケットのポケットで携帯が鳴っていた。失神した男を放り出してその場を離れながら履歴を見ると、哲だった。掛けなおすと、呼び出し音は鳴るが一向に電話に出ない。諦めて切ろうとするとやっと電話口から不機嫌な声がした。
「仙田が忘れ物してったんだけど、お前に渡しゃいいのか」
 相変わらずもしもしでも何でもない哲に思わず頬が緩む。
「何だ、大事なもんなのか」
「いや、歯ブラシ。捨ててもいいんだけどよ、何かあの馬鹿うるさそうじゃねえか」
「——確かに」
 仙田のことだから、この世に一つしかない歯ブラシなんだとか何とか言いそうな気がする。そしていちいちそんな仙田に付き合っていられないという哲の気持ちもよくわかった。
「近くにいるから行く」
「ああ」
 秋野は殴りすぎて痛む拳をポケットに突っ込むと、哲の部屋の方向へと足を向けた。

 最近は施錠されていないドアにも慣れた。それでも人の家とは言え、上がる時に鍵をする癖だけはどうにも抜けない。目の前の錠前屋はそれを鼻で笑うが、世の中錠前屋だらけではないのだから無意味ではないだろう。勝手に靴を脱いで上がりこむと、哲も当然のようにして、目を向けることすらしなかった。何をしているかと思えば洗濯物を畳んでいる。意外と手際がいいのは親のいない暮らしが長いせいだろう。
 床の上に積みあがった畳んだタオルの上に、仙田のものらしき歯ブラシが載っている。そのまま掴んでコートのポケットに突っ込むと、哲がちらりと目をくれ、そのまま秋野の手を眺めた。
「その辺に血つけんなよ」
 言われて見てみれば、先ほどの男を殴った時に出来たのだろう擦り傷から血が滲んでいた。
「ああ」
「楽しいことする時は俺を呼べよな」
 三度の飯より女より喧嘩が好きな錠前屋はそう言って秋野の目を見、妙な表情をした。秋野は、カラーコンタクトを入れているのを思い出して、僅かに笑う。黒い目の秋野を見ると、哲は必ずこういう顔をする。うそ臭え、とか何とか言うのがその理由らしい。どうせ長時間の装用には向いていない。指を突っ込んでそれを外しゴミ箱に放ると、秋野はコートを着たまま床に座って壁に凭れた。
「不細工なボクサー崩れに襲われるのが楽しいことかね」
「俺は楽しい」
「哲、お前は俺の手には負えないよ」
「今頃気付いたのか」
 哲は畳んだ洗濯物を手に立ち上がった。畳み方はきっちりしているが、備え付けの古臭いクロゼットに適当に放り込んでいくやり方は、几帳面とは程遠い。足でクロゼットの扉を閉めると、哲は座り込んだ秋野を見下ろした。
「茶でもいれるか? 顔が白くて気持ち悪ぃぞ、お前」
「寒い中結構歩いたからな」
 秋野は相変わらず室温が低い哲の部屋を見回した。仙田が得意げに片付けたと言っていた部屋は、確かに普段よりはすっきりしている。秋野の視線を追って、哲は肩を竦めた。
「どこに何があるかわかんねえんだよ、片付きすぎると」
「ああ、それはわかる。俺も子供の頃耀司の家に住んでたときはそういうことがあったな。耀司の父親ってのがまたきれい好きで」
「父親が? 変わってんな。うちの親父は飲んでクダ巻く以外に何もしなかったけどな」
 秋野は口を噤んで自分の血の滲む拳を見つめた。尾山に対する気持ちは、感謝や尊敬だけではない。本当の肉親に対するような気持ち。実の母親に抱くものさえ、尾山家の人々に注ぐ感情には劣るのだ。息子ではないと自ら口に出しておきながら必要以上にあの男を痛めつけたのは、自分に対する憤りなのか、それともどうやっても尾山の息子にはなれない事に対する悲しさだったのか。
 どちらにとってもあの男にとっては迷惑千万であっただろうと思うと、それはそれで愉快ではあったのだが。
 黙り込んだ秋野を、哲がちょっと不思議そうに見下ろしていた。秋野は、哲の顔をぼんやりと眺めた。

 

 秋野は、考え事をしているような顔をして哲のほうを見ていた。秋野の腿の上に置かれた拳は、真っ赤に腫れて血が滲んでいる。そうなるのは一体どういう時か、哲は誰よりもよく知っている。
 硬いものを思い切り殴りつければ、拳は痛む。要するに、喧嘩した後の哲の拳はそうなっていることがかなり多い。一度や二度相手の顔を殴ったくらいでそうはならないし、腹やなにか、柔らかい部分なら尚更だ。
 秋野がどこで誰とやりあって来たのか知らないが、普段無茶をしない秋野がそこまでやったとしたら、余程相手の数が多かったか腹に据えかねたか。前者にしては秋野のダメージがなさすぎるから、後者なのだろう。
 哲は、床に座り込んだ秋野の投げ出された脚の間に立った。秋野が哲を見上げる。その色の薄い瞳はいつでも、野獣のように苛烈な光を伴って哲を射る。今のように、何かに気を取られてぼんやりと視線を彷徨わせていた後でさえ。
 そうでなくては、傍にいる価値がない。何かを追い求めるように気弱な瞳を見せる秋野など、自分の横に存在する価値がない。
 仙田に言ったことは、嘘ではなかったが、本当の理由ではなかった。
 あんた喧嘩強いんだし、本気で抵抗すりゃいいんじゃない。よくないなら何でやらせるんだよ。
 秋野が自分より強いからだ。
 そして、強いものとやり合う興奮こそ、哲が求めるものに他ならないからだった。

 哲は秋野の頭上の壁に両の掌を突いた。怪訝そうな秋野に腰を屈めてゆっくりと覆い被さり、自らの体を両手で支えながら唇を合わせた。
 普段なら間違ってもそんなことをしない哲の行動に面食らったのか、唇の裏側をなぞる舌に、秋野の反応はなかった。舌先で歯をこじ開けると、秋野がやっと思い出したように身じろぎする。
 口腔内を探りながら足先で鳩尾を蹴飛ばすと、秋野が低く呻いた。伸ばされた手が、哲の後頭部に回される。頭と腰を強く引き寄せられて、両手では体を支え切れずに床に膝をついた。満足に呼吸ができないのと興奮とで体がぐらぐらしたが、秋野に縋るなんて死んでもごめんだ。床についた両膝に力を入れると、両腕を体の脇にだらりと垂らす。どのみち頭を押さえられていれば倒れることもできはしない。
 わざと秋野の前歯に歯を当てる。硬い音と不快な衝撃があったが、構わずに歯列に齧りつく。首を振って逃れた秋野に威嚇するように唇のあちこちを噛まれ、吸い上げられた。
 こうなったら——と言うか、いつもそうだが——もはや喧嘩と変わらない。乱暴に舌を絡ませると、秋野の喉からくぐもった笑い声が漏れる。
「どういう風の吹き回しだ、哲」
 上がった息の間、僅かに離れた唇の隙間から、しゃがれた声で秋野が訊いた。声になるかならないかの呟きはしかし、これだけ近いと難なく聞き取れる。
「別に。理由が必要なら、腹が減ってたってことにするか」
「何だそりゃ。俺は食い物か」
 もう一度唇を寄せてくる秋野の頭を、両手で掴んだ。そうか、いっそ食い物だと思えばいいのか、と頭の隅で考える。長い口付けは、甘くも官能的でもなく、ただ、痛みを覚えるほどに凶暴で激しかった。

 唇が離れた途端、哲は勢い良く立ち上がった。
「あー膝が痛え」
 曲げたままで固まったような膝を軽く回していると、秋野が前髪をかき上げながら哲を見上げる。
「——中途半端に煽っといて、勘弁しろよ」
 哲はにやりと笑って秋野の渋面を見た。こいつが普段の冷静沈着な顔を捨てて苛立つのを見るのは、本当に楽しい。
「残念ながら俺はそんなに親切じゃねえんだよ」
「たまには俺を甘やかしてくれ」
「つまんねえ冗談だな」
 何事もなかったような哲の顔を見て舌打ちした秋野の踵が、まだ強張る膝を蹴った。結構痛かったが、面白いのでまあいいだろう。哲はにやついたまま秋野を見下ろす。当の本人は何やら悪態を吐きながら、そのわりに冷静な顔で額に手をやり、目を閉じて壁に凭れた。