仕入屋錠前屋22 靴擦れ

 案の定、安永は壊れたパソコンには無頓着だった。
 データの載せ換えすりゃいいんだろ? 気にすんな。
 そりゃ、あんたがするわけじゃないもんな。それに消えたデータの殆どは手打ちで復元しなきゃなんないんだよ。葛木は頭の中でそう毒づきながら、表面上はすいませんでした、と頭を下げた。安永は鷹揚な態度を見せて微笑んでいるが、それは自分に直接係わることではないからに過ぎない。安永が微笑んだまま口を開いた。
「よう、葛木、お前今日の夜は暇か」
 上にそう聞かれれば、例え用事があったとしても言い出せないのはサラリーマンもちんぴらも変わりない。
「いえ、別に」
「じゃあ奥村と二人で付き合えや。フランス料理、食いにいくからよ」
 安永はご機嫌でそんなことを言う。どうせ葛木と奥村は相手に見せるためのお飾りに過ぎない。相手が商談相手だろうと愛人だろうとそれは同じで、どうせ玩具の兵隊は飯を食わない。
「はい、わかりました」
 既に着替えに戻ったという奥村は嬉々としているだろう。あの馬鹿はそんな役割も大好きなのだ。さすがに今着ているジーンズとミリタリージャケットでフランス料理店に行く気にはなれない。葛木はうんざりしながら事務所のドアを開けた。

 尾山の行きつけのレストランは、こぢんまりとしていて居心地がいい。出されるメニューの半分は原材料がよく分からなくてある意味不気味ではあったが、味がよければ否やはない。
 仙田を送り届けた直後、尾山から連絡が入った。フランス料理なんかどうだ、という誘いは誘いでありながら命令のようなもので、秋野は苦笑しつつも有り難くご馳走になることにした。
 尾山は食後のコーヒーを手ずから運んできたシェフと談笑した後、秋野に向き直った。
「いや、続けてつき合わせて悪いな」
「構いませんよ。何の用もないから」
 それは本当で、どうせ一人の夕食なら尾山と会うのは苦ではない。
「お前、仙田って男と付き合いがあるのか?」
 尾山が仙田の名を出したので、秋野はちょっと目を瞠った。尾山はいかがわしい商売をしているとは言っても、仙田のような偽造屋に知り合いはいないはずだった。
「まあ、仕事で少し。なぜです? 何かありましたか」
「いや、その男を捜すのにお前の居所聞いてまわってるやつがいるって小耳に挟んだからさ」
「そんなことを確認するだけなら電話で済むでしょうに」
「それじゃ味気ないじゃないか。たまには親父を喜ばせろよ」
 尾山の台詞に僅かに胸が痛む。尾山は昔から秋野を息子のように扱う。彼が求めるように素直に父親と思えないのは、やはり自分の中の何かがひねくれているからだろうか。小さな頃から散々、耀司より余程性格が尾山似だと言われて来た。嬉しい反面悲しいのは、本当の父親を知りたいという子供の頃の夢が、不可能と知っているからかもしれない。そして、最早父親などどうでもいいと本気で思ってしまう今の自分が、悲しいのかもしれない。
「尾山さんはどうやったら喜ぶのか、難しいからな」
 そう言って少し笑った秋野に笑みを返して、尾山は伝票を手に取った。
「そろそろ行くか」
「尾山さんじゃありませんか」
 気取ったようなその声に、秋野はゆっくりと振り返った。尾山も秋野に続いて声のしたほうを見る。勘定をするために立ち上がった秋野達とすれ違う位置に立っていたのは三人組で、声を掛けたのは一番年長の男だった。黒々とした豊かな髪は、全体にウェーブがかかっている。ベージュのソフトスーツはサラリーマンの着るものには見えない。従えているのも、ごく普通、とはっきり言いきれない青年が二人。一人はレスラーか何かのようにでかくていかつく、頭が悪そうだ。坊主頭が脱獄囚のような印象を与える。もう一人は短髪でくっきりした目元の痩せた男で、こちらは警戒心で一杯ながら、レスラーほどやる気がなさそうだった。
「ああ、どうも」
 尾山は口元の筋肉だけで笑いながら男に対した。差し出された右手をさりげなく、しかしはっきりと無視して笑顔を見せる。向こうも特に怒りもせず、右手はさっさと引っ込められた。
「偶然ですな。こちらにはよく?」
「いや、今日が初めてです」
 尾山は平然と口から出任せを言う。よく顔を出すレストランだと知られたくないのはわかるが、呆れるほど面の皮が厚い。秋野は内心感嘆した。男は秋野を見て、軽く会釈した。
「ご子息ですか。確か一人息子でいらっしゃる? 将来はお父さんの会社を背負って立つんでしょうな」
 男は尾山と並んで立つ秋野を息子の耀司と勘違いしたようだった。秋野も尾山も敢えて間違いを正そうとせずに曖昧に微笑んだ。品定めするように上から下まで無遠慮に観察されて、秋野の微笑みは益々うわべだけの物になる。粘っこい視線は相手の弱みを見落とすまいとする執念が滲み出ているようで、酷く不快だった。男は更に二言三言社交辞令を並べ立てて、勝手に去って行った。
「——誰ですか」
「安永、幸二——いや、幸平だったかな。一応何とかコンサルタントとかいう会社をやってるみたいだが、会社としては何もしてないんじゃないか」
 尾山は安永のジャケットの背中を目で追いながら言った。
「いい噂なんて聞いたこともない。盗難車を売っぱらって金にしたり、暴力団から薬を流してもらって売り捌くのが主な仕事なんだろ。うちの店の女の子が一人薬買ってて、今更正施設に入院中だよ」
 尾山は昔から覚せい剤や麻薬の類を忌み嫌っている。秋野もそうだが、何をしてもクスリとだけは係わらないと決めている。その尾山が安永を嫌うのは当然だった。その店の子のことで、安永との間に諍いでもあったのだろう。
「潰すほどの男ではない?」
 秋野が低く訊くと、尾山は首を振った。
「今は。靴擦れみたいなもんだよ、あの男は」
 大した傷でもないくせに、ひどくなれば歩けなくもなるような。多分そう言いたいのだろう。
「禍根を残すような気もするが、俺は別に正義の味方でも警察でもないからな」
 耀司によく似た猫のような目で、尾山はもう一度安永の背中を振り返った。

 

「気に入らん男だな」
 尾山と言う男に背を向けた途端、安永の顔から貼り付けていた笑みがきれいに剥がれ落ちた。葛木がちょっと振り返ると、尾山と息子はレストランのガラス戸から外に出て行くところだった。
「誰ですか、あの野郎は」
 奥村の甲高い声がへつらうように言った。安永は鼻を鳴らして尾山、ともう一度口に出した。
「尾山興業って、お前ら聞いたことくらいあるだろ」
「あの、レストランとかバーとか色々やってるとこですか?」
 葛木が訊くと、安永は頷いた。
「風俗店なんかも持ってんじゃねえか、確か。そんな商売のくせに気取りやがって、虫が好かねえ野郎だよ」
 葛木はすぐに同じ穴の狢だな、と思ったが、それを口や表情に出す程馬鹿ではない。そうですか、と呟くと、安永がそうだ、と言って立ち止まった。
「奥村、葛木、お前らあの息子の方追っかけろ」
「は?」
 葛木は思わず奥村に負けないくらい甲高い声を上げた。安永は彫りの深い顔に笑みを浮かべている。先に立つボーイが怪訝そうな顔をして待っているが、安永は気にせず重ねて言う。
「だから、尾山の息子をちょっと尾けろって言ってんだよ。あの男の弱みになりそうなことだったら、息子の素行でも何でも知っておきたいんだ。ほらさっさと行かねえと、行っちまうだろう」
 タクシーに乗ったとしたら、今更追いかけても無駄だった。しかしそれを言い出せば安永の機嫌は悪くなるし、そうなると面倒臭い。奥村が張り切って、あの甲高い声で行くぞ、などと言うものだから、葛木の気持ちは更に萎えた。奥村の手に腕を掴まれながら、暗い気持ちの葛木はレストランから引き摺りだされた。

 誰かがついてきているのはわかっていた。自分自身も、尾行のやり方など警察や探偵などのプロほどには知らないが、それにしてもこれはお粗末に過ぎる。秋野はコートのポケットに突っ込んでもなお冷える手を、握ったり閉じたりした。
 空き缶でも蹴飛ばしたのか、かん、という金属音と、ばたつく足音や囁く声が聞こえてきて、何だか白けた。もしかして気付いてほしくてわざと音を立てているのだろうかとさえ思いたくなる。馬鹿な尾行者を従えて家に帰る気にはなれず、適当にそこいらを歩きながら既に四十分以上、そろそろ体も冷えてきた。諦めて帰ってくれればとも思うのだが、存外に粘り強い。昼日中なら雑踏に紛れも出来るが、この時間は人通りも少なくそれは叶わなかった。
 秋野は急に振り返り、後ろを見た。隠れ切ることが出来なかったと見える大きな影が、だるまさん転んだでもしているかのように道の真ん中で固まった。
「俺になにか用ですか?」
 声を掛けると、大きな影がそろりと踏み出した。街灯の明かりが届くところに踏み出した男は、安永と言う男が連れていたうちの一人だった。折れて曲がった痕がある鼻が、絵に描いたような悪人顔に花を添えている。
「尾山ってやつの息子だな」
 開き直ったのか、男はそう言った。秋野はそういうことかと得心した。以前に諍いがあったいけ好かない男の息子を痛めつけるか何かして、あわよくば尾山の弱点でも、ということなのだろう。何か得られればよし、得られなくてもその辺の若造一人痛めつけるのに何の躊躇もないということだ。安永と言う男の俗っぽく、安っぽい雰囲気に似合いの行為だ、と妙なところで感心する。
「尾山の息子だろ!?」
 答えない秋野に苛立ったのか、男が大きな声を出した。尾山の息子、という響きに、また胸が痛くなる。そうだ、と頷きたい気持ちが半分。喉元までせり上がったその答えを飲み込むように唾を飲んだ。
「——残念だが、違う」
 口から出た言葉は、思いもかけず心からのものだった。男はそれを保身のための嘘ととったか、野卑な顔を歪めて笑った。
「今更そんなこと言ったって駄目だぜ」
 ボクサー崩れなのか、それとも空手か。構えた姿勢は堂に入っていたが、秋野は男を鼻で笑った。男の顔が首から顔へと面白いくらい順を追って紅潮し、小さな目が血走っていく。
「俺はあいつみたいに血の気が多いわけじゃないんだがなあ」
 首を傾げて息を吐いた秋野に、雄叫びと共に男が向かってきた。

 

 葛木は、失神している奥村を前にして途方に暮れていた。結局あの男が本当に尾山の息子だったのかどうかわからないが、強いというのは間違いない。
 奥村は体格に頼るタイプだったとは言え、決して喧嘩が弱いわけではない。建物の間にせめて自分だけでも見つからないようにと身を潜めていた葛木には何がどうなったのか分からなかったが、拳か足か何かが肉を打つ音や、奥村の甲高い悲鳴は聞こえていた。奥村が敵わないのに自分が出て行っても意味はないし、そもそも奥村などこれっぽっちも好きではないから加勢しなかったが、後で文句を言われるだろうと思うとげんなりする。
 世界チャンピオンに挑戦して一ラウンドKO負けをした素人のような顔の奥村を哀れとは思わなかったが、この道の真ん中からどうやって移動させたらいいのか、葛木は暫し、頭を抱えた。