仕入屋錠前屋22 データクラッシュ

 ヤスナガビジネスコンサルタントのオフィスは、雑居ビルの一室にある。一応ドアに会社名は出ているし、オフィスにはパソコンもデスクもあるが、どれもコンサルタントには役立っていない。例えば高性能のプリンターは様々な書類を偽造するのに大活躍だったが、表向きには提案用の企画書を印刷するための物だ。
 葛木は狭いオフィスの中のデスクの一つに座って頬杖を突いていた。会社と言っても名前だけだから、デスクに座って何かすることがあるわけではなかった。
 昨晩葛木はやっとセン、どうやらセンダと言うらしい男を見つけたのだが、ろくに責めることもできぬまま帰ってきてしまった。センのわけの分からない謝罪や一緒にいた男の暴力的な態度ですっかり調子が狂ってしまったとしか思えない。
 元々武闘派なんてものとは程遠い葛木は、何もセンを殴り殺そうとしていたわけではない。ただ、自分でも理由が分からないのだが、どうしようもなく腹が立っていて、その元凶である男に怒りをぶつけたかっただけだ。それがあんなふうに悪びれもせずに謝られると、何をどうしたものかさっぱり分からなくなってしまった。仕方がないので、センの唯一残した使える物——偽造書類の元データをCD-Rから取り出して、仲間と二人、印刷してみることにしたのだ。
 狭いオフィスの中に、物思いを中断させる絶叫が響き渡った。
「かつらぎっ!!」
 奥村の声は、耳に突き刺さるような不快な周波数だ。安永の飼っているちんぴらの一人である奥村は、レスラーのような体の割りに酷く甲高い声を出す。世界的なヘヴィ級のボクサーといい奥村といい、ガタイのいい奴に限ってこんな声をしているのは一体なぜなのか。
 葛木はそんなことを冷静に考えながら、奥村を振り返った。パソコンのディスプレイの向こうの奥村は、唇をOの形にして真っ青になっている。
「どうした?」
「やばい、絶対やばいって」
「何」
 その顔色にさすがにただ事ではないと気付き、葛木は席を立った。デスクを回り込んで奥村の見つめるディスプレイを覗き込むと、それは真っ青になっていた。
「何だこれ、どうした」
「あいつの、CDだ」
 あいつが誰で、CDがどのCDか。訊かなくてもそんなことはすぐに分かった。
「読み込んだ途端、こうなった——」
 呆然と呟く奥村を無視してCDを取り出し、キーボードを叩く。強制終了も受け付けない。電源を長押しし、再度立ち上げる。本体が、軋むような異音を立てて動き出したが、ディスプレイは真っ青になったっきりうんともすんとも言わなかった。ハードディスクもまるで読み込めない。完璧にデータクラッシュだった。
 このパソコンが壊れたからと言って商売に甚大な被害が出るというものでもなかったが、それでも笑って済ませられることではなかった。安永は多分気にもしないだろう。困るのは、葛木たち、下っ端だ。
 葛木には、自分の顔色が奥村かそれ以上に白くなっていることが見なくてもよく分かった。異音を上げ続けるパソコンを呆然と見ながら、センの笑顔を諦めと怒りと共に思い出した。
 何が、ごめんなさいだ。あの糞野郎——。

 

 多くもない荷物を持参のバッグに詰めると、仙田は殊勝にもお世話になりました、と頭を下げた。本当にそう思っているかどうかはそのにやけた顔からはいまいち読み取れないが、礼を言われたところで腹が膨れるものでもない。
 カツラギという若い男がやってきた翌日の朝、秋野から連絡が入り、仙田に部屋の用意が出来たと告げた。仙田は元の家を時機を見て退居し、それまでは秋野の見つけてきた部屋に住むつもりということだった。カツラギが帰ってからこっちやたらと機嫌のいい仙田だったが、訊いてみればカツラギに渡したCD-Rには小細工がしてあって、読み込んだパソコンのハードを使い物にならなくするということだった。そんなことをして事態を自分の都合の悪い方へ悪い方へと追いやる仙田にさすがの哲も開いた口が塞がらなかったが、仙田の人生、悪くしたければそうするのは勝手だった。
 カツラギが来たことで哲の部屋は仙田にとって隠れ家でも何でもなくなったことだし、これ以上巻き込まれるのも遠慮したいから、仙田が出て行ってくれるのは非常に有り難い。多少感謝の念が薄くてもまったくもって問題はなかった。
「いやあ、ほんと、短かったけど楽しかったね」
「全然」
「何でそう愛想がないかな。最後くらい合わせてくれたっていいじゃない」
「他人に合わせるのと喧嘩で負けるのは死ぬほど嫌いだ」
 仙田は懲りるということを知らないようで、素っ気ない哲相手に独り言のように話しかける。
「そりゃ、あんたそんなでっかくもないのにやたら喧嘩強そうだけどさ。でも他人に合わせたくないとかそんなこと言って、仕入屋さんには合わせてんじゃない」
「合わせてなんかいねえよ。お前どこ見てんだ」
 哲は呆れたように仙田の前髪の後ろを覗き込むと語を継いだ。
「たまたま合うことがあるってだけの話だ。あんなのに合わせてたら気が狂う」
 仙田はふうん、と呟き、分かったような分からないような、と口の中でもごもご言った。哲は仙田を無視して煙草に火をつける。秋野が仙田を引き取りに来るまでは、付き合ってやらねばならないのだ。いちいち返答するのも面倒だが、狭い部屋の中では他に逃げ込む場所もない。
 床に胡坐を掻いていた仙田が、胡坐を崩して膝を抱えた。中学生以来ご無沙汰の体育座りというやつだ。仙田はがっしりした骨太の体をしている。そんな座り方は妙に滑稽で、そして可笑しくもある。何にせよ憎めない男だということは認めざるを得ない。その仙田は、抱えた膝に顎を乗せ、哲を見て言った。
「じゃあ本当に恋人とかじゃないんだ」
「やめてくれ。虫唾が走る」
「でも寝たことあるんでしょ」
 仙田は悪戯っ子のように笑って首を傾げた。
「いいじゃない。後学のために教えてよ」
「どうしても挑戦してみてえって言うなら好きにすりゃいいが、あんなもん、わざわざやってみる価値はねえぞ」
 哲が吐き出す煙草の煙にむせながら、仙田は目を瞬いた。
「あんた喧嘩強いんだし、本気で抵抗すりゃいいんじゃない。よくないなら何でやらせるんだよ」
「やってる最中なら噛み付いても殴っても大した文句は言われねえからな」
 にやりと笑った哲の表情に、仙田は顔色を失いながらも首を左右に振った。
「呆れた。よっぽど喧嘩好きなんだね、あんた」

 怖いものでも見るように見上げる仙田に訝しげな表情を返しながら、秋野は仙田を引き取って行った。これから仙田に最低限必要なものを買わせ、それから部屋に行くという。大袈裟に別れを惜しむ仙田に心のこもらない挨拶をして、哲は部屋のドアを閉めた。
 家の中はいつになく小奇麗になっている。不潔なのは嫌いだが片づけが好きなわけではないから、普段は部屋の中は散らかっていることが多い。秋野は別として、一人暮らしの男の部屋としてはごく普通だと思う。仙田が暇に飽かせて片付けたお陰で、却ってどこに何があるのかわからない。
 祖父が死んで以来、誰かと生活したのは初めてだった。秋野や猪田がふらりと寄って泊まっていくことはあっても、本当に日常の中に入り込んでくるわけではない。自分の生活に誰かがいるというのが、これほど重たいものだとは思わなかった。仙田個人がどうこう言うのではなく、自分はそういうことが向いていない質なのだろう。無意識のうちに疲労していたことに気付いて溜息をつくと、寝なおそうかとマットレスに横になる。どのくらいの時間が経ったか、ぼんやりと天井を見つめていたらチャイムが鳴って、哲は身を起こした。

 くっきりとした二重の目で睨んでいるのは、昨晩訪ねて来たカツラギという男だった。哲より少し背が低く、精一杯強面を気取ってはいるが、成功しているとは言いかねる。その証拠に、哲の無表情に居心地が悪そうに両足を踏み変えていた。
「なんだ、まだ何か用か」
 狭い玄関に哲が立っているので、カツラギから室内は見えないはずだった。仙田がまだいると思って来たのだろう。CD-Rの話を思い出し、哲は無理もない、と珍しく目の前の男を哀れに思った。仙田に振り回されて、すっかり混乱している様子だ。
「センダ、と話したいんだけど」
 拗ねたような物言いは、昨日無様に床に転がされたことに対する羞恥かも知れない。しかしそういう顔をすると、尚更目指しているらしいところから遠くなってしまうのに気付いてるのかどうか。
「もういねえよ」
 哲の答えに、カツラギは目を瞠った。
「さっき出てった。会わなかったか? その辺で」
 会っていたらここに来るはずもないが、哲がそう言ってやるとカツラギは悔しそうに顔を歪ませた。
「畜生——」
「パソコン壊れたか。あんたも大変だな」
 哲の言葉に顔をしかめ、カツラギは苛々と短い髪をかき上げる。
「あんた、あいつの仲間なんだろ。行った先教えてくれたら——」
「俺も知らねえよ。興味ねえからな」
 哲が体を玄関の壁に凭せ掛けると、カツラギの眼がちらりと動いて室内を探った。本当に仙田がいないのはすぐに分かったのだろう、残念そうな表情を隠さず、足元を見つめる。カツラギがヤクザだったら、本当に知らないとしても哲は痛めつけられるのかも知れないが、幸いカツラギはただのちんぴらのようだった。おまけにちんぴらにしては毛並みもいいし、残念ながらまともすぎるように見えた。
「あの刺青馬鹿とまともにやり合ってもあんたが疲れるだけじゃねえか。文句言いたい気持ちも分かるが、体力の無駄なんじゃねえの」
 哲ののんびりした口調が癇に障ったのか、カツラギは鼻息も荒く背を向けると、階段へ向かった。哲がドアを閉めようとすると、カツラギは振り返り、不機嫌な口調で訊いた。
「そういえば、あんたが仕入屋なのか?」
 ——どいつもこいつも。
 哲は途端にカツラギ以上に不機嫌になり、その顔を睨むと吐き捨てた。
「あの馬鹿と一緒にするんじゃねえ」
 急に温度が下がった哲の声に慌てたように、カツラギは飛ぶように階段を駆け下り、一段滑ってたたらを踏みながらも、無事哲のアパートを後にした。