仕入屋錠前屋22 数センチの強み、弱み

 あの男は余程友人に恵まれていないようだ。葛木は目の前に座る金髪の男を眺めながら思った。男は貧相な体には大きすぎる革のボマージャケットを着ている。今時流行らない上に、却って体の細さが痛々しいほど目に付く。
 何でも食え、と言ったところで只のファミレスに大した物もないのだが、男は嬉しそうにサイコロステーキ御膳、などと言うものを注文した。この顔で御膳もないだろうと思いながら、葛木は色のついた水のような紅茶を啜った。
 深夜のファミレスは、驚いたことに子供連れの姿が多かった。一昔前なら誰も出歩いていなかったこの時間帯に、結構な繁盛振りを見せている。
「セ、センは、色んな仕事、引き受けてたから」
 男は半分程残したライスをつつきながら上目遣いで言った。つっかえるように話す。
「それはわかってる。その仕入屋とか言う奴のことを知らないか?」
 センの仲間、というか知人達は、面白いほどすらすらとセンのことを喋った。と言っても、どうでもいいことばかり。あの男は周りを信用していなかったのか、結局祥央会のヤクザが集めた情報以上のことは、葛木も掴めなかった。
 分かったのは最近は仕入屋とかいう奴からの仕事を多く請けていたことだけだった。住んでいたアパートには当然祥央会があたっていたが、戻っていないようだし、仲間のところにも隠れていない。結構目立つ格好をしているからそのうち見つかると高を括っていたのだが、祥央会が引っ込むとなれば葛木一人ではどうしようもなかった。その仕入屋とかいう仕事仲間のところに転がり込んでいはしないかと、淡い期待に縋るしかない現状だ。
 目の前の横井と言う男は、センの使い走りだったらしい。しかし一目見ただけで、大事なことは教えてもらえなさそうな男だと思い知って、葛木は内心落胆した。
「知らない。センは、なんでも、全部自分でやってた」
「お前が知らなくても誰か知ってる奴がいるだろう」
「そりゃ、探せば、誰かいる」
「その誰かを見つけて連絡をくれよ、な」
 葛木は、財布の中から札を数枚掴んでテーブルの上に置いた。横井が瞬きして札を眺め、葛木を見上げる。葛木も金が余っているわけではないから痛い出費だが、今更諦めるのでは気が済まなかった。横井は暫くライスを見もせずにつついていたが、やっと箸を置いて、共犯者のように薄笑いを浮かべて頷いた。
「わかった」
 その卑屈な面を思いっきり張ってやりたい気持ちを抑え、葛木は無理矢理微笑んだ。

 

 一緒に住んでみれば、仙田はそれほど邪魔な男ではなかった。居心地いいとは間違っても言えないが、本来はお喋りそうだが意外と静かだし、干渉もしてこない。勝手に何でも使っていいから適当にやれと言ったら、頼みもしないのに掃除までし始めた。もっとも外に出ることも控えているわけだし、哲の家には暇を潰せるものは殆どないから、他にすることがあるはずもなかった。
 パソコンが欲しいとか何とか騒いでいたのも最初の一日だけで、あとは大人しくしているようだ。今頃哲の部屋でそれなりに寛いでいるだろう。
 仙田を部屋に残してバイトに出た帰り道、ジーンズの尻ポケットで携帯が鳴り出した。着信は秋野で、出たくねえなと思ったがどうせ切ってもまた掛けてくるだろう。
「うるせえな」
「まだ何も言ってないよ、馬鹿だね」
 出るなり文句を言うと、秋野はのんびりとそう答えた。
「何か用か」
「用がなくて掛けたことはないだろう」
「何でもいいから早く言えよ」
「仙田は?」
 秋野の物柔らかな低い声の後ろから、ざわついた音が聞こえる。どこか知らないが、人の多いところにいるのだろう。
「部屋にいる」
「誰も来てないな?」
「今んとこはな」
 立ち止まって煙草に火を点けるとまた歩き出す。最近、街中はどこでも歩き煙草が禁止されているが、誰も歩いていない深夜の通りなら文句はあるまい。盛大に鼻から煙を出しながら、哲は送話口に文句を垂れた。
「仙田が心配ならお前持っていけよ。俺はお別れが悲しくなんかねえからな。のし紙つけてくれてやる」
「まあそう言うな」
 電話の向こうから秋野の含み笑いが聞こえて、哲は不満の唸り声を上げた。向かいから仕事帰りと思われる女の子が固まって歩いて来た。揃いも揃って派手な化粧に大声でやかましい。
「何だって? うるさくて聞こえねえよ」
 秋野が何か言っているので怒鳴り返すと、女の子達が非難がましい視線を寄越す。
「二、三日様子見てどこかに移すから、それまでは大事に預かってくれって言ったんだ」
「わかったわかった。切るぞ」
 言うなり通話終了ボタンを押し、電話を切った。特に帰りを急いではいないが、寒空の下、男と長電話する趣味はない。待っているのが可愛い女でなくて刺青の男というのは頂けないが、早く家に帰って布団に入りたい。哲はポケットに手を突っ込み、寒さに首を縮めると足を速めた。

 

 葛木は自分の幸運に、信じてもいない神か仏に感謝した。この場合アーメンと言うべきか、合掌すべきか。目の前のごみ捨て場に空き缶の入った袋を置いて律儀に緑のネットを直している男は、センだった。室内から出てきたからか、黒い半袖のTシャツしか着ていない。左腕にはびっしりと刺青、暗くて顔立ちははっきりしないが街路灯の明かりに唇のピアスが光った。見間違えるはずがない、あの男だ。
 横井に渡した数万は結局無駄金に終わりそうだった。仕入屋を知っているものは多少はいたものの、住んでいるところや本人を知っている者は横井の周りにはいなかった。それでも金の力か、横井は結構真面目に知人をあたってはいるようだったが、どう見ても血の巡りの悪そうなあの男に期待した自分が馬鹿だったと思うと尚更気持ちが沈んでいた、その矢先のことだった。
 センは辺りを気にする様子もなくネットを直し終えると、ぶらぶらと古いアパートの外付け階段を昇った。葛木はその後姿を見ながら後ろをついて行く。センが警戒心皆無なのだから、隠れたりする必要はまるでなさそうだ。階段のすぐ後ろを歩いても、住人と思ったのか見ようともしなかった。
 葛木は、部屋のドアを引いたセンの背中に追いつき無言で蹴り飛ばした。靴を脱ぎかけていたセンはうわっ、と声を上げて倒れこむ。
「いきなり後ろから何すんの」
 センは、緊張感のない声でそう言うと体を起こして振り返り、あれ、と言って目を見開いた。
「カツラギ、さん? だっけ?」
 後ろから無言で蹴り飛ばす男に他に思い当たるところがあるのか、どうやら葛木だとは思わなかったようだ。奥二重の目を瞬いて、葛木をまじまじと見つめた。
「よくここが分かったね」
「偶然だよ。てめえがこそこそ隠れたりすっからいらない手間がかかったろ」
 葛木は土足のまま部屋に上がりこんで、ちょっと辺りを見回した。それなりに物がある部屋は、昨日今日入居した様子ではない。恐らく仕入屋とかいう奴か、友人の部屋か何かなのだろう。女の持ち物は見えない。
「あー、靴」
「ああ?」
「脱いだ方がいいと思うよ……」
「どうせてめえの部屋じゃないだろうが」
「そうだけど——あああ」
 センの弱々しい悲鳴とともに、葛木の視界が回転した。足を払われたのだと気づいた時には床に額から突っ込んでいて、何かが背中の上に載っていた。その感触は、どうやらスニーカーの底のようだ。
「人の家に土足で上がるんじゃねえよ」
 呑気とさえ言える声音は、自分と同じ年頃の男の物だった。葛木には目の前の床しか見えなかったが、そのくらいは分かる。男の靴の裏が肩甲骨の間をぐいぐいと押している。ぶつけた額の痛みと合わさって、思わず苦痛の呻きが漏れた。
「悪かったって、ちょっ——痛えよ!」
「誠意ってもんが感じられねえなあ」
 楽しそうな声は、更に体重を掛けてくることでより一層楽しげな響きを増した。センがいきなり蹴られても動じなかったのはこいつのせいかと思いながら、葛木は堪らず床を叩いた。
「ギブ、ギブだ! 頼むから降りてくれ、重い!」
 いきなり重みが消えて、思わずほっと息を吐いた。目を上げると、上のほうに——まったく腹の立つことに——同情したように眉を八の字にしたセンの顔があった。痛む背中を持ち上げて体を裏返す。葛木の足元には、若い男が銜え煙草で、見下ろすように立っていた。

 

 床に転がってこちらを見上げている男は、仙田が言っていたカツラギと言う男だった。短い髪にはっきりとした顔立ちをしている。年齢は同じくらいか。一般人、と言う感じでもないが、それ程喧嘩慣れしている様子もなく、暴力に馴染んでいるとも思えない。
「靴脱げよ」
 哲はそう言って自分も靴を脱いで部屋に上がると、カツラギの脚を跨いで台所まで行き、シンクの中で煙草を揉み消した。顔をしかめて起き上がったカツラギが忌々しげな顔をしながらも、座ったまま靴を脱いで三和土に放り投げる。転がった片方が、玄関のドアに当たって鈍い音がした。
「この人、俺に頼みに来た人ね。この間の話」
 仙田の分かり難い説明に適当に頷いて、哲は改めてカツラギと言う男を見た。拗ねたような顔をして胡坐を掻いている姿は、ヤクザには見えない。
「俺には関係ねえからなあ。仙田、お前自分で話つけろよ」
 哲がそう言ってベッドに腰掛けると、仙田は考え込むように腕を組んだ。
「話って言っても。謝ったら許してくれる?」
 真面目なのかふざけているのか分からない仙田の質問に、男の顔が赤くなる。哲はほんの少しカツラギに同情した。怒るのも無理はない。
「——謝って済むかよ」
「だって、もう元に戻せないでしょ? ヤクザさんはまだ俺のこと追っかけてるのかなあ」
「もう誰も追ってねえよ、お前みたいな小物」
 カツラギは仙田を睨みつけ、苛ついたように早口でまくし立てた。
「取引自体が大した金額じゃなかったから、上のほうはお前のことはもうどうでもいいんだとよ。だけど、それじゃ俺の腹が収まりゃしない。まったく、あんな小細工に気付きもしないで、俺は馬鹿みたいじゃねえか! 高い金払って、手に入れたのはあのデータだけかよ」
 仙田は困ったように笑った。
「データ?」
 哲が訊くと、仙田は肩を竦めて答えた。
「証明書とかの用紙のデータのCD-Rをおまけにあげたの。俺がいなくても次回勝手に刷れるように。俺って親切だよね」
「誰がだよ」
 吐き捨てるカツラギに、仙田はにこやかに話しかけた。
「ねえ、カツラギさん」
「気安く呼ぶな」
「だから、さん付けてるじゃない。俺ねえ、美大に行ってたの」
「——は?」
 全身から刺々しい雰囲気を発散させていたカツラギが目を丸くした。そうやって険のない表情を見ればやはり、強がり、とまでは行かなくても、多少の無理をしているような印象は間違ってはいないようだ。仙田はカツラギにはお構いなしに先を続けた。
「絵ってね、ほんの一筆でうまく行ってたのが全部駄目になったりしちゃうんだよね。刺青もそうなんだけど」
 仙田はカツラギの目の前まで歩いていってしゃがみこむ。
「身長だって、ほんの数センチの強みと弱みがあるけどさあ、絵とか偽造とかはそれが数ミリなんだよね。俺はそういう世界がすっごく好きで、センチ単位の、っていうかミリ単位のぎりぎりのとこで生きてたいの」
 カツラギは、仙田の前髪の奥を珍獣でも見るように見つめていた。仙田は、普段どおりに能天気にカツラギに笑いかけた。
「でも俺、自分のことすっごく嫌いなんだよね。だから時々なんかうわーってなっちゃうんだあ。カツラギさんには迷惑掛けて、本当にごめんなさい」
 カツラギよりも背の高いがっしりした体を丁寧に折り曲げ、仙田はしゃがんだまま器用にお辞儀した。毒気を抜かれたようなカツラギは、キチガイ相手に何を言っても無駄と思ったのか、やや暫く仙田を睨みつけた後、何も言わずに出て行った。