仕入屋錠前屋22 夢見た後で

「何だ、この手は」
 玄関の扉を開けるなり仙田の刺青の入った腕で行く手を塞がれ、哲は不機嫌にそう吐き出した。壁についた仙田の腕が丁度哲の肩の辺りに来る。刺青だらけの腕に一瞥をくれて仙田を見返した。
「ねえ、あんた仕入屋の何? 恋人?」
「はあ? お前頭弱いんじゃねえのか。何言ってる」
 仙田は長い前髪の間から興味深げに哲の仏頂面を眺めた。
「見てたんだけど、今の」
 哲の部屋の窓からは、丁度道路が見える。
「噛み癖があるんだよ、あの馬鹿は。何にでも噛み付くんで困ってる」
 一応預かり物だと思えばあまり怯えさせるのも憚られて、視線を逸らして足元を見た。その伏せた視線をどう誤解したか、仙田は哲との距離を一歩詰めた。今風の香水の匂いがする。香水が悪いと言うわけではなくて、仙田のつけている香りは単純に嫌いだった。顔を背けたのがまた誤解を招き、仙田は更に一歩、詰め寄ってくる。
「俺、男とはしたことないんだけど、どうなの、いいもんなの?」
「なわけねえだろう」
「や、別に俺偏見とかないよ。そうじゃなくて、あんた可愛いとはどうやっても言えないけどまあ顔も悪くな——」
「これ」
 哲が顔を上げ、唇のピアスを軽く引っ張ると、仙田は気障な感じでちょっと笑った。勘違いも甚だしい。
「下らねえこと言ってると引き千切るぞ」
 強がりだと思ったか、仙田は余裕綽々だった。長い前髪をかき上げながら微笑み、頷く。
「出来るもんならやってみなよ」
 哲は、心底嬉しくなった。何と言っても本人のお許しが出たのだ。一目見た時から決めてました、ってやつだ。思わず唇が残酷な笑いを刻む。仙田の顔が怪訝そうに曇り、眉が顰められた。哲がピアスに掛けた指に力を入れた、瞬間。
 仙田が飛び退って、哲の手から銀の輪がすり抜けた。
「おい、逃げんじゃねえ」
「いや、だって、まさかそんな本当にやんないよね!?」
 台所まで退却した仙田は、シンクの縁にがっしりとしがみついている。哲が一歩でも近寄ったらシンクの中に飛び込みそうだ。そのまま排水溝に流れてくれるなら是非ともそうして頂きたいが、パイプが詰まるだけのような気もする。
「お前がやっていいって言ったんじゃねえか。ほら、貸してみろ、一気に行くから痛くねえぞ」
「痛いよ!」
「試してみなきゃわかんねえだろうが」
「試したくないっ」
「往生際が悪ぃな、お前」
「ごめんなさい」
 仙田はあっさり降参して頭を下げた。
「もう言い寄ったりしません」
「——あ、そ」
 哲は面白くなさそうに腕を組んで上から下まで仙田を眺めた。その目つきに仙田は尻尾を巻いて——実際あったら股の間に挟んでいたに違いない——青い顔で大人しく部屋の隅へと逃げ込んだ。あと少しのところで玩具を取り上げられた哲は、鼻息も荒く、後日秋野を思う様蹴りつけて鬱憤を晴らそうと心に決めた。

 そんなわけで、秋野は翌日、出会い頭に哲の上段回し蹴りを食らう羽目になった。秋野でなければ道の向こうまで吹っ飛んでいただろうが、すんでのところでクリーンヒットは免れた。哲が心の底から残念そうに舌打ちし、哲の後ろの仙田は真っ青になって口をぱくぱくさせている。
 秋野は、足を受け止めて折れたかと思うほど痛む腕を押さえながら哲を睨み付けた。
「何だ、いきなり。えらい物騒な挨拶だな」
「俺は虫の居所が悪い」
 哲はそう言い捨て、さっさと店の中に入っていく。仙田が心配そうに秋野を見て、呟いた。
「あんた、物好きだね……」

 

 どちらかの部屋でもよかったが、狭いだけで苛々しそうで適当な店で落ち合うことになった。平日の昼間だが、中心部は人で溢れ、客は多く客層も幅広い。テーブルとテーブルの間は開いていて、誰もサラリーマンらしからぬ男三人組に目を留める者はいなかった。
 やたらと笑顔のアルバイトが置いていったコーヒーを啜りながら、仙田が口を開いた。
「ええと、お二人にはご迷惑をかけてすいません」
 昨晩哲に脅されてからすっかりしおれてしまった仙田は、叱られた子供のようにしおらしく頭を下げる。秋野も哲も何も言わないので、上目遣いに二人を窺い、仕方なさそうにカップを持ち上げた。
「で、何をやらかしたんだ」
 秋野が訊くと、仙田は肩を竦めた。
「車庫証明を頼まれたんだよね」
「車庫証明?」
「そう、車庫証明」
 仙田は長い前髪の下から秋野の色の薄い目を見た。
「盗難車を中古車販売店に売るときにつけるとか言ってた。あと印鑑証明に使う架空会社の印鑑と。その印鑑にちょっと、見る人が見たらすぐ贋物だって判るように悪戯してやったんだけど、その窃盗グループがヤクザ屋さんと仲良しだったみたいで」
 秋野も哲も、思わず同時に顔をしかめた。ヤクザ絡みの揉め事には係わりたくない。
「まさか北沢組じゃねえだろうな」
 哲がうんざりした様子で訊いた。またしてもナカジマと係わるとなるといい加減嫌になってくる。ほっとしたことに、仙田は首を振った。
「ショウ——なんとか会って言ってたけど。そんな名前じゃなかったよ。どっちにしても、俺ヤクザそのものには迷惑かけてないし」
 仙田はそう言ってにっこり笑った。

 

「まったく、お陰でうちはいい迷惑だよ、安永さん」
「すみませんねえ」
 中華料理店の個室で、一見穏やかな会食が持たれていた。どぎつい朱色のテーブルクロスがかかった円卓には、箸をつけられないまま冷めてゆく数々の料理が載っている。
 食い物を粗末にする奴はどうやっても好きになれない。葛木はテーブルに着く二人を目の端で盗み見た。
 彼の上司であるところの安永は一応は会社社長だし、ぱっと見まともな人間と錯覚しそうだが、よく見ればその目つきも雰囲気も堅気ではない。対する中古車販売の堤と言う男は、禿頭に二重顎の、どこにでもいそうな肥ったオヤジだった。外見にまったく共通点はないが、やってることに大差はない。
 安永は葛木を伴って中華料理屋に入った。ここは大してうまくもない割りに高い金を取る。何故そんな店に来るのかと言えば、安永の愛人の女がオーナーだからに他ならず、身内ながら葛木は安永のそういうところが大嫌いだった。
 壁を背にして手を体の前に組んで立ちながら、これではB級香港映画のマフィアの用心棒か何かのようだと自嘲気味に考えたが、実際はそちらのほうがまだましな職業だ。
 葛木は飽くまでもちんぴらの一人でしかない。しかも、安永のような男に飼われている情けなくもろくでないちんぴらだ。見た目だってスーツにサングラスどころか、ジーンズに着古したジャケット、短く切った髪。二十八の実年齢よりガキ臭く見えるに違いない。
「私どももあの男の腕前の程は聞いていたんですが、まさかあんなことをしますとは」
「まあ、もう済んだことだし、次は頼むよ。またこんなことがあったらあんたの所から車は買えないからね」
 堤がくたびれたツイードのジャケットの袖で額を拭った。肥満しているせいか妙に汗かきだ。あの袖で触られることだけは避けたいと葛木は思う。
「堤さんの寛大さには感謝してもし足りない。次回は、その辺も込みでお安く」
「当たり前だよ、安永さん。この商売は信用第一だからね」
 堤はでっぷりした体を椅子から持ち上げると個室のドアに向かった。
「今タクシーを」
 言いかけた葛木を物でも見るように見て、堤はそのまま出て行った。椅子から腰を浮かせかけた安永は、再び腰を下ろして溜息を吐いた。
「でかい取引じゃなくて助かったぜ」
 慇懃な態度を崩すと、安永は途端に品がなくなる。それがこの男の本質であり限界だと、葛木はいつも感じることをまた改めて感じた。五十を幾つも過ぎて尚精力的で若々しいが、上品とは言い難い。自分の親とさして歳が変わらないくせに、子供のように我儘で気紛れな男だ。
「あのセンって奴はどうするんですか」
「ああ、もういいや。思いの外堤の機嫌も悪くならなかったしよ。まあ、三、四百万の話だからな」
「もういいって」
「祥央会の奴らも見つけられねえみたいだしな。放っとけ、あんな小物」
「そんな——」
 センと言う男に仕事の依頼に行ったのは葛木だった。商品の受け取りをしたのも自分だっただけに、騙されたと言う気持ちは安永より強いかもしれない。不満げな葛木をにやけた顔で眺めると、安永は野良犬を追い払うように手を振った。
「もういいから、お前は帰れよ。俺は奈津子の顔を見て行く」
 顔を見るだけのわけはないのに、上品ぶって何言ってやがる。
 内心そう呟いたが、表情に出すようなへまはしなかった。小さく頷いて、葛木は個室を出た。このままでは、腹の虫が収まりそうになかった。人を馬鹿にしやがって。騙されるのも裏切られるのも、我慢がならない。センと言う男の愛嬌のある顔を思い出して、葛木は舌打ちをした。

 

 仙田の説明は曖昧で、何だかよくわからない所もあったが、とにかく彼が依頼人を裏切るような真似をしたのは気紛れに過ぎないことは分かった。哲は目の前で二杯目のコーヒーにミルクを垂らしている男の長い前髪を眺めた。哲の視線に気付いてにっこりと笑う。その能天気っぷりにシュガーポットを脳天に叩き落としてやりたくなる。
 秋野がお前の考えてることはわかってるぞと言わんばかりの呆れた目で横に座る哲の顔を見てから、仙田のほうに向き直った。
「じゃあ別に理由らしい理由もないんだな」
「うん、まあ、そう」
 仙田はカップを両手で大事そうに持つと頷いた。指が長い仙田の手に包まれたコーヒーカップはやけに華奢に見える。ずり下がった袖口から刺青が覗いていれば尚更だ。
「あのねえ、俺も一応芸術の世界を目指した男なわけよ、昔はね」
 芸術? と復唱して秋野が首を傾げた。
「こんな仕事してるとさあ、時々ムナシくなったりするんだよね。俺の夢はどこ行った! みたいな。夢見た後でやってることはこれかよ、って。そういう時に感じの悪いお兄ちゃんから仕事頼まれたから、つい出来心で」
 腕を組んで椅子の背に背中を預けている哲の顔を見つめて仙田は言った。
「あんた、鍵屋さんなんでしょ?」
 哲が無言で頷くと仙田は洒落たテーブルに覆い被さるようにして、真面目な顔で哲を見つめた。前髪の間から、きつい奥二重の眼で問うように見上げる。
「あんたは、そういうことない? こんな仕事に自分の大好きなこと使って、後悔してない? 全部巻き戻しちゃいたくなるってこと、ない?」
 秋野が顔を傾けて哲を見た。僅かに眉を上げて哲の表情を窺っている。食い入るように哲を見ていた仙田の表情が動いたのを見て、自分が笑っていることに気がつく。哲はゆっくりと両手をテーブルに突いて、身を乗り出した。仙田の目を至近距離の真正面から見据え、笑みに頬を歪ませながら低い声ではっきりと言った。
「ねえな。俺はお前とは違う」
 仙田が見開いた目を伏せ、秋野が微かに息を吐いた。