仕入屋錠前屋22 迷走

 広い窓から見える夜景は、それなりのものだと思う。片側の壁が全面ガラス張りの窓になった店内は、まるでネオンをバックにしているかのように煌びやかに見える。店の入り口に立った秋野は、横長の店内をゆっくりと見渡した。
 会員制のこのクラブは、年配の利用者が多い。ある程度の基準をクリアしさえすれば会員になるのは容易い。酒も食事も必要以上に高くはなく、落ち着いた雰囲気。黒いドレスのホステスは客の隣に座る事は稀で、飲食物を供する事を主目的に置かれている。客は接待に、会合に訪れる者が多いようだった。今も店内の客は、ビジネススーツかそれに準ずる格好をした者ばかりだ。
 複数の一人掛けソファとテーブルを中心に構成された客席の丁度左端の窓際で、待ち合わせの相手が軽く片手を上げたのが見えた。ホステスが秋野を従え、優雅にテーブルの間を縫って歩く。会社役員や社長と言った肩書きの連中が、見ていないような振りをして視線を寄越すのが分かった。どこの誰がここに来て、そして誰と会って行くのか。彼らはその情報をビジネスに生かす。それをどうこう言う気は毛頭ないが、見られていい気分ではなかった。
「何だ、随分目立つ格好だな」
 尾山は目尻に皺を寄せて秋野の長身を見上げた。そういう尾山の格好は紺のブレザーに水色のシャツ。ノーネクタイで、腕には大きなダイバーズウォッチ。年齢よりはるかに若く見える。
「こういう格好だと、サングラスをしてる男、って形で人の記憶に残るでしょう。顔立ちや何かはあまり覚えられたくないんで」
 黒い細身のオートクチュールのスーツをだらしないとお洒落の間で着崩した秋野は、グレーのサングラスの後ろから尾山を一瞥した。断りなく向かいに腰掛け、深く沈み込む。派手な格好というわけではないが、この客層の中で秋野はかなり目を引いた。離れてはいるが隣のテーブルの年配客が、物珍しげに振り返る。
「まあ、確かにな。何にする?」
「同じ物で結構です」
 尾山は黒いドレスを呼び止めてほんの少しグラスを上げた。左手の指を二本立てると、女は感じの良い笑みを返してドレスの裾を翻す。尾山は、グラスをテーブルに戻して秋野に目を向けた。
「躾が行き届いてて羨ましいな。中々こうは行かないもんだ」
 自らも飲食店をいくつか所有する尾山は、そう言って笑った。一見一流企業の若手役員か何かに見える尾山は、五十を幾つか越えている。その清潔な容貌や雰囲気と裏腹に、汚い事もいかがわしい事も、人並み以上にしてきたらしい。それを窺わせないのは、年の功か、それとも人柄か。付き合いの長い秋野も、いまいち分からない。
「俺に用事って何ですか? こんな所に呼び出して」
 ドレスの女が運んできたのはウィスキーの水割りだった。氷の間をゆらゆらと蜃気楼のように流れるウィスキーの帯。口を付けずに眺めながら、秋野は訊いた。尾山はグラスに口を付け、いたずらっぽく笑うと一口含んで味わうように嚥下した。
「別に、何もない」
「何もって」
「そうでも言わないとお前は中々顔を見せないだろうが」
 尾山の台詞に、秋野は小さく笑った。
「耀司とは頻繁に会ってるようだから、まあ話は色々聞くがね」
 尾山の一人息子耀司と秋野は、兄弟のようなものだ。小さな頃から何かと一緒に行動し、性格も年齢も違うが、お互いに身内のように感じている。その父親である尾山は、秋野にとってはある意味で父親であり、時には雇い主でもあった。
 口を付けずにグラスを揺らす秋野を眺めながら、尾山は語を継いだ。
「最近は随分気に入りの人間が出来たそうじゃないか」
 秋野は心の中で耀司に悪態をつきながらも渋々頷いた。どうせ尾山に隠しても意味はない。憮然とした表情の秋野に、尾山は肩を揺らして笑う。笑ったときの目元は、耀司によく似ている。
「そんな顔をするなよ。いい事じゃないか。多香子との事も一応決着したし」
「決着ならとうに」
「俺相手に肩肘張っても意味ないだろう」
 肩を竦める尾山に、秋野も思わず苦笑した。
「まあ、確かに未練たらたらだったのは認めます。でも会ったからと言って何かが変わったわけでもないんですが」
「そうかも知れんが、会わないよりはましだったんじゃないのか」
「あるいは」
 僅かに頷いた秋野に尾山は笑いかけた。男っぽい顔が、子供のように無邪気になる。実際はとても無邪気とは言えない尾山だが、しかしこの笑顔は嘘ではない。だからこの人には勝てない、と秋野はいつも思う。
「で、その錠前屋ってのはどういうやつだ」
「——犬みたいな」
「犬? 犬みたいに懐いてくるってことか?」
 尾山が意外そうに目を見開く。
「いえ、ペットじゃなくて野犬のほうです。懐くどころかいつ噛み殺されるか冷や冷やですよ」
 秋野が口の端を曲げて笑うと、尾山は楽しそうに喉を鳴らした。
「耀司はお前が随分手こずってると言ってたが、そういうのが相手なら無理はないな」
「俺は正に迷走してますよ、あの男に会ってからこっち」
 演技ではなく肩を落とした秋野を見て、尾山は大笑いした。ふて腐れたような秋野の顔を見て又吹き出し、目尻に涙を滲ませるほど笑って、ようやく顔を上げる。
「お前を苛めるのはこのくらいにしておこう。久し振りなんだ、利香やうちのやつの話も聞きたいだろう。何か食わないか?」

 秋野はすっかりできあがった尾山をタクシーに押し込んで見送ると、歩き出した。人通りも少なくなった道は暗いが、女の一人歩きではあるまいし、特に危険も感じない。酔ってはいないがそれなりにいい気分で歩いていると、仲通から物凄い勢いで男が走り出てきた。普段なら足音が聞こえた段階で何事かと思うのだが、ちょっと気が散っていたせいか、大荷物を抱えた男にまともに突っ込まれ、たたらを踏んだ。
「すいませんっ、ごめんね、急いでるからっ!」
 暗くて顔がよく見えなかったのが逆によかったのか、その声に聞き覚えがあって秋野は思わず声を出した。
「セン?」
「はい」
 男は素直に返事をして、きょとんとした顔で秋野を見た。長い前髪に唇の端のピアス。バンドでもやっていそうな容貌は、その種の若者に紛れれば見分けがつきそうにない。
「——仕入屋だ」
「うっそ。うわ、すっげえ偶然!」
 センは人懐こそうな顔全体で笑うと、真面目な顔になって秋野ににじり寄った。真剣な顔をしていても妙に愛嬌があるというか、悪く言えば緊張感がない。
「俺、これからあんたの仕事五回はタダで引き受ける!」
「——は?」
 嫌な予感に秋野の眉が顰められた。センは、秋野の両腕をがっしりと掴み、断固とした口調で宣言した。
「二、三日でいいから匿って!」

 

 その男はどう見てもロッカーかチンピラか刺青師か、その三種類のどれかにしか見えなかった。短髪なのに、そこだけ長く伸ばした前髪の下の奥二重の目は切れ長で、やや吊り上がり気味。唇の端には小さな銀の輪がぶら下がっている。哲は喧嘩になったら真っ先にあれを引きちぎってやりたいと、本人が聞いたら怒りそうなことを考えた。
 黒いニットの袖を肘まで捲くっているのは、左腕に入った刺青を見せ付けるためか。手首までびっしり入ったそのせいで、男の腕はうっすらと青みががって見える。恐らく肩から手首まで総柄に違いない。結構なことだ。若いうちはいいが、年を取ったらどうするのかと思うが、取りあえず自分とは無関係だからどうでもいいと思い直す。
 秋野は両手にコートと荷物を抱えた男を指して、哲に言った。
「悪いんだが、こいつ二、三日預かってもらえないか」
 その仏頂面全体に「本意でないが仕方ないから四の五の言わないで預かってくれ」と極太の文字で書いてある。お願いされているのか脅されているのか分からない。
「いいけど、何こいつ。誰」
 荷物の塊を抱えなおし、男はにっこり笑った。だからと言って胡散臭さはちっとも改善されはしなかったが。
「センって言います、どーも」
「——犬の名前か?」
「ひっどいなあ。えーと、本名は仙田次暢です。でもツグノブってかんじじゃないでしょ、俺ー」
 確かに、侍のような名前とは似ても似つかぬ容貌だった。哲が黙って体を引くと、秋野が悪いな、と言いながら靴を脱ぎ、やや暫く突っ立っていた仙田もそれに続く。哲は溜息を吐いて後に続いた。
 意外にもきっちりと膝を揃えて正座した仙田は、真面目な顔で座っている。それにしても狭くて古いワンルームに大の男三人が座ると、むさ苦しいことこの上ない。仙田は哲より僅かに背が高いようだった。百七十五センチ以上の男三人顔を突き合わせていると、空気が薄くなったような気がしてくる。
「で、何で俺がこんな邪魔臭いのを預からなきゃなんねえんだ」
「邪魔臭いなんて、酷い」
「うるさい。お前は黙ってろ」
 秋野に睨まれて、仙田は身を縮めた。
「こいつ、俺が使ってる業者の一人なんだ。今日偶然その辺で会ってな」
 秋野が以前話していた偽造の卒業証書を作ったのが仙田なのだと言う。元々二流美大の学生だった仙田が小遣い稼ぎに学内の申請書や証明書を偽造したのが、いつの間にか本業になっていたということだ。秋野とは電話でのやり取りのみで、顔を見たのは今日が初めてだとか。
「ちょっと、やばいことになっちゃいまして」
 へへ、と笑いながら仙田が口を挟んだ。とてもやばい状況にいる人間とは思えない呑気な顔をしている。
「俺が仕入屋さんの仕事請けてるのは回り皆知ってるから、彼のところに置いて貰うのも迷惑かけることになるかも、ってことになって。ほとぼりが冷めるまで——」
「何か面倒臭そうだから詳しい話はいいわ。こいつとやってくれ」
 哲は不機嫌な秋野に顎を振った。話を遮られても相変わらず笑顔の仙田は何度も頷いてにこにこしている。秋野がわざとらしく大きな溜息を吐いたが、一向にこたえた様子もない。
「じゃあ、俺は戻る。明日連絡するから」
 秋野はそう言って立ち上がると大人しくしてろよ、と仙田に言って玄関に向かった。哲も秋野の後について外に出る。道路に出ると、車通りもなく、辺りはすっかり寝静まったようだった。
「俺が知らなきゃまずいことだけ教えろよ」
「悪いな」
 秋野はそう言って薄茶の瞳で哲を見下ろした。
「お前に面倒かける気はないんだが、今すぐ荷物を預けられる場所が思いつかなくて」
「別に。邪魔臭えけど、置いてやるくらいは構わねえよ」
 秋野は煙草を銜え、ライターを持ち上げた手を止め口の端を曲げて笑った。
「随分寛大だな。俺にはでかくて邪魔だ出てけって煩いくらい言うくせに」
「荷物は荷物、お前はお前だ」
 ポケットに手を突っ込んだまま無表情で言う哲に屈みこむと、秋野はその首筋に軽く歯を立てた。哲が嫌そうに呻き、足を蹴り出す。予想していた秋野が片足を上げて避けると今度は左肘が飛んできた。かわせずにまともに脇腹に受けると、さすがに息が詰まった。
「躾が悪いやつは傍に置きたくねえんだ、俺は」
 哲はにやにやしてそう言った。