仕入屋錠前屋4.5 その不器用さが愛しい

 開けた窓から金網に何かが激しくぶつかる音が聞こえ、真菜は咄嗟に立ち上がった。
「ねえ、耀司」
 耀司は仕事着を脱ぎ捨てジーンズに片足を突っ込んでいるところだったが、天井を見上げた後首を振った。
「大丈夫だよ」
「でも、今の音って……殴り合いになってたりしないかな」
「分かんない。そうかもしんないけど」
「そうかもって」
 秋野とはもう数年の付き合いになる。耀司が兄のように思っているからというだけでなく、真菜にとっても同じように慕わしい存在だった。反対に哲のことはほとんど知らない。それでも、秋野とはまた違った意味で、真菜は哲のことが好きだった。耀司も多分同じだろう。そんな二人が揉めているのなら、早く元に戻って欲しい。
 真菜は開け放してある窓に近寄った。クーラーも入っているが、今日は湿気が少しマシだから、外の風も気持ちがいい。二階分上の話し声が明瞭に聞こえるはずもなかったが、それでもつい耳を澄ました。
 二人が部屋を出た後、耀司から簡単な説明は聞いていた。秋野が怒る気持ちも分からないではない。だが、哲が秋野を助けようとしたのは明らかだし、そこまで腹を立てることなのか、と疑問にも思う。秋野は理不尽に誰かに腹を立てるような人間ではないが、それでも心配なことには変わりがない。
「ねえ、本当に大丈夫? 見に行った方がよくない?」
 つい言葉を重ねてしまった真菜に微笑んだ耀司は、真菜を引き寄せた。
「大丈夫、秋野はかなり頭にきてるから」
「それ、全然大丈夫じゃないよ」
 耀司は真菜の腰に腕を回して抱き寄せ、真菜の頭を肩に乗せた。
「いや、だから大丈夫なんだよ。秋野は滅茶苦茶頭にきてるから、何するか分かんないって、自分でも分かってる。でも哲のこと大事だから、そりゃもう必死で自制心働かせてるよ、あいつ」
「……変なの」
 心配で居ても立っても居られないはずが、思わず笑ってしまった。腹を立てすぎて自制しすぎるなんておかしい。おかしいが、しかし何とも秋野らしい。
「秋野はそんなに哲が大事なの?」
「なんか、そうみたいだよ」
 耀司はそう言ってにっこり笑うと、真菜の首筋に顔を埋めた。
「あー、次は俺が怒られる番だ」
「何で?」
「だって哲のこと本気で止めなかったし、脇田の住所教えたし……哲が何するのか何となく想像はついてたのに」
「そうなんだ」
「そりゃそうだよ。でも俺も秋野を助けたかったしさ」
「うーん、それはもう共犯ってことで仕方ないよね。怒られなさい」
 耀司が哀れっぽい声を出したので、真菜は思わず笑い、励ますつもりで耀司の背中を優しく叩いた。
 秋野の怒った顔は、それはもうすごい迫力だった。
 耀司が仕事から帰ってくるなり秋野と哲が来ると告げた。それなら夕食を一緒に、と張り切りかけたところでようやく耀司の眉間の皺に気が付き、それからすぐに現れた秋野を見て驚いた。手で触ったらこちらが感電しそうな状態とでも言えばいいのか。あんな秋野は──いくら真菜が個人的に親しいわけではないといっても──初めて見た。
 哲が秋野のためにヤクザと交渉したから。確かに危険なことだったのだろうと思う。秋野が頼んでもいないのに哲が勝手にやったことだというから、腹を立てるのは理解できる。それでも、あそこまで怒りを露わにすることだろうか。
「そんなに大事ならあんなに怖い顔して連れて行かなきゃいいのに。今にも噛み付きそうな顔だったよ。耀司も見たでしょ」
「んー」
 耀司は相変わらず真菜に凭れかかっている。掌を背に当て、耀司の体温を感じる。簡単なことなのに、と思う。大切ならしっかり手の中に握っていればいいのに。それとも女には理解できない感情があるのだろうか。
「哲は、秋野に大事にされてるって知ってる?」
「知ってるかも。知らないかも」
 真菜は猫のように頭を擦りつけてくる耀司の頭を撫で、髪の毛を弄ってみた。色を入れた髪には、緩くパーマをかけてある。軽く引っ張って伸ばしてみたが、手を離したら毛先はすぐに元に戻った。
「秋野って不器用ね。その不器用さが愛しいんだけど」
 耀司は顔を上げて真菜を見た。これまた猫のような大きな目。耀司の女装がおかしいのは、仕種が男のままだからだ。秋野の端正さとは違うが、耀司の顔立ちも十分整っている。
「……秋野は器用だよ? あいつが不器用だったら世の中不器用だらけ」
「手先のことじゃないよ、馬鹿ね」
「知ってるよ、そんなの」
「何、耀司、やきもち?」
「違うよ」
 そう言いながらも、眉を寄せて真菜を睨んだかと思うと、耀司は腕に力を込めて真菜をきつく抱き締めた。
「ちょっと、耀司、苦しいよ!」
「俺以外の誰かが愛しいなんて、言うな」
 僅かに強張った声。案外広い背に腕を回し、抱き寄せる。痩せているが、真菜よりは間違いなく広い背中。何よりも大事なものだ。
「馬鹿ね、耀司」
「馬鹿馬鹿言うな」
「言うなばっかり」
 笑いながら抱き締めた耀司の身体の温かさに心が休まった。馴染んだ体温がくれる安らかさに陶然としながら、秋野はこういうことを求めているわけじゃないのかもしれないと思い至る。
 でも、だったら秋野の望みは何だろう。温かさも安らぎもいらないなら、一体どうして哲が大事だと感じるのだろう。
 足音がして、誰かが階段を使い、階下に降りて行ったと分かった。耀司が真菜から離れて窓に駆け寄る。真菜も耀司の横に立って窓から下を覗き込んだ。
 暫くして、ビルの入り口から出てきたのは哲だった。上からだからはっきりとは分からないが、どこか覚束ない足取りだった。耀司が遠ざかる哲の姿を見て溜息を吐く。
「とりあえず、五体満足で帰してもらったみたいだな」
「そうみたい。さあ、じゃあ次は尾山君の番だ!」
「……あと五分……秋野が落ち着いてから」
「うーん。まあいいでしょう」
「いや、でも待ったからってな──」
「行くの?」
「うん、上で様子見ながら登場するわ」
 肩越しに振り返って微笑み、耀司はドアを開けて出て行った。

 耀司を見送った真菜は秋野が座っていたように、脚を投げ出してソファに沈んでみた。五体満足だったといっても、哲の様子は穏やかに話し合えた後のようには見えなかった。遠かったし、暗かった。だから確かではないものの、少なくとも秋野は哲を腕の中で大切に大切に慈しむつもりはないらしい。
「でもそれだと秋野はゲイってこと?」
 真菜は独り言を言って眉を寄せた。別に秋野がゲイでもバイでも何でも構わないが、真菜が知る限り──というか、耀司が話してくれた限り──秋野が男に恋したという話は聞いたことがない。もし秋野が哲に恋したというなら事は単純な気がするが、果たして本当にそうなのだろうか。
 真菜はついさっき哲の姿を眺めた窓の向こうの夜空を眺めた。ブラインドを途中まで上げてあるが、同じ高さに住居はないから覗かれる心配はない。周りにあるのは古ぼけた雑居ビル、新しい雑居ビル、そればかりだ。
 おしゃれな界隈でもなければ生活しやすいわけでもない。だが、真菜はこの場所が、ここに耀司と暮らすのが、そして耀司に関わる人々──特に秋野が、好きだった。
 どちらを向いて進もうが、秋野の自由だ。耀司と耀司の大切な人達が幸せならそれでいい。器用で不器用な秋野が幸せなら、秋野を兄のように想う耀司も幸せなのだから。
 叱られ、尻尾を垂れて帰ってくるであろう耀司にコーヒーでも淹れようと、真菜はソファから腰を上げた。真菜自身の大事な人を、力が及び手が届く限り、誰よりも大切にするために。