仕入屋錠前屋5 あまやどり 30分

 土砂降りの雨がアスファルトを激しく叩く。つい先程まで乾いていた路面は今や黒光りする帯となり、まるで川のようにうねり、流れ始めた。誰も傘を差していないところを見ると、天気予報は外れだったらしい。
 ビジネスバッグを頭上に掲げた男が走ってくる。哲はその男とすれ違うようにして、古い商店街へと急ぎ足で向かった。
 適当な軒下に入ろうとしたところで突然後ろから腕を掴まれ、引っ張られてつんのめりそうになる。咄嗟に振りほどきかけたが、叶わない。振り返って相手を睨みつけかけて気が付いた。手の主は微笑みを浮かべた秋野だった。

 癪に障ることに秋野に怯え、這う這うの体で逃げ帰ったのはつい一週間ほど前のことだ。秋野の気持ちがまったく理解できないわけではない。余計なことをした自覚は哲自身にもあったのだ。それでも、秋野相手に心底縮み上がった自分が腹立たしかったし、そうさせた秋野にもむかっ腹が立っていた。
 哲の腕を掴んだ秋野は、あの日のことなどなかったかのようにそこに立っていた。
 煙草を銜え、唇の端を曲げる笑い方で哲を見ている。皮肉っぽい印象は意外にない、不思議な笑い方だった。
「すごい雨だな、哲」
 やわらかな物言いに戻った秋野を以前と同じようには見られなかった。穏やかさは被った猫の皮だと最初から気づいてはいたものの、皮を捲った下にあんなに危険な動物が隠れているとは予想外だ。だからといって普通に話せないということではないのだが。
「何してんだ、あんた。こんなとこで」
 掴まれていた腕を引いたら、今度はあっさり指が離れた。哲が駆け込もうとしていた軒先は、よく見たら古い玩具屋だった。見たところ一応は細々と営業しているらしく、古ぼけた店舗ではあるが、ガラスは綺麗に拭いてあった。
 ガラスの向こうに陳列棚があり、今流行りのキャラクターなのか、派手な色のイラストが描かれた箱が積み上げてある。
「何って、あまやどりだよ」
「──そうか」
 何を話していいのか思いつかず、足元に視線を落とす。頭のてっぺんに視線を感じて顔を上げたら、秋野が哲から目を逸らしたところだった。
 横顔を眺め、瞳が黒いということに今更気づく。カラーコンタクトを入れているのだろう。顔立ちは西洋人とも東洋人ともつかないから違和感はないはずなのに、黒い目をした秋野は画竜点睛を欠いていると言ってもよかった。
 玩具屋の軒下に並んで立ち、どこかの水道管がぶっ壊れたみたいに降ってくる大量の水を眺めているのはなんだかおかしな気持ちがする。雨は降りやむ気配もなく、路面に当たった水飛沫が白い幕のように地面の上を覆っていた。
 どこか気詰まりな沈黙に、哲はふと思い浮かんだことを口に出した。
「あんたの名前って、変わってるよな」
「そうか」
「苗字みてえ」
「そうだな。お前も最初、苗字だと思って呼んでたろ」
 秋野は哲の驚いた顔を思い出したのか、小さく笑った。
「普通思うんじゃねえの」
 横に立つ秋野を睨みつける。秋野はしゃがんで煙草をアスファルトで揉み消した。
「まあな。大抵苗字だと思われる──何せ、元々苗字だから」
「ああ?」
 哲は秋野の隣にしゃがみ、煙草を取り出した。ライターを探してポケットを探っていたら、秋野が火を差し出して寄越した。
「あ、悪ぃ」
 今時道端にしゃがんで煙草を吸っている大人なんか見かけない。傍から見たら不良高校生だな、と思ったらおかしくなった。雨のせいで誰もが今いる場所から動けない。誰も近くに寄ってこないのをいいことに、哲は煙を思い切り吹き上げた。
「前に俺の生まれの話をしただろう」
 秋野の母親は不法就労の外国人ダンサーだったらしい。当時秋野の父親と付き合っていたが、秋野が出来た途端その男に捨てられた。だから秋野には戸籍がないのだと聞いた。
「ああ」
「母親と別れた男、俺の父親が秋野さん」
「何?」
 聞き返す哲に、秋野が含み笑いをしながら繰り返す。
「だから、俺の父親の名前が秋野ナントカさん、苗字が秋野だったんだ」
 銜えていた煙草を思わず開けた口から落としそうになった。慌てて指先に移した煙草から細い煙が立ち上る。
「はあ? じゃあ何、あんたの名前は親父さんの苗字から取ったってことか?」
 秋野は哲の指先の煙草に手を伸ばして奪い取った。秋野がすぐに哲の煙草を吸いたがるというのはこの数ヶ月で学習した。仕方なくもう一本取り出して銜えたら、秋野は素知らぬ顔をしてまたライターを差し出した。
「そうだ。だから苗字みたいっていうか、苗字なんだ。結局は」
「お袋さんのセンスが素晴らしいな……」
「機会があれば言っておくよ」
 秋野の言葉に思わず目を剥く。
「生きてんの」
「お前、失礼だね。生きてるよ、幾つだと思ってるんだ、俺を」
 そう言われて、なるほどと思い当たる。自分の両親がいないからといって──母親は生きているが──すべての人にいないわけではないのだ。いくらそれがどこか普通でない雰囲気を漂わせる秋野であっても同じことだ。
「いや、だよな。失礼でした。すみません」
「いいよ、冗談だ」
 秋野は声を上げて笑い、煙を吐いた。湿気のせいかやけに重たく流れていくそれを目で追いながら訊ねる。
「つーか、あんたいくつ?」
「年か? 三十一」
「──へえ」
 年上だとは思っていたが、何となくもっと上かと思っていた。老けているという意味ではなくて、どこか得体が知れないからだ。
「お前は?」
「二十六」
「若いね」
「オヤジ発言だな」
「うるさいよ」
 それからしばらく当たり障りのない会話をした。昨日食べてまずかった居酒屋のメニューとか、哲が店で作る定番の料理だとか。
 耀司の女装の出来について。酒の話。煙草の銘柄、一体いつから喫煙しているのか——。
「上がったな」
 秋野が空を見上げて呟いた。先程から弱まり始めていた雨脚は、小降りのレベルまで落ち着いていた。雲間から日が差してきて、ちらほらと傘なしで歩く人が道に出始めている。
 秋野は足元に落ちていた吸い殻を律義に拾い上げ、無造作にジーンズに突っ込んだ。高そうなジーンズだというのに、やっぱりどうでもいいらしい。哲はさすがにそのままポケットに入れる気にはならず、吸い殻は手に持って立ち上がった。何の気なしに腕時計を見てみたら、三十分が経っていた。
「またな」
 背を向け歩き出そうとした秋野を呼び止める。
「──秋野」
 名前を呼ばれた秋野の足がぴたりと止まった。哲が秋野の名前を呼ぶことはあまりない。
「あんた、黒い目が似合わねえ」
 振り返った秋野は、その黒い目でじっと哲を見た。
「なんか、穏やかすぎてつまんねえ。この前みたいに、全部剥き出しでもいいのに」
「……震えてたろ」
 感情のない低い声で返され、肩を竦める。
「びびったからな、本気で。でもあんたに優しくされても別に嬉しくねえし」
 秋野の顔に、ゆっくりと笑みが広がった。
「お前が優しくして欲しいなら、優しくしてやらんこともないんだが」
「要らねえよ」
 吐き捨てた哲に、秋野は笑った。前にも見た、痩せた虎を思わせる笑顔。
「そうだな」

 遠ざかる秋野の背が角を曲がるまで、哲はそこに立っていた。いつの間にか雨はきれいに上がり、雲の間に青空が広がろうとしていた。