仕入屋錠前屋4 間違いだとしても

 着替えた耀司が屋上の扉を開けたときには、秋野の足元には五本の吸い殻が散乱していた。そして、耀司が見ている前でそこに新しい一本が追加された。
 わざと音を立てて扉を閉めると、秋野がゆっくり振り返った。薄暗い屋上で長身は黒い影になっていて、顔色までは窺えない。さっきまでの雰囲気は拭い去られていたが、いつもの穏やかさはまだ戻っていなかった。
 子供の頃から秋野を知っているのだ。普段見せる顔は秋野の一部でしかないと知っている。それでも、あそこまで何かを剥き出しにした秋野を見るのは久しぶりだった。
「大丈夫?」
 秋野は疲れたように笑うと、金網に凭れた。
「真菜に悪かったな」
「いいよ、別に」
 秋野に歩み寄り、吸い殻を跨ぐ。
「後でちゃんと拾う」
「ああ、うん。分かってる」
 隣に並び、同じように手すりに凭れる。空を見上げてみたが、いつものように星は見えない。たまに屋上に上がってみるが、大した夜景が見えるわけでもない。今日もいつもと何も変わらない夜空だった。
 耀司は深く息を吸い、足元に視線を落とした。秋野が踏みつけた吸い殻が、暗い中で白っぽく浮き上がって見える。
「ごめん」
「うん?」
 俯いて呟いたら、秋野がこちらを覗き込むように上体を屈めた。秋野の顔を見て、もう一度口に出す。
「ごめんな」
「何が?」
「俺も哲を止めなかったから。怒ってるよな」
「ああ、少しな」
 秋野はあっさり答えて、また煙草に火を点けた。今更気が付いたが、秋野の足元の吸殻は、どれも長いままだった。
「……哲には何て言ったんだよ」
「二度と俺の仕事に首を突っ込むな」
 どこか不貞腐れたような顔をして煙とともに吐き出す秋野に、耀司は思わずちょっと笑った。
「素直じゃないね」
「素直だよ、俺は」
「そうか」
 耀司は横に立つ秋野の顔を見上げた。
 秋野の抱える苦しみも、悲しみも、耀司はよく知っていた。境遇も違えば性格も違う。本当に理解することはできないが、それらが存在し、どういうふうに秋野を形成してきたかは傍で見てきた。秋野自身もそう言ったように、まだ耀司にも、哲にも腹を立てているのは分かっていた。
 耀司が兄のように慕う秋野の薄茶の目には、間違いなく未だに消えない怒りが見える。だが、その奥にちらつくのは困惑と──恐れだろうか?
「お前、哲のことが好きなの?」
 秋野は少しだけ驚いた顔をしたが、迷うふうもなく答えた。
「好きか嫌いかって言ったら好きだが、お前の言ってるのとは違う」
「……じゃあ、どういうふうに思ってんの」
 秋野は片眉を引き上げて耀司を見たが、何も言わずに煙草を噛んだ。吸いながらフィルターを噛むのは、苛ついている時の秋野の癖だ。親しい人間の前でしか出さないその癖を見るのも久々で、なぜだか鼻の奥がつんとした。
「なあ、言いたくなきゃ言わなくてもいいけどさ……」 
「——骨まで粉々に噛み砕いてやりたい」
 低い声に滲むのは、欲ではないように聞こえた。だが、他人が何を考え、感じているかどうして正確に分かるだろう。流れていく煙を見つめながら、耀司は小さく溜息を吐いた。
「秋野、それ恋愛よりタチが悪いよ」
「……」
「それに、間違ってるかも知れないよ」
「間違いだとしても」
 天を仰いだ秋野が吐き出した煙が、生温い風に巻かれて舞い上がる。
「俺はあいつを手に入れたい」
 屋上を吹き抜けていく風が秋野の髪の先を微かに揺らす。前髪の隙間から覗く黒い睫毛と、色が抜けたように見える瞳。煙の行方を眺めながら、耀司は口を噤んだままでいた。