いつかは抜け出せる 5

「なあ、ちょっと──おい! さ……佐崎!」
 哲が立ち止まって振り返ったら、チハルが顔をしかめて走り寄ってくるところだった」
「……噛んだ?」
「うるせえな! どうだっていいだろ!」
 おっかない顔で文句を垂れつつ、千晴は哲の前で足を止めた。千晴とは何度か顔を合わせているが、友好的だったことはほとんどない。直近のときが辛うじてその範疇か否か、というくらいだ。そもそも出会いは拉致されたところからなのだから、当然と言えば当然の話ではある。
 それでも、大分やわらかい印象になった。人形のような美形なのは以前からだ。しかし、綺麗な顔だからこそといおうか、どうにも酷薄で刺々しい雰囲気が強かった。今はそれが少し和らいでいるのは、秋野との距離が多少は縮まったというのもあるだろう。もっとも、あのろくでなしのほうはたいして喜んでいるふうもないけれど。
「何か用?」
「用がなきゃいちいち呼び止めねえっての。仕事頼もうと思って」
「ああ……」
「なあ、どっか入ろうぜ。あんた朝飯……もう昼か、食った?」
 千晴は話しながら返事も聞かずにさっさと歩き出した。秋野に対峙しているときは気後れのあまりガチガチになっているが、哲といるときはそんなことはない。初対面の印象よりはガキっぽい気がするものの、少なくとも哲が後からついてくると信じて疑わない横柄さと傲慢さは保っている。
 別にこのままさっさと別の方向に歩き出しても構わない──そちらのほうが面白い気がする──が、仕事の話となれば、中身も見ずに捨ててしまうのは勿体ない。
 哲は数秒考えて、千晴の背を追い歩き出した。

 

「仕事の話っつーからついてきたのに」
 でかい溜息を吐いた哲をひと睨みした千晴は、いささか乱暴にマグカップを置いた。
「するって! 嘘じゃねえから!」
「嘘とは言ってねえけどな。そっち先に話せば」
「そしたらあんた、聞き終わった途端に帰るに決まってる」
 確かに、と思わず頷く。数回しか会っていない上、そのほとんどは哲のことを半ば物扱いしていたくせに、意外によく見ている。単に哲が分かりやすいだけなのかもしれないが。
「分かったって……てか、なんで俺にあの野郎の話をするんだよ」
 仕事を頼むとか言ったわりに、適当に入ったコーヒーショップの窓際の席で、千晴は暫くぼんやりとコーヒーの水面を眺めていた。哲も店のロゴ入りマグカップを持ち上げる。見た目は格好いいものの、持ち手の位置とサイズが微妙でマグが傾いてしまう上に、やたらと重い。どんなものだって、見ただけでは使い勝手がいいかどうかなんて分からないものだ。哲は持ち手でバランスを取ることを諦めて本体を直接掴み、コーヒーに口をつけた。
「あんたのほうが何十年もつき合ってんだし、今更俺に訊くことなんかねえと思うけど」
「……友好的じゃねえって知ってんだろ」
「そりゃそうだけど、最近はマシなんだと思ってた」
 千晴は眉間に皺を寄せて哲に視線を向けた。
「最近はマシ、とか言われる時点でどうかって思わねえのかよ」
「そうか? 部屋でだべるくらい関係改善したんじゃねえの」
「ああ、あそこな──」
 千晴は秋野の部屋を思い出すように、少し遠い目をして黙り込んだ。
 正直言って、階下から千晴の声がしたときにはいささか慌てた。とっくに服は着ていたし、そもそも泊まった理由を詮索されると思って焦ったわけではない。千晴には知らされてもいなかった秋野の住処に哲が出入りしていることを知って、千晴が臍を曲げるのではないかと思ったから慌てたのだ。
 千晴が秋野を慕っているのは、本人以外の誰が見ても明らかだ。恋情ではないこともまた明らかだけれど、恋愛ではない分根深いと言ってもいい。血は繋がっていないものの、兄弟に対する思慕のようなものだろうか。哲には千晴の考えることなど分からないが、それでも鬱屈した感情が大きいものだということくらいは分かる。
 秋野の精神衛生なんかどうでもいい。千晴がまたつんけんし出したところで秋野は意にも介さないだろう。しかし、そうなると千晴から理不尽に八つ当たりされるのは自分になるから面倒くさい。
 それに、哲は千晴が嫌いではなかった。自分でも説明できない、制御できない諸々に振り回されて髪を掻き毟っている様子は他人事だと思えない部分があるし、その諸々があのろくでもない男のせいだと思うと尚更だ。
 同情とも共感ともまるで違う。好意ですらないかもしれない。それでも、無碍に追い払えないのは事実だった。
「別に、アキに来いって呼ばれたわけじゃねえし」
 マグカップを持ち上げかけて止め、千晴は小さな溜息を吐いた。
「たまたま見かけて声かけようと思って……住んでるとこだとは思わなかったから」
「普通は思わねえよ」
「──あんたさ、アキが今付き合ってる女、知ってるか?」
 そういえば、昨日は女とうまくいくにはどうしたらいいかという話をしたとか言っていた。階下の声は聞こえなかったが、さっきもそれが話題だったのかもしれない。
「知らねえ」
 即答したら、千晴は疑うように目を眇めて哲を見た。
「……全然見たこともねえ?」
「興味ねえから、見たとしても覚えてねえよ。大体何でそんな──」
「いや、名前とか個人情報がほしいわけじゃねえからな、言っとくけど!」
「じゃあ何」
「アキがほしいものって何なのかっていうか……誰か、なのかもしれねえけど……」
 両手でマグを包み、子供のような仕種でコーヒーを啜る千晴を、テーブルの脇を通り過ぎた若い女の二人連れが振り返る。とても綺麗な顔だから。彼女たちにとって千晴は近野千晴という個人ではなく、言ってしまえば風景の一部だ。中身がどうであろうと関係ないし、それでいい。通り過ぎる他人にいちいち中身を覗かれていたら堪らない。
 秋野にとって千晴はどこらへんに位置するのだろうと何となく考えた。あくまでも他人なのか、鬱陶しいと思いつつも近しい人間なのか。
「ずっとアキは何でも持ってるって思ってて、すげえむかついてた」
「理由は今初めて聞いたけど、むかついてるっつーのは誰でも見りゃ分かると思う」
「あのな」
「悪ぃ、つい。で?」
 千晴は乱暴に髪をかき上げ、椅子に深く座り直した。
「今だって別に、全然そういうのが消えちまったわけじゃねえんだけど。でもなんていうか、アキももしかしたら、俺とそう変わんねえのかなって……いや、俺のほうが色々どうしようもねえっていうのは知ってるけど、そういうことじゃなくて」
「あいつも大概どうしようもねえから、大差ねえだろ」
 ふ、と口元を緩めて笑った千晴の表情には険しさがひとつもなかった。綺麗な顔の人形のように見える千晴も、当然のことながら、やっぱり人形なんかではない。
 哲は無意識にポケットに手をやりかけ、禁煙なのを思い出して舌打ちした。まったく、だからそのへんでお茶でも、と言われるのは嫌なのだ。
「何で俺だけ、ってずっと思ってて。でももし、アキもそう思ってたとしたら、誰もそれに気づいてねえのかもって初めて思った」
「……」
「俺が馬鹿だからとかじゃなく、アキはそう──見えないし、見せねえから。だろ? だから、アキが付き合ってる女が、アキを捨てるような女じゃないといいって思ったり」
「──だから、どんな女なのか分かんねえって」
「ほんとかよ」
 マグカップの水面に目を向けたら自分が映るかと思ったけれど、そうではなかった。鏡のような水面ってやつはあくまで例えか。まあ、見えたとしても映っているのは自分の顔だけだ。
 嘘を吐いているつもりはない。それでも、もしかしたら多少は後ろめたい顔をしているのだろうか、と疑問に思っただけだった。
 秋野が女と付き合っているかどうかは知らない。それは本当だけれど、多分今は誰もいないのだろうとも思う。そう言ってやるほうがいいのかもしれないが、色々訊かれるのは面倒だった。秋野が千晴と話せばいいことで、哲には関係ない。
「ああ、ほんとに知らねえ」
「分かった──なあ、俺とこんな話したとか、アキに言うなよな!」
 耳を真っ赤にして哲を睨み、千晴はマグカップを持ち上げて顔を隠すようにコーヒーをごくごく飲んだ。
「こんなに心配してもらって、あの野郎は愛されてんな、おい」
 何だか子供みたいで面白い。わざと嫌がるようなことを言ってみたら、千晴は案の定噎せ、涙目になって更に咳き込んだ。
「お……っ、いや、違うからな! 俺は別に!」
「いいじゃねえの。言わねえよ、そんな否定しなくても」
「だから、そうじゃねえって!」
 でかい声に周囲のテーブルの視線がこちらを向く。千晴に睨まれた客たちは慌てて顔を背け、千晴は哲に向き直って咳払いした。
「心配とかそんな、そういうんじゃないんだからな。なんつーかその、こう、なんていうか共感したみたいな」
「ああ、そう」
「あのな、」
「まあ、もういいから仕事の話しろよ」
 椅子の背に凭れて笑った哲の顔を数秒眺めていた千晴は、哲が身じろぎすると我に返ったように目を逸らして横を向いた。睫毛が長い。秋野の睫毛は嘘のように濃くて長いが、千晴のそれは濃いというより長かった。
 目の下の薄い皮膚に影が落ちる。まるで水面の下で揺れる藻のように、薄い影が皮膚の上で揺らめいた。
「……俺はアキが羨ましい。つーか今までもそうだったけど、今もやっぱり」
「ふうん?」
 哲に視線を戻し、千晴はマグカップに手を伸ばしかけて引っ込めた。
「あいつは幸せだよな」
「さあ、それは知らねえ」
「あんたみたいな友達がいて幸せ、だろ?」
「勘弁してくれって言うんじゃねえか。それに、そもそも友達だと思ってねえと思うぜ」
「ええ? そうなのかよ」
「多分な」
「馬鹿だな、アキは」
 千晴と秋野。人間性もその本質も、性格も価値観も行動もまるで違う。それでもルーツは同じ、そして、似通っている部分も見えないだけできっとある。千晴は恐らく、その気になれば哲よりずっと深く秋野を理解できるだろう。哲は秋野を理解したいと思っているわけではないからどうでもいいが、千晴にとってそれは多分重要なことだ。
 俺よりずっとあの野郎の「友達」に近い位置にいるのだろうに、あんたも馬鹿だな。
 そんなふうに思ったが、口に出すのはやめておいた。