いつかは抜け出せる 4

 ミツバチの羽音のような、携帯のバイブのような。
 どちらにも似ているようで似ていない音が骨に響く。鈍い痛み。切迫した何かが視野を狭めるのが分かったが、どうすることもできなかった。
 もっと深く。誰も触ることができないところに触れたい。そう思い、思った端から違う、と思う。触れたいのではなく、引き裂きたい。奥底にある何かを掻き出したい。
 苦しめているだけのような気がする。抱いているときも、そうでないときも。
 自分の中の自分が皮肉な笑いを浮かべながら指摘する。
 まともな人間みたいなふりをして、一体何を言ってるんだか。喜ぶ顔が見たいわけでもあるまいし。苦しめたから、だから何だと思っているくせに。
 解放してやるつもりなんてないのだから、哲が苦しかろうが楽しかろうが、どうだっていいはずだ。
「哲──」
 耳元で囁き、耳殻に噛みつく。哲は秋野の肩に指先を食い込ませ、口汚く秋野を罵った。まだ言い終わっていないようだったが、構わず唇に食らいつく。
 間近にある目はいつもと変わらない迫力で、まるで秋野が銃口を向けてでもいるかのように睨みつけてきた。
 目の縁が赤く染まっているのは体温が高くなっているだけだと分かっている。血色が浮くことに意味なんかないし、その目もとが妙に煽情的に見えたとしても、それは気のせいだと知っている。
 哲の腰を掴んで深く押し込む。締め付けられる感覚よりも、指先の感触のほうに意識が向いた。日光に当たることがない部分だからか、柔らかさはないものの、女と変わらない滑らかな皮膚。皮一枚隔てた向こうにある肉と骨。その中に分け入っているのだと思うと目の前が白くなった。
「ぅあ──!」
 仰け反った哲の喉の輪郭は、まるで一筆書きで描いたように滑らかで美しい。
 例え哲のものであっても弱く柔らかい部分のはずなのに、歯を沈めたその部分は、どうしてかひどく硬く思えた。

 

 明け方ほとんど気絶するように寝落ちした哲の横で秋野も少し眠ったが、明り取りの窓から差し込む陽射しが眩しくて目が覚めた。まだ昼前、気温は高くないが晴天らしい。曇りガラスの向こうが淡い水色に見える。
 シャワーを浴び、階下に降りて冷蔵庫を開けたら水がなかった。補充を手配して、当座の分を買いに外に出た。ついでに食い物でも買ってこようかと思ったが、とりあえず保留にして部屋に戻る。ペットボトルを冷蔵庫に入れ、一階の空気を入れ替えようと重たいドアを引き開けたら、そこにチハルが立っていた。
「あ! アキ」
「……」
 さすがに驚いて固まった秋野の横をすり抜けてチハルが中に入ってきた。
「さっきそこで後ろ姿見かけて、多分そうじゃねえかと思ったんだ。声かけたけど、聞こえなかった?」
「──ああ、聞こえなかった」
 カウンターの奥のキッチンスペースを覗き込み、チハルは秋野を振り返った。
「そっか。ここ、何? なんかの店? 開店前なんだな。酒ねえもんな」
「どうした、何か用だったんじゃないのか」
 気を取り直して訊ねる。チハルはカウンターのスツールを引き出して尻を載せ、頷いた。前回チハルと会ったときは、今までの付き合いの中で初めて和やかに別れた。チハルとコーヒーを飲みながら他愛ない世間話をするなんてことも、初めての経験だった。幼い頃はともかく、十代以降はずっとチハルを避けていたのだから当然のことだ。
「用っていうか……この間ピアス買ってくれたって、祐実が」
「ああ、開店祝いに」
「ありがとう」
 随分素直に礼が言えるようになったと思うと、さすがに微笑ましい。もっとも耳は相変わらず赤くなっているから、秋野に対してこういう態度でいるには、かなり努力しているのだろう。
「なんか、いい石がたくさん買えたって。それで、知り合いに見せたら、なんつーの? どっかの百貨店で催事出店みたいなのしないかって話もきたんだってよ。決まりそうだっつってた」
「そうか、よかったな」
「すげえ喜んでた。それ見てたら俺も嬉しくてさ。そんで、やっぱり俺──なあ、アキ」
 喜ぶ顔が見たいわけでもあるまいし。
 束の間、そんな言葉が浮かんで消えた。チハルのことではない。そうだ、自分のことだ。
「お前は俺よりすげえ人間だよな。だから教えてくれよ」
「何を」
「この間も訊いたじゃねえか。俺、どうしたらいい? どうしたら俺、祐実のこと失敗しねえかって」
 チハルのふたつめの相談ごとは、哲にも言ったとおりで秋野に答えられることではなかった。一般論ならいくらでも言えるし、それで安心させてやるのが親切かもしれないとは思うものの、そうする意味も必要も感じられなかった。
「俺も言ったよな? 俺はお前にアドバイスできるほどちゃんと恋愛できてないって」
「だけど」
「俺はお前を見下ろしたりしてない」
 チハルが見上げているのは秋野のイメージみたいなものだ。チハルももう子供ではない。そんなことはわかっていて、それでも見上げることを止められずにいるのだろうということは想像がつくけれど。
「……」
「それに、お前よりすごい人間でもいい人間でもないよ。何を教えればいいんだか分からない」
「そんなことねえだろ、ずっとお前の周りには人がいて」
「知り合いが多いだけだよ」
「いつかは抜け出せるって、呪文みたいに唱えながら眠ったことなんかねえだろ!」
 チハルは怒鳴り、すぐに後悔したのか、俯いた。
「悪ぃ、親のことは──でもお前は、俺よりずっと」
「お前は恵まれてる」
「そんなことねえ! お前にないのは戸籍だけじゃねえか!」
「……望めば、努力すれば手に入るなんて幻想だよな」
 秋野の呟きに顔を上げたチハルは、ぎゅっと唇を引き結んでまた床に視線を落とした。
 抜け出したい。ここではない、もっといい場所へ。もっといいものを、たくさんこの手に掴みたい。多分誰もがそうだろう。現状に百パーセント満足している人間なんて多分ほとんどいないはずだ。当たり前の欲の範囲に収まるか、強欲と呼ばれる域に達しているかは別の話。
 戸籍が欲しいと思ったことは一度もない。無欲だからではなく、手に入れることで何かがよくなるとは思わなかったからだ。戸籍の他にも持っていないものならたくさんあった。ただ、チハルには──他人には分からないだけで。
「俺が何を持ってると思ってるのか知らない。実際にそれはお前にないものなんだろうし。だけど、お前だって俺が持ってないもののことはわからないだろ」
「そんなの、あんのかよ」
「持ってないものはたくさんあるよ。今欲しいものは少ないけどな」
 少ないのではなくて、ひとつだけだ。
 そう言わなかったのは、追及されても答えられないからだ。秋野自身はチハルに知られたところで構わないとはいえ、哲もそうだとは思えない。それに、いくら今は友好的だと言っても、哲が拉致された事実は無視できない。
「欲しいものが少ないって時点で、俺とアキは違う気がすんだけど」
「お前だって何もかも欲しいわけじゃないだろう」
 欲しいと思ったものは過去にいくつかあった。欲しいと願った人間も一人いた。一度は繋いだ彼女の手はいつの間にか手の届かないところまで遠ざかり、触れることもできなくなった。彼女は今も秋野の奥に大事にしまい込まれているが、かつてと同じ場所にはいない。
「アキがほしいものって、なに……だれ?」
 躊躇いのせいか、チハルの物言いは子供時代のそれを彷彿とさせた。他の子供たちと遊ぶ秋野の後をついて回り、なに、だれ、どうして、僕もほしいと泣いた子供時代のチハルを。
「教えられない。俺だけの話じゃないから」
 チハルは眉間に皺を寄せて何か言いかけたものの、結局何も言わなかった。伸ばした自分の靴の先を眺めながら何度も指を組んでは解くことを繰り返す。
「──そうか」
 今までなら嫌味や文句のひとつも言っただろうか。チハルはそのままゆっくりと腰を上げた。
 気まずさを誤魔化すようにカウンターの奥の棚を眺め、ぶらぶら階段に向かうチハルを止めなかったのは、どうしたらいいか迷ったからだ。上がるなと言えばチハルの足は止まったかもしれない。だが、却って興味を引いてしまうかもしれない。強く言うほうがいいのか、それとも適当なことを言って引き留めるほうがいいのか。
 判断がつかないうちに、階段の上に哲が現れた。
「よう」
 眠そうな顔はしているものの、デニムとTシャツを身に着けていたから内心胸を撫で下ろした。チハルはぽかんと口を開けて哲を見上げている。
「何であんたが……え? ここで働いてるとか?」
「はあ? 何でだよ。俺は家事手伝いか何かか」
「家事? いや、ここ、店だよな?」
「店じゃねえ、そいつんち。帰るわ」
「ああ」
 最後の部分は頷く秋野を見ながら言い、踵を返した哲は階下からは見えなくなった。中二階のドアが閉まる音がする。チハルは階段の上と秋野を見比べていたが、そのうちこちらに戻ってきた。
「その──ここに住んでるとは思わなくて……勝手に入って悪かった」
「いや、いいよ」
 今更、という言葉は飲み込んだ。どう見たって住居に見えないのだからチハルが悪いわけではない。
「改めて礼を言いたかっただけだから。じゃあ」
 チハルは早口で言うと、開け放したままの扉から足早に出て行った。秋野は腰を上げて扉を閉め、階段を上った。
 ベッドは適当に直してあったものの、それでも乱れたままだった。
 昨晩の哲はいつもと少し違った。しおらしかったわけでもないし、相変わらず罵詈雑言を吐き散らしてうるさかったが、秋野を宥めるような雰囲気も微かにあった。多香子のことを持ち出したような格好になったから気が引けたのだろう。秋野の感情を忖度したりしない哲も、多香子のことにだけは遠慮する。
 ベッドに腰を下ろし、携帯を取り出す。哲にかけてみたが、応答はない。秋野は通話をキャンセルして仰向けになり、薄っぺらな端末を放り出した。
 素っ気ない天井に目を向けつつ、昨晩のことをまた思い出す。それから、多香子と暮らしていた頃のこと、小さな子供だったチハルとレイのこと、そしてまた哲のこと。
 何かを考えるわけではなく、ただ思い出すだけだ。様々な記憶の断片、思い出の断片を。通り過ぎていく欠片を眺め、目を閉じているうちに眠気が襲ってきた。
 寄り添うのとは違う、一定の距離を置いて隣に横たわる誰かの気配と息遣いを確かに感じたと思って目を開ける。当然ながら、そこには誰の姿もなかった。自分では半分以上覚醒していると思っていたが、違ったのかもしれない。
 ここにはいないはずのその人物に手を伸ばして引き寄せ──引き寄せたつもりで──秋野は小さく息を吐いた。