いつかは抜け出せる 6

「……何で来たんだよ」
 哲はこの世で最も嫌いな食べ物を口いっぱいに突っ込まれたような表情を浮かべ、一歩下がってこの間と同じ台詞を口にした。
 約束もしていないのに現れる秋野を見て、哲が嬉しそうにしたことは一度もない。約束しているときでも迷惑そうなのだから、当然と言えば当然の話だ。しかし、いくらなんでも普段はこんなに嫌そうな顔はしない。
「……で、何にやついてんだよ」
「お前の嫌がる顔を見るのが俺の楽しみだからだ」
 正直に言うと、哲は舌打ちして眉間の皺を深くした。
「いかれてんな」
「知ってるよ。チハルは?」
「何で」
「チハルの彼女に石のことで用事があったから寄ったんだ」
「俺はついでか」
「そこは喜ぶとこじゃないよ、馬鹿だね」
 今出てきたばかりの建物を肩越しに振り返り、哲は小さく肩を竦めた。
「まだ彼女と話してる。ここ、近野さんの彼女の親戚なんだってな」
「そうらしいな」
「ああ、だからそれ──」
「これはお前にだ」
 納得した、という表情を浮かべる哲に手にしていた花束を差し出すと、哲は崖っぷちに追い詰められた脱獄囚のような表情を浮かべて後ずさった。
「嘘だろ!」
「嘘だよ」
 哲の脚が音を立てて空を切った。秋野が飛び退ったら花束を包んだフィルムが音を立て、ラナンキュラスの重たげな頭がわさわさ揺れる。
「何で俺がお前に花をやらなきゃならん」
「まったく、ろくでもねえな!」
「おい、何玄関先で暴れてんだよ」
 花束を盾に襲い来る錠前屋から身を守っていたら、立派な門扉からチハルが現れ、呆れた顔で溜息を吐いた。

 

「これはラナンキュラス、それからミモザ、これは多分ランの一種だね。それから黒いチューリップにグリーン諸々。洒落てるよねえ。私の頃はさ、花束って言ったら赤いバラにかすみ草。それかカサブランカだったかなあ」
 女──田中恵津子は花をひとつひとつ指しながら言って笑った。
 還暦はとっくに過ぎているらしいが、元々若々しいのか化粧が上手いのか、実年齢よりだいぶ下に見える。
「カサブランカはきれいだけど、香りがきつすぎてね。噎せ返るって、正にああいう香りのことを言うんだと思うよ」
「カサブランカって……」
「知らない? ユリでさ、このくらいの、結構でっかくて迫力ある白い花」
「ああ、知ってます」
 哲は頷き、オレンジ色の花粉がボロボロ落っこちるやつだ、と呟いた。花の名前は知らなくても細かいところは見ているのが錠前屋だ。
 秋野が持っていた花束は、知り合いの店に寄ったら持たされたものだった。最近開店したメンズファッションのセレクトショップで、内装にこだわりがあって海外含め色々と仕入れてやったのが数ヶ月前のことだ。開店祝いに届いた山のような花を持て余しているらしく──オーナーはバツイチの五十代男性──何でもいいから持って行ってくれと泣きつかれた。
 チハルに押し付けようと思ったら彼女が花粉のアレルギーだからと断られ、仕方なく恵津子のところに持ってきた。
 勿論、嫌がる哲の首根っこを捕まえて。秋野としてはある意味両手に花だった。片方は食虫花みたいなものだが、まあそのへんは好みの問題だ。
「恵津子さん、ちょっとデータを見てもらえます?」
「あ、先にお花の水上げしてくるからちょっと待ってて」
 恵津子は花束を持って出て行き、秋野は殺風景な部屋に哲と二人残された。華やかな商売をしているのに、事務所には装飾のひとつもない。花束が持ち去られたせいで、部屋は最初に足を踏み入れたときより一層素っ気なく見えた。
「何してる人?」
 哲がこれまた飾り気も何もない合皮ソファの背に凭れ、秋野を見上げて訊ねた。
「下着屋」
「へえ……まさか店はこんなんじゃねえよな?」
「俺も行ったことないから知らんが、さすがにこんなんじゃ客が来ないだろう」
 まるで役所の事務室みたいな部屋をゆっくり見回した哲の視線がまた秋野に戻ってくる。
「何だ、その顔は」
 胡乱な目つきをされたから、秋野は思わず首を捻った。どう考えてもおかしなことを言ったとは思えない。
「お前なら下着屋で女にプレゼントのひとつやふたつ買ってそうじゃねえか」
「下着は買わない」
「何で」
「男が着せたいと思うものと、女が身に着けたいと思うものが違うかもしれないから」
 確かめたことはないが、男の願望は身勝手だ。もちろん、逆もまた然り。哲は納得いかない顔で首を捻った。
「まあ、そうかもしんねえけど。けど、それって服とかアクセサリーも一緒じゃねえか?」
「そうだよ。だから、服もアクセサリーも買わない。これが欲しいって指定されるなら買ってもいいけど」
「……」
「似合うものを選ぶ自信はそれなりにあるけどな。欲しいと思わないものを押し付けられたって困るだろう」
「でもお前、この間猪田の女に──」
「俺の女じゃないからだ」
 少し間があって哲が口を開きかけたとき、恵津子がドアを開けて戻って来た。
「ごめんね、お待たせ。で、何を見ればいい?」
「見積もりです。この数と納期で、金額はここ」
「ああ、はいはい。サンプルよかったよ。すごくかわいいね」
「それはよかった」
 チハルの彼女のアクセサリーを恵津子に見せた理由は色々あるが、後ろめたさがあったのは否定できない。チハルにどう思われようと知ったことではないと思うのは相変わらずだ。しかし、必死に変わろうとしている人間に対して、自分の態度は冷たすぎるのかもしれないと思ったのも事実だった。
 哲に言われたから、というわけではないけれど、まったく無関係でもないのだと思う。哲にだってどう思われてもいい。それは昔も今も変わらないが、チハルに対するそれとは微妙に意味が違う。
「価格帯もちょうどいいし。新しく出すラインはさ、今までの客層より若い子がターゲットだから」
「三十代くらいですか」
「そうそう。ここのアクセサリーとうちの下着と一緒に売るの、結構いいアイディアだと思うんだ──」
 ふと気になって哲のほうに目をやると、哲は何を見るふうでもなく事務所の壁を眺めていた。そこにあるのは経年の汚れが染みついた、いかにも安っぽい壁紙だけだ。その凹凸に一体何が見えるのか──見えないのか、それは秋野には知る由もなかった。

 

 恵津子のところを出た後に用事はなかった。特に誘わなかったものの、哲は当然のようについてきて、勝手に酒を注いで勝手に飲み、ゆっくり三本煙草を吸った。
 これまた当たり前という顔で帰ろうとするのを中二階に引っ張り上げて押し倒したのは、秋野からしてみればそれこそ当然の流れだった。哲にとっては腹立たしい展開だったのは、いいだけ罵倒されたからよく分かった。それでも、重ねた唇は噛まれたものの食い千切られはしなかったので、許容だと受け取り服を剥ぎ取った。
 ラナンキュラスの花弁のように何枚も重なっているのは、身に纏う衣服ではない。哲の本質──いや、本心を覆う、薄くて何層にもなった何か。哲は隠し事をするタイプではなく、大抵のことは剥き出しだと感じる。そんな哲でも、無意識に己を覆うものを持っている。哲に限らず、誰でもだ。
 できる限り丁重に、しかし容赦なく、可能な限りすべてを取り払う。皮膚すら剥ぎ取ってしまいたい衝動を抑制するのは難しい。傷つけたいわけではないが、大事にしたいわけでもない。荒っぽく押し入ったら、哲は一瞬、蕩けるような、陶然とした表情を浮かべた。
 喉を晒して仰け反り、低く掠れた声を漏らす。そうして潤んだ目を閉じ、開いたときにはいつもの鋭い目つきが戻っていた。
「……哲」
「ああ──?」
 汗ばんだ額に前髪が一筋貼りついている。取ってやろうと指を伸ばしたら、嫌そうに頭を振って避けられた。
「お前、たまに──何回に一遍とかじゃなく、もっと、要は頻繁じゃないってことだが」
「何、な、んだよ! 人に突っ込みながらべらべら喋ってんじゃねえ!」
 哲はいつもの通り歯を剥いた犬みたいな顔で秋野を威嚇した。どう見ても、裸で誰かに組み敷かれている顔ではない。それでも、さっき見た表情は見間違いではないと知っている。
「たまに、さっきみたいな顔することがある」
「ああ!?」
「俺が入れるときに」
 覆いかぶさったら角度が変わったらしく、哲は呻いて──というより唸って──秋野の肩に噛みついた。
「痛いよ」
「急に動くんじゃねえ!」
「動きますよっていちいち言うのか、最中に」
「うるせえ、どうだっていい──つーか俺が何だって」
「動きますよ」
「あのな……っ」
入れたままゆっくり揺さぶった。揺さぶられる側の感覚は分からない。哲の顔を見る限り、気持ちがいいとは思えないが、まあそれはいい。
「たまにな、うっとりした顔するんだよ」
「っ、……ああ?」
「入れた瞬間に、解錠したときみたいな顔をすることがある」
 哲は何を言われているのか分からないという顔をした。ぽかんとした表情で秋野を見つめて、ほんの数秒。眉間に深い皺は刻まれたものの、錠前屋は秋野の予想に反したことを呟いた。
「──悪いか」
 そんな答えが返ってくると思わなかったので思わず口ごもる。
「え……いや、悪くは──」
「気持ちいいとか、そういうんじゃねえ」
 真正面から睨みつけてくる目の色は、アジア人に多い濃い茶色だ。赤みがないブラウンの虹彩。秋野自身の瞳とは違って、様々な色が混じり合ってはいない。それなのに、自分の女ではない女のために選んだピアスの石が、ほんの束の間脳裏をよぎった。
「……抜け出せた、って思うことがある」
 意味がよく分からなかった。物理的には真逆のことが行われた瞬間に、一体何から抜け出せたと感じるのか。
「何からだ」
「それか──見つけたって」
「だから、何を」
「多分、……ぅあ!」
 最後までは聞けなかったけれど、聞いたところで何かが変わるわけでもなかったから構わない。哲の中に押し入る感覚も、本能的な抵抗を抑えつける優越感も、単純な快感も、腹の底からこみ上げる何か、うまく表現できない感情も。
 哲の中から文字通り抜け出して、抱え上げた身体を真下から突き刺した。傷つけたいわけではない。本当だろうか。本当は、傷つけたいのかもしれない。それでどうなる。それがどうした。どうだっていい。今腕の中にいる哲は、内包するすべて、薄皮に覆われた芯の部分まで自分のものだ。
 欲しくもないものを押し付けているのは、下着どころの話ではない。だが、哲はどこかの、秋野にとってどうでもいい女とは違う。どうでもよくない女とも違う。そもそも哲を女と同列に考えたことはない。
 哲は哲。俺の錠前屋。例え本人がどう思おうと。
「──哲」
「あ、ぁ……」
 微かな声が反らせた喉から漏れて消える。
「俺は逃げ出したいと思ったことなんかない。今も昔も」
 手放さないと決めたものを握り締め、そのとき立つその場所でもがくだけだ。
 友人でも恋人でもない、寄り添ってくれるわけでもない、ただ自分のいたい場所に立っているだけの男の首根っこを捕まえて、逃がしたりしないように。
「違う」
 瞬きした哲は、手を伸ばし、秋野のうなじをきつく掴んだ。
「──そうじゃねえ、違う……」
 哲の声は掠れて消え、意味を成さない喘ぎになった。秋野を包む内側が収縮する。ゴムの被膜を間において、それでも鮮明に感じるのは、それが哲だということだけだ。
「哲……お前が逃げたいのは知ってる」
 でも俺は逃げない、とまた呟く。薄く開いた哲の唇から呼気が漏れたが、何と言ったかは分からなかった。
 違う、という言葉だけが、宙に漂い、消えた気がした。