いつかは抜け出せる 3

「何で来たんだよ」
「何でって、用があるからだ」
「ええと、しばらく外しましょうか?」
 哲は口を挟んできた猪田を睨んだが、猪田は哲から目を逸らして秋野を見た。
「もしお邪魔でしたら」
 秋野も猪田も満面の、そしてよそ行きの笑みを浮かべていた。猪田のそれは社会人として常識の範囲だが、秋野の笑顔は完全に猫の皮だ。しかし、猪田には初見で哲を頭から食いそう、と見破られている。今更いい人ぶったって仕方ないっつーの、クソ虎野郎。哲は胸の内で悪態を吐きながら、秋野の脛を思い切り蹴っ飛ばした。
「痛いよ」
「いつも言うけどな、痛いように蹴ってんだよ」
「まったく、うるさいな。俺は猪田さんに用があるんだからちょっと黙ってろ」
 猪田に連絡を取ってほしいというメッセージを受信したとき、哲は偶然猪田と一緒だった。たまたま行き会っただけで約束していたわけでもないというのに、なんというタイミング。GPSだけではなくカメラも埋め込まれている疑惑が頭を過る。俺は宇宙人に拉致された被害者かなんかか、と思いながら、哲はディスプレイを眺めて舌打ちした。
 返信するのが面倒だったから電話をかけ、猪田ならここにいると言って電話を代わったのがまずかった。あれよあれよという間に居所を聞き出され、コーヒーショップで秋野を待つ羽目になったのだ。
 窓際に座ったから、遠くから秋野が歩いてくるのが目に入った。何人かの女を振り向かせながら店に辿り着き、哲の隣に腰を下ろしたのが二分前。わざわざすみませんとかいやいやそんな、とかお決まりの台詞の応酬の後、哲が「何で来たんだよ」と発言して今に至る。
「すぐ帰るから蹴るな」
 秋野は哲を睨みながら、着ていたコートのポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは小さなグレーの巾着袋だった。
「知り合いの知り合いが、アクセサリーのネットショップを始めたらしくて」
「はい」
 猪田が首を傾げて袋を見つめる。
「開店祝い代わりにひとつ買ったんですけど、二十代から三十代の女性向けで、自分で使えるようなものじゃないんです。それで、よかったら猪田さんの彼女にもらってもらえないかと思って」
 秋野が袋から透明なビニールの袋を取り出した。袋の中身はピアスだった。全体は透明で、中に黒っぽい粒や紫色が混じっている石がメインのデザインだ。哲にはいいのか悪いのか分からないが、秋野が人に渡そうというものだから、野暮ったくはないのだろう。
「でも、どうして」
「お世話になってるので。でも、猪田さんに何かっていうのも違う気がしますし、知り合いのためにもなりますし、一石二鳥かなと。ただ、身に着けるものなので、もし猪田さんが嫌なら遠慮なく断ってください」
「あ、いえ、それは平気です!」
 猪田はピアスを光にかざしてにっこり笑った。
「だって、これすっげえきれいです!」
「そうですね」
 猪田の笑みにつられるように秋野が微笑む。猪田はぽかんと口を開けて秋野の顔を見つめ、秋野がその場を立ち去るまで、驚いた顔のままだった。

 

「スーパーセブンって言うんだそうだ」
 哲がドアを蹴っ飛ばそうと足を振り上げた瞬間にドアが開いた。数秒前まで会話をしていたように言った秋野は、左脚を素早く後ろに引いて、哲が繰り出した蹴りを躱した。
「くそったれ」
「顔を見るなり蹴るなよ」
「他に何をしろっつーんだ」
「あいさつ」
「あいさつしてんじゃねえか」
一歩踏み込んで再度蹴ったが、今度もあっさり避けられた。秋野はさっさと踵を返して部屋の中に入っていったので、哲も渋々後を追う。
「それはあいさつじゃない。もっとこう、愛情溢れるやつにしてくれ」
「溢れるほど持ってねえし。で、何がスーパーなんたらだって?」
 階段を下り、カウンターの向こう側に入った秋野は棚から酒の瓶を取り出し、カウンターに置いた。
「何が」
「てめえが言ったんだろうが、さっき」
 キッチンスペースから氷の入ったグラスを両手に戻ってきた秋野は、哲の隣に腰を下ろした。哲が立ち上がってひとつ左にずれたら、秋野も何も言わずにひとつずれる。嫌な顔をした哲を横目で見て、秋野は喉の奥を鳴らして笑った。
「無駄なことをするんじゃないよ」
「うるせえな、俺の勝手だろうが」
「まあいいけど。スーパーセブンっていうのは、ピアスについてた石のことだ」
「ああ、昼間の──」
 秋野からグラスを受け取り、ポケットから煙草のパッケージとライターを掴み出す。
「何かいまいち石っぽくねえ名前だな。車でそういう名前のやつなかったか?」
「ケータハムだろ。石は俺もよく知らないんだが、七つの鉱物が内包されてるとかなんとか。アメジストとか水晶とかな。パワーストーンとかいうやつだ。まあ、ピアスを作った本人はそういうことに興味はなくて、きれいだからって言ってたけどな」
「ふうん」
「で?」
「ああ?」
「何か訊きたいことがあるんじゃないのか?」
「知り合いの何たらって、」
「嘘じゃない。チハルの知り合いがアクセサリーを作ってるんだ」
「近野さん? この間の電話ってその話か」
 頷いてグラスを傾けた秋野の横顔を眺めながら穂先の灰を払う。ガラスの灰皿に散った灰は、スーパー何とかの中に散っていた内包物のようだ。
「まあな」
「で、何で猪田だよ?」
「うん?」
「だから、世話になってるって」
 別に秋野が誰にどんな気持ちを抱こうと勝手だし、どうでもよかった。だから、本当に世話になっているなら礼でもなんでもすればいい。しかし、実際のところ秋野と猪田が顔を合わせたのはほんの数回で、世話になっているとは思えない。
「俺がっつーことか」
「……」
「俺が猪田に世話になってんのは事実だけど、何でお前がそれに感謝すんだ。お前は俺の保護者かなんかか? 余計な──」
「そうじゃないよ。お前のことじゃない」
 秋野の指が伸びてきて、哲の煙草を素早く奪った。
「俺が世話になってると思ってる」
「何で」
「お前が世話になってるから」
「だから──」
「聞けよ。俺はお前を見守ることなんかできないし、するつもりもないし」
 銜え煙草の秋野が酒の入ったグラスを傾けた。氷がグラスに当たって硬く澄んだ音を立てる。
「だから、そういうことをしてくれる人がいることに感謝してるだけだ。保護者みたいな感覚じゃない。うまく言えないからお前には同じように聞こえるかもしれんが、少し違う」
 いつかは抜け出せるのだろうか。自分が何を探しているかよく分からない、そういう感覚から。哲は秋野から目を逸らし、秋野が吐いた煙の漂う先に目をやった。
 逃げないと決めたのだから、逃げたりしない。それでも、今すぐ走り出したくなる。こんなふうに秋野の中にあるものに触れる度、慌てて手を引っ込め後ずさりしたくなる。
 腹の底から突き上げてくるのは喜びでも感謝でもなく、焦燥だ。閉じそうな輪の切れ目から目が離せない。輪の外へ飛び出し逃れなければと思うけれど、もうそれではいけないのだと分かっていた。この虎の巣穴にとどまって何かを見つけなければならない。それなのに、何を探せばいいのか分からなくてただ突っ立っている。
 何も言わずにいると、秋野がグラスをカウンターに置いた音がした。
「この間のチハルの話だけどな、ふたつあったんだ。ひとつめは知り合いがアクセサリー用の石を仕入れたいって話。で、ふたつめはその知り合いっていうのが、あいつの今付き合ってる女だって話」
 哲の沈黙をどう取ったのか、秋野はあっさり話題を変えた。哲としても追及したいことではないから、ありがたく乗っておく。
「女? 何だよ、わざわざご報告か?」
「いや、そうじゃなく、どうやったら末永くうまくいくかって」
「何だそりゃ」
「あの顔だろう。女に不自由したことはないらしいが、ああいう性格だ。まあ女とも長続きしないらしくてな。今回は結構本気らしい」
「それで、どういうご託宣をくれてやったわけ」
 秋野は腰を上げて灰皿を取り、煙草を揉み消した。
「何も。偉そうに言えることなんかないからな」
「ああ、女とうまくいってることねえもんな」
 秋野は眉を寄せて腕を組み、記憶を辿るような顔をした。
「……そうか? そこまで? お前にそんな言い切られるくらい?」
「そりゃあ遊んでる女とは合意で別れてんだからあれだけどよ」
「ああ、多香子とのことか?」
「え?」
「確かにあいつとは……」
 いかに秋野に対して配慮しない哲であっても、多香子の名前が地雷だということくらいは分かっているからさすがに焦る。哲は眉間に皺を寄せて宙を睨んでいる秋野の腕を軽く殴り、遮った。
「いや、そうじゃねえって!」
「──そうか? でも」
 秋野は腹を立てた様子もなかったが、それとこれとは話が別だ。
「いや、だから、それはお前が悪いとかそういうんじゃねえだろ! そうじゃなくて、前になんか言ってた女とか、そういう話で──」
「前? 何を」
「なんつったっけほら、例えば女んとこに鍵忘れて取りに行くのが嫌だとか何だとか」
「……ああ」
 秋野は少し驚いたような顔をした後、片頬を歪めて笑った。哲が覚えていたことがおかしかったのか、自分が忘れていたことがおかしかったのか、まったく別の理由だったのか。
「言われてみれば、長い目で見てうまくいったことはないのかもしれないな」
「そんな真面目に受け取られっとこっちも困んだけど。冗談だよ、冗談。軽口ってやつ。それに──」
「それに?」
 七つどころではない。何をどれだけ内包しているか分からない目が瞬いて哲を見た。ライトに透けたそれは言われてみれば石のように見え、水にも氷にも見える。そして同時に、ただの目玉にも見えた。
「……少なくともまだ駄目になってねえ──今は」
 秋野は少しの間哲を見つめて、おかしそうに笑った。猪田が見惚れていた子供のような笑顔とは違う。唇の端を曲げるいつもの笑いだ。
「始まってもいないんだから、慰めになってないよ。馬鹿だね」
 滅多に見られるものではないが、屈託のない秋野の笑顔はとてもきれいだ。数度しか会ったことのない猪田が思わず放心するくらい。それでも、哲が欲しいのはそれではない。
 長い睫毛の向こう、宝石より複雑な色の目が照明に当たって色を変える。哲は舌打ちして秋野から目を逸らし、火を点けるつもりで取り出した新しい煙草をカウンターの上に放り出した。