いつかは抜け出せる 2

 電話がかかってきてから一週間。久し振りに見るチハルは随分と柔らかい表情になっていた。
「わざわざ……えっと、ありがとう」
「いや」
 向かいに腰を下ろした秋野を見て、チハルはそわそわと脚を組み替えた。長年、会う度につっかかってきたのだ。染みついた態度をいきなり変えるのは難しいだろう。それでも確かに、努力は読み取れる。
 チハルに指定されたのは他に誰もいない古い喫茶店だった。一応営業中のようだが、奥に引っ込んでいるのか、店の人間の姿も見えない。
「何か飲むか? だったら──」
「いや、いい」
「うん、ああ、そうか」
 お茶をしながら世間話という間柄でもないから断ると、チハルは落ち着きなく浮かせかけた腰を下ろした。
「あのさ──えっと、あいつ、錠前屋は元気?」
「……ああ」
 思わずチハルの顔をじっと見ると、チハルは耳まで真っ赤になった。
「や、いや、俺も別に気になってるわけじゃねえんだ。そうじゃねえよな」
 髪に手を突っ込んで乱暴にがしがしかきむしる。相変わらず人形のようにきれいな顔をしているが、今日のチハルはひどく人間らしかった。
「ええと──用はふたつあんだよな。ひとつめなんだけど、アキ、石って手に入れられっかな」
 何を言われると思っていたにせよ予想外で、一瞬チハルのいっている意味が分からなかった。
「──アキ?」
「ああ、すまん……石ってひとくちに言われても」
「そっか。俺はよく分かんねえんだけど。えーと、ダイヤみたいに高くはないけど、キラキラしてる宝石みたいな──こういうの」
 チハルはポケットに手を突っ込んで小さなビニール袋をいくつか掴み出した。口にジッパーがついているやつだ。ばらばらと無造作にテーブルに置かれた袋はそれぞれピアスや指輪が入っている。
 秋野は宝飾品に詳しいわけではないが、仕事柄目にする機会が割合多い。チハルが出してきたものはどれも今流行のデザインだった。一流品ではないが、雑貨屋で売られているほど安物でもない。指輪は恐らく三万から五万。社会人なら自分で買って、惜しみなく普段使いできるものという印象だった。
「これ、知り合いが作ってんの。実店舗出す金はないらしくて、ネットで売ることにしたっつってて」
「ふうん」
「そんで、石がよ、なんかこういうのって海外産が多いんだって?」
「俺も専門じゃないからよく知らんが、確かタイとか、あとはインドとかじゃなかったかな」
「自分で買い付けに行けりゃいいんだろうけど、まあ色々事情があって──そんで、お前に、その、頼もうかな……と」
 せっかく色が引いていた耳がまた赤くなる。精一杯どうでもよさそうな顔をしているものの、そうでないのは明白だ。哲が言うところの「あの人、小せえガキみたいで微笑ましい」部分とはこういところかもしれない。まったく、拉致され指を切り落とされかけて微笑ましいも何もないものだ。
 残念ながら秋野は長年かけられてきた迷惑が優しい気持ちを凌駕してしまい、すぐにそんなふうには考えられなかった。
 チハルがテーブルをじっと見つめた。もちろん何も落ちていない。そこにあるのは年月が経つうちについた傷だけだ。
 チハルの態度に秋野の中の何かも多分傷ついた。もちろん、子供時代の話だ。傷はごく浅く、とっくに癒えた。どこにあったのかも、もうわからない。しかし、チハルの中の傷はいくつも重なり、癒えないまま今に至るのかもしれない。
 自業自得で、同情の余地はない。だが、少しでも歩み寄ろうとするのを拒否するほどチハルが憎いわけでもない。
「……なあ」
「え?」
「やっぱり何かもらっていいか。コーヒーか何か」
「あ──ああ、わかった!」
 立ち上がった拍子に思いきりテーブルに膝をぶつけつつ、チハルはカウンターの奥に駆け込んでいった。溜息を吐いて携帯を取り出す。出ないだろうと思ってかけたら、意外なことに哲はすぐに応答した。
「何だよ」
「お前ね、俺がもしもしっていうまで待てないのか?」
「いつも言わねえだろうが」
 哲の声は相変わらず低く、今すぐ切るぞと言わんばかりだ。
「何の用だよ」
「声が聞きたくて」
「切るぞ」
 ほら言った、と思わず喉の奥で笑う。
「冗談だよ、用事があるからかけたんだ」
 微かな振動が電話越しに伝わったのか、哲は思い切り舌打ちした。
「むかつく野郎だな」
「この間、猪田さんの彼女の話をしてたろう」
「はあ? 猪田の彼女? 何だ急に」
「どういう子だった?」
「可愛かったぜ」
 怪訝そうな哲の声が耳の中に低く響く。店内にコーヒーの香りが漂い始めたせいか、何となく眠たくなってきた。
「可愛いってどんな?」
「あー、俺よりは小せえ」
「……だろうな」
「そんで──可愛い」
「……」
「何だよ」
 今度は声を上げて笑ってしまった。哲のもののとらえ方は少し変わっている。見え方が違うというのではなくて、認識の仕方、と言えばいいのか。
 いい女がいたと言うからどんな女だと訊いてみても、大抵はこんな感じで「だからいい女」としか言わない。そもそも他人に対する興味が薄いからそういう答えになるらしい。
 それならまったく視覚で認識していないかというとそうでもなくて、質問を変えれば驚くほど細かいところまで記憶しているのだ。
「いや、質問が悪かった。お前が会ったとき、どんな服装だった? どんな感じかはいいから、持ち物とか髪型とかを具体的に教えてくれ」
「ああ? あー、えーとキャラメルみたいな色のニットのワンピース、あの袖口とかの編み方なんつーんだっけ?」
「リブ編み?」
「ああそう、そういうやつ。畝が太目の。Vネック、身体のラインを拾わないシルエット、くるぶし丈。靴はグレーのローテクスニーカー、腕時計は金属ベルト。右手の人差し指にそこそこでかい緑の石のついた指輪、耳は金色の輪っかのピアス、髪はピンクっぽい茶色に染めてて肩につくくらい、ゆるく巻いてある。バッグは薄いグレー、本革」
「最初からそうやって言えばいいのに」
「てめえの質問の仕方が悪ぃ」
 哲はそれ以上何か問う間もなくさっさと通話を切った。いつもながら愛想というものがまるでない。
「何一人で笑ってんだよ、アキ」
 携帯をポケットに突っ込んでいたらチハルがマグカップを両手に持って戻ってきた。若干危なっかしい手つきでマグをテーブルの上に置く。
「電話してた」
「ふうん」
 チハルはマグを口に運んだ。秋野は哲と話をしながら意味もなく並べていた袋をひとつ手に取った。金色の枠に紫色の大きな石が嵌った指輪が入っている。秋野でも知っている、アメジストだ。
「……で、さっきの続きなんだけど。頼めるかな」
「頻度や一回に買い付けたい量、石のグレード、予算なんかも聞かないとな。今ここで引き受けるかどうかは決められないから、本人と話をしたい」
「分かった──ありがとう」
「まだ引き受けてないからな」
「分かってる。でも……」
「きれいだな」
 チハルの躊躇いにかぶせるように言い、指輪を目の前に持ちあげた。照明が当たって紫色が薄くなる。何か言いかけていたチハルは口を閉じ、少しの間の後、微かに笑って頷いた。