いつかは抜け出せる 1

 自分がベッドの上にいると気づき、哲は音高く舌打ちした。
 外は晴れているらしく、部屋の中は明るい。唸りながら寝返りを打ったら、幸い隣には誰もいなかった。
 昨晩はバイトの後に知り合いと偶然会って飲みに行き、別れた後に秋野のところへ寄った。
 飲みに、といっても知り合いはほとんど下戸だった。当然哲は飲み足りず、つき合わせる相手に秋野を選んだのは、別れた場所がたまたま秋野の住まいに近かったからだ。
 金を出すのが嫌だったわけではないのだが、結果的に秋野の部屋でタダ酒を飲ませてもらったことになる。
 そういう理由もあって──理由があろうがなかろうが同じとはいえ──本意ではないものの一発くらいはまあ想定内だった。しかし、それ以上はまったくもって図々しいと言わせてもらっていいだろう。実際言ったがどうせ相手は仕入屋だ。都合よく耳が聞こえなくなった秋野に散々いいようにされ、なかなか寝かせてもらえなかった。眠ったのは多分夜明け直前だったに違いない。
 まったく、ちょっと飲みたかっただけだというのにえらい目に遭った。舌打ちしながら起き上がり、ナイトテーブルにあった秋野の煙草を一本銜える。ライターを擦りながら耳を澄ませたが、建物の中に人の気配はしなかった。
「あー」
 哲は意味もなく声を出して煙を吐いた。声が嗄れているのは酒のせいか秋野を罵りすぎたせいか、判断は難しい。煙草を吸い終えでかい欠伸をしたところで中二階のドアが開き、家主が部屋に戻ってきた。
「やっと起きたのか。もう昼近いぞ」
「うるせえな……誰のせいだと思ってやがる」
「さあ?」
「うー」
「唸るなよ。食うか?」
 秋野はぶら下げていた紙袋を掲げて見せた。店名も何も印刷されていない赤い紙袋は以前にも見たものだ。この近くで秋野の知り合いがやっている店の袋で、頼めば大体何でも作ってくれると聞いた。大雨が降った日、雨が上がってから秋野と料理を取りに行ったことがある。
「食う」
 哲の返事に頷くと、秋野は紙袋を持ったまま階段を下りて行った。
 シャワーを浴びるかどうしようかと迷った哲の脳裏に昨夜のことが断片的に浮かんで消える。濡れた床、立ち込める湯気。シャワーを浴びたような記憶はあるものの、それ以上思い出すのは何故か憚られた。
 これ以上考えていたらぼやけた細部が輪郭を持ちそうで、哲は慌てて目を閉じた。目をつぶったからといって忘れられるものではないと思うが要は気合だ。多分、きっと。
 哲は自分の脳を刺激しないようそろそろと動きながら、スニーカーに足を突っ込んだ。

 

「チハルって、近野さん?」
「近野さん……ああ、そうだな」
 紙のランチボックスに箸を突っ込みながら訊ねた哲に頷き、秋野はグラスに注いだ水を飲んだ。
 食事を買いに行った店から帰る途中で、千晴から電話が来たらしい。
 千晴は秋野の幼馴染で、秋野と同じく母親がフィリピン人だ。ただ、秋野が父親を知らず戸籍すら持たないのに対し、千晴は日本国籍を持っている。
 哲が聞いただけでも秋野より遥かに恵まれた家庭環境で、それでもどこかが捩じれてしまったのが近野千晴という人間のようだった。
 哲から見るとそれなりにかわいいところもあると思うのに、幼馴染の秋野はそう思えないらしい。千晴は秋野に複雑な親愛の情を見せるものの、秋野のほうは千晴に対して常に素っ気なかった。
「そういや最近見てねえな」
「そんなに頻繁に会いたい相手じゃない」
 ベトナムだかインドネシア風なんとかという炒飯みたいなもの──名前も聞いたが忘れた──を口に突っ込みながら、哲は隣のスツールの秋野の脛を蹴っ飛ばした。
「邪慳にすんなよ、懐いてる犬みてえなもんじゃねえの」
「何でお前は俺よりチハルに甘いんだ」
 秋野は本気でむっとした顔をして哲を睨んだ。千晴のことになると、秋野の寛容な心はさっさと荷物をまとめて遠い国に旅に出る。
「別に甘くはねえよ、好きなわけでもねえし。ただ、そんな嫌がるほどでもねえだろと思うだけで」
「拉致されたのにか」
「そう言われりゃそうだけど。そんで、何の用だったんだよ」
 飯の上に乗っかっている目玉焼きをつつく。鮮やかな黄色から秋野の目玉を連想したが、もちろんそんなことで食欲は失われない。箸の先に力を籠めると、薄い膜が破れてとろりと黄身が流れ出た。
「何か話があるそうだ。電話では話したくなくて、会いたいって」
「ふうん。じゃあ会えばいいじゃねえか」
「……」
 いかにも面倒くさそうな顔で溜息を吐くから思わず笑ってしまった。
「何だよ、そのツラ」
 秋野はあまり感情の起伏を露わにしないし、そもそも機嫌が悪いことがあまりない。哲は秋野を怒らせるようなことをしがちなので──故意か事故かはともかく──それなりに遭遇するとはいえ、普段は滅多に見られるものではなかった。
「よろしく言っといて」
「嫌だね」
「何でだよ、いいじゃねえかそのくらい」
「うるさい」
「ケチ」
「お前な」
 臍を曲げた秋野が面白かったので散々いじり倒した結果、カウンターに押し付けられて雑に抱かれる羽目になったのは食い終えた後の話だ。
 まったく、千晴のことは嫌いではないが、確かに迷惑をかけられっぱなしではあった。

 

 哲が憤慨しつつシャワーを浴びている間に秋野は出かけていたので、家主不在の部屋でしばらくのんびりしてから外に出た。コンビニに寄って煙草を買っていたら着信したメッセージは猪田からで、彼女と駅前にいるからお茶でもどうかという内容だった。
 以前弁当を作ってやって以来、彼女が哲に会いたがっているという話は聞いていた。猪田の女がどんな女であれ、猪田がいいならそれでいい。正直興味はないけれど、猪田が会わせたいというのだから仕方がないと諦めて承諾の返信を送る。
 哲は、歩きながら千晴と猪田の違いは何だろうとぼんやり考えた。猪田にあるのは哲への好意。だが、千晴の抱えるものも、子供じみてはいても間違いなく秋野への好意なのだ。
 表し方が違うだけで、受け取る側の気持ちは変わる。もちろんそれぞれの個性や過去の経緯もあるだろう。けれど、多分大事なのはどう伝えるかだ。
 人間関係ってのは、まったくもって面倒くせえ。溜息を吐きながら、哲は目指す店に向かって歩き出した。