空を掻く指先

「あ、やべ」
「どうした」
「ああ、いや、何でもねえ。爪が」
 昨晩、酔っ払って秋野の部屋に転がり込んできてソファで眠った哲は、シャワーから出てきたところだった。
 秋野のスウェットは哲には長すぎる。裾を捲っている足元だけ見ると子供のようだが、眉間に皺を寄せて指先を睨んでいるおっかない顔は、子供からはほど遠かった。
「割れたのか」
「ちょっと……つーか、二枚爪」
 二枚に別れた爪の間にタオルの繊維が挟まっていたらしい。糸くずを摘み取ってゴミ箱に捨て、ソファに腰を下ろす。哲は休日のお父さんよろしく首からぶら下げたタオルを掴み、髪の毛をがしがし拭いた。
「水仕事とか多いからな。結構爪割れたりすんだよ」
 確かに、哲の手の皮膚はいつも乾燥している。手荒れがひどいとまではいかないものの、少なくとも潤っていたことはない。
「ハンドクリームとか塗ってるか?」
「真冬は店に置いてるやつ塗ることあるぜ──年に二回くらい」
「それは塗ってるって言わない」
「嫌いなんだよ、ぬるぬるするし。なあ、爪切り貸してくんねえ?」
 秋野は細々したものを放り込んである抽斗を開け、小ぶりの箱を取って哲の隣に腰を下ろした。邪魔だ狭い退きやがれ、と蹴飛ばされたがいつものことだ。
「見せてみろ」
「何で。ただの二枚爪だっつーのに」
「それは分かってる。爪切りで切ったら深爪になるだろ。削ってやる」
 哲はまるで秋野が「これは魔法の杖だよ」とでも言ったかのような視線を向けて寄越した。
「……何だよ、それ」
「何って、爪やすりくらい知ってるだろ」
「爪切りについてるやつなら知ってるけど。それ、ガラスか?」
「そうだ。爪切りだと衝撃で爪が割れることが多いし、断面が引っかかる」
「お前に関係ねえだろ、いいっつーの」
「ほら、いいから」
 無理矢理手を取って見てみると、右手の人差し指の爪が一部剥がれ、二枚になっていた。なるべく引っかからないようにやすりで削る。哲は嫌そうな顔をしつつも辛うじて我慢している様子だ。
「……女の爪を切ってやるために用意してるとか?」
「うん? 女は自分でちゃんとやるだろ。ちょっと待て」
 やすりを置き、引っ込めそうになった哲の手を掴む。右手でネイルオイルの蓋を開けたら哲は悲鳴を上げそうな顔になった。
「なんか知らんけどいらねえ!」
「お前の手に美しさを求めてるわけじゃないから安心しろ」
 膝を蹴られそうになったので脚で押し返す。オイルを素早く指に垂らしてやったら哲はヤギの断末魔みたいな声を漏らした。
「うるさい、黙れ。右手は大事な商売道具だろうが!」
 哲がもがくのをやめたので、両手全部の爪の間と甘皮に少量ずつ塗ってやった。ボトルを閉めて一本ずつ指先ですり込む。
「爪が割れてたり指先が乾燥してたら、感覚が鈍るんじゃないのか?」
 錠前屋は珍しく叱られた子供みたいな顔をして黙り込んでいる。
「お前がピカピカの爪をしてたら俺もちょっとびっくりするけどな、見た目がどうこう言ってるんじゃない。ほら、左手も」
「──じゃあ、てめえは何でだよ」
 ふてくされた子供みたいだ。口のなかでぼそぼそ言う哲がおかしくて、秋野は思わず声を上げて笑った。
「俺は単に身だしなみってやつだよ」
「……見た目がどうこうじゃねえか」
「育ちが悪いんでな」
 秋野に手を預けたまま、哲は問い返すような目を向けてきた。
「ささくれができてて、爪が割れてる。ただ乾燥してそうなってるだけでも、ああ、やっぱり──って思われる」
「……」
「物理的にどうにかなるなら、弱みは少ないほうがいい」
 ついでにハンドクリームのチューブも取り出した。ちなみに、どれも無香料だ。女からいい匂いがするのは歓迎するが、自分の手から花とか果物の匂いがするのは遠慮したい。
 柔らかめのクリームでぬめる指を絡ませたら、哲はギャッと声を上げた。
「ぬるぬるすんの嫌いだっつってんだろうが!」
「最初だけだから我慢しろ」
「ったく──」
「それからな、まめに磨いてるから、」
「ああ!?」
「突っ込まれても痛くないだろ。感謝しろよ」
「……」
「だから、爪切りで切ったら、断面が」
「……」
「粘膜に引っかか」
「粘膜とか言うんじゃねえ!」
「お前も言ってる」
「うるせえ、俺がはいそうですかって感謝するとでも思うのか、このエロジジイ!!」
「思ってないよ、馬鹿だね」
 哲の首からぶらさがっていたタオルを掴んで力任せに引っ張った。ロープに跳ね返されたボクサーみたいに倒れ込んできた哲の身体を巻き込むようにして位置を変え、押し倒す。
 まだ湿った前髪の束が眇めた目の上にかかっている。払ってやろうと手を伸ばしたら、トラバサミみたいな顎に危うく食いつかれるところだった。
「危ないな」
「逃げんじゃねえ、そのお上品な爪齧ってやるコラ」
「俺の爪がギザギザになったら痛い目に遭って泣くのはお前だと思うけどな」
 哲は眉間に深い皺を寄せてぐるぐる唸った。もう一度、ゆっくりと手を伸ばす。指が毛先に触れた瞬間、第二関節のあたりに噛みつかれた。
「痛いよ」
 ゆっくりと引き抜いた指の先、爪を何度も齧られる。
「──哲」
 指じゃないもの入れりゃいいじゃねえか、と呟く低い声。ハンドクリームで滑る指の感触が蘇って吐き出す息が浅くなる。
 唇を重ね、内側から食ってしまいたいという衝動のまま舌を絡める。哲は滑らかになった爪を秋野の肩に強く食い込ませた。

 

 奥深くまで押し込む度、哲の指先が何かを掴もうとするように空を掻く。
 さまよう指先を捕まえて握り締めたら、哲は一瞬逃げかけ、思い直したように握り返してきた。汗ばんでいるせいか、すり込んだ保湿剤のせいか。普段よりしっとりした哲の指は、いつもどおりの凶暴さで秋野の手の甲に傷を残した。
 まるで食い込む牙のように、深く。
 決して抜けない杭のように。