零度の情熱 10

「呼んでねえぞ」
「呼ばれた記憶もないな」
 一瞬前まで剥き出しにしていた獰猛な顔を引っ込めた秋野は、平素と変わらない悠然とした態度でナカジマの脇を通りすぎ、哲の前に立った。
「今日が最後だって言ってただろう。ちゃんとバーテンダーやってるか見ておこうかと思って寄ったんだ」
「てめえは俺の保護者かよ」
「保護もしてない。ご無沙汰してます」
 後半はナカジマに言いながら振り返った秋野の背中はまったく緊張感がない。
「中嶋さんのところと関係がある店とは知りませんでした」
「いや、そうじゃねえんだわ」
 ナカジマはポケットに手を突っ込み、煙草のパッケージを取り出し、何故かまたポケットに突っ込んだ。
「うちの若い奴がここの従業員と、ちょっと個人的に揉めたらしくてな」
「ええ」
 何となく聞く前に分かったというような顔をした秋野が一瞬哲に視線を寄越す。
「そいつを探して乗り込んだはいいが、お行儀が悪くて当番のバーテンダーさんに追い返されたって話らしいのよ」
「そうですか──」
 倒れたスツール、床に散乱したグラスのかけらと擦れた血痕、零れた酒の水たまりに浮かぶ溶け残った氷。濡れた足跡や床についた汚れから何が起こったか推し量るのは、小学生だってできるだろう。
「どっちの行儀が悪かったんだか」
「いやあ、躾がなってなかったんで、そこはほんとに申し訳ねえけどな」
「お互い様じゃないですか、そこは」
「そう言ってもらえるとちょっとばかり気が軽くなるねえ」
「迷惑がかかったなら謝ります。申し訳ない」
 秋野はそう言って頭を下げた。大げさではなかったが心が籠っていないようには見えなかったし、適当に言ったようにも聞こえなかった。同じように感じたのか、ナカジマは一瞬面食らったような顔をした後、苦笑して口を開いた。
「……迷惑かけられたとは思っちゃいないよ。こっちも別に、仕事じゃねえし。それに坊主も分かっててやったわけじゃねえんだから」
 ナカジマは哲を見て笑い、ポケットに手を突っ込んだ。
「謝れとは言わねえよ。悪気がねえのは一目瞭然だろ。そりゃまあ悪気がなきゃ何してもいいってわけじゃねえが」
「中嶋さん」
 遠山が秋野のすぐ後に戻ってきたのは見えていた。ナカジマの後ろに立った遠山は、僅かに咎めるような響きを持たせて名前を呼ぶ。ナカジマは遠山を振り返り、小さく肩を竦めた。
「──分かってるよ。まあ、ほんとならな」
「誠意を見せろってことですか」
 ナカジマが秋野の台詞に小さく頷く。
「お前さん達じゃなけりゃそう言うかも知れねえなあ。まあ、でもよ……」
「中嶋さん、駄目ですよ。俺はあんた達に含むところはないよ」
 遠山はナカジマが何か言いかけたのを遮るように小さく溜息を吐き、光沢のあるグレーのスーツの内ポケットに手を入れた。取り出した車のキーを手の中で弄びながら一瞬黙り込み、言葉を探すように宙に視線を彷徨わせてからまた口を開いた。
「組が絡んでることでもないし、暴力的なことは嫌いだし。だけど、何もできなかったと思われても困る。あいつらは元々うちのもんじゃないから、尚更。そうでしょう、中嶋さん」
 ナカジマは叱られた子供みたいな顔をして、スーツの内ポケットからさっきしまった煙草を取り出した。
「その、何だ……俺の伯父貴んとこが組を畳んでな」
 火を点けないままの煙草を銜えたり指先で弄んだりしながら、ナカジマは足元のガラス片を靴先でつついた。声だけなら落ち着き払っているように聞こえたが、動きはどこか落ち着かない。それは遠山も同じで、静かに立っているが、動揺がないとは言いかねた。
 ナカジマも遠山も、腐ってもやくざの幹部だ。例え自分で手を汚さずとも、暴力沙汰にある程度の免疫はあるはずだった。その彼らをしてここまで挙動不審にすることができる男の得体の知れなさに何故か苛立ち、哲は小さく舌打ちした。
「今更堅気に戻れるって奴もいねえもんだから、うちでも引き取ったんだよ。あいつらもこっちの顔は勿論知ってるが、直接付き合いがあったわけでもねえ。だから信用されてるわけでも慕ってくれてるわけでもねえ」
「どこも不景気ですね」
 株価の話でもする風情で秋野は言って、微かに笑った。
「ほんとになあ。すっかり斜陽産業って感じでな、暴力団ってのも──あー、今は、呼び方はあっちのがいいのか? なんだアレ、なんだった? 遠山」
「反社会的勢力ですか」
「それよ」
「暴力団は反社に含まれるんじゃないですかね」
「ああ、そうかい。何だってテロリストみてえだな。まあ、それは置いといてだ」
 ナカジマはおとなしく聞いていた秋野に視線を向けて煙草を銜え、火を点けた。
「落とし前って言葉も今は死語かねえ。まあどっちでもいいんだけどよ、俺たちもまだメンツで仕事するわけよな」
「分かります」
 秋野は相変わらず普段と変わらない穏やかさでナカジマに頷いて見せる。
「昔なら小指って話になるんだろうが──」
「指は駄目です」
 穏やかに、しかし断固とした口調で秋野が口を挟んだ。上司の話を遮られた遠山が怒気を滲ませて秋野を睨み、そうしてすっと青ざめた。
 元々遠山に秋野を凌ぐ迫力などない。だが、それとこれとは話が違った。
「こいつの指は、小指だろうがどこだろうが」
 哲からは秋野の背中しか見えないが、どんな顔なのかは想像がついた。多分、唇の端を曲げて薄く笑っているだけだ。相手が一般人なら、単なる微笑みの枠をはみ出さない笑みを。
「……そんな顔しなさんなよ、錠前屋の坊主の指を詰めろなんて言わねえよ。そんなことしたって誰も幸せになれねえだろうさ」
 さすがにナカジマは遠山よりは肝が据わっているのかすぐにそう返したが、顔色は悪かった。
 やくざは嫌いだ、面倒だから近寄らないと秋野は言うし、実際そうやって生きてきたはずだ。これだけ人脈豊富なくせに、やくざの知り合いは多分ほとんどいない。
 だがそれは、やくざが恐ろしいから近づかないというのでもないし、文字通り単純に面倒を避けてきただけの哲ともまた違う。
 まったく違う世界に生きている、と言えばいいか。組織として管理されている分、やくざはある意味会社員のようなものだ。価値観や規範は違えど、上に従うことができる集団だということに変わりはない。しかし、戸籍も所属する組織も持たない秋野の恐れるものの中に、暴力団は含まれない。
「そりゃあよかった。手指でないなら耳でもどこでも。ああ、鼻は見栄えが悪くなるからできれば遠慮してほしいですけどね」
「あんた、真顔で言うんじゃないよ、そういうことを。坊主が泣いちまうぞ」
 秋野が振り返って哲を見た。やっぱり、想像どおりいつもと何一つ変わらない。濃く長い睫毛の下の薄い色の虹彩が照明に透けてガラスに見えた。
「……俺の耳を勝手に差し出すんじゃねえ」
「まあ、そうだな。じゃあ俺のにするか?」
 笑った秋野はナカジマに向き直って首を僅かに傾けた。
「俺のなら耳でも──目は片方だけなら。指の一本くらいならこの場でどうぞお好きに」
 何の虚勢も、怯えも、冗談も感じさせない口調だった。遠山が怯んだ顔で身じろぎする。ナカジマは何も言わずに秋野の顔を見つめていた。
「……遠慮しとくよ、呪われそうだ」
 ナカジマが秋野の身体の向こうから哲を一瞥して溜息と煙を一緒に吐き出した。
「本人がいいって言ってるのにですか?」
「本気だよなあ──あんた。いや、分かるよ。疑ってねえ」
「じゃあ」
「兄さんじゃねえ、坊主が俺を呪い殺しそうな目で睨んでんだよ。おじさんは繊細だからさ、嫌われたくねえんだって。行くぞ遠山」
「中嶋さん──」
「うるせえ、ガタガタ言うな。今時暴力団でもねえんだろ? ハンコついた請求書は出せねえけど、口座番号でどうだ兄さん」
「中嶋さんの面子と俺の指の値段はいくらですかね」
「さてねえ。電卓パチパチすんのは俺じゃねえのよ、遠山くんがご担当だ。今はちょっぴりビビッてるからな、落ち着いてお会計出したら連絡するわ。またな坊主」
 ナカジマが哲に手を上げて踵を返す。遠山も小さく溜息を吐くと秋野に会釈し、ナカジマの後を追って出て行った。

 

「足りない分は貸してやる」
 ナカジマと遠山の姿が消えて数十秒、哲に背を向け立っていた秋野はゆっくり振り返った。
「俺が払うのかよ──誰がおっさんと話つけてくれっつったよ」
「さあ? 別に頼まれてないが、それが問題か」
「別にいいけど」
「いいけど、じゃない。一体何でそんなことになった」
 哲の右手に目を向け、秋野は僅かに眉を寄せた。右手の血はまだ滲み続けているものの、ほとんど止まりかけている。乾き始めた部分がごわついて気持ちが悪い。
「滑って床に手ぇついただけだ」
 ガラスが散乱した床を顎で指す。秋野は汚れた床を一瞥して、哲の顔に目を戻した。実際にはその上向井を右手で殴りつけたから酷くなったのだが、傷ができた理由に嘘はない。
「何だっていいじゃねえか。いちいち腹立てんのやめろ、俺の手だ」
 秋野がその場から動かないから、哲はそのまま後ずさった。明らかに腹を立てている仕入屋に背中を見せる気にならないのは当然だ。向きを変え、とりあえずは安全と思しきカウンターの中に戻った。
 汚れた床を掃除しなければならないし、いつの間にか消えてしまったフロア係の代わりにレジも閉めなければならない。確か、奥の事務所に掃除用具入れがあった気がする。その前に、越智にも連絡しなければ。
「もう帰れよ、用事ねえだろ」
 スマホを取り出そうと、一瞬目を離しただけだ。
 それなのに、気が付いたら秋野はカウンターを飛び越えて、哲を壁に叩きつけていた。
 額が壁にぶつかって、視界がぶれる。本能的に背中に押し付けられた身体から逃れようと身を捩ったが、叶わなかった。
 秋野の左手が哲の左腕を捩じり上げる。右腕は自分の身体と壁に挟まれ、体重をかけられているせいで動かせなかった。背中に何か硬いものが当てられているが、何なのかは分からない。秋野は哲の耳元で、低く甘ったるい声で囁いた。
「尖ったものを出しっぱなしにしてやくざと喧嘩をするんじゃない」
 そう言われて、背中の何かはさっき仕舞いかけて放置したままのアイスピックだと腑に落ちた。
「重てえ、退け!」
「急所はここらへんかな? 暫くご無沙汰だから多少ずれてるかもしれんな」
 秋野はアイスピックの先で、服の上から肩甲骨の下をゆっくりなぞった。
 肌に当たるのは何枚もの布地を通した微かな感触で、先端の鋭さはあまり感じない。それなのにはっきりと感じる恐怖に背骨が軋む。耳朶に感じる秋野の低い囁きに、殆ど涙ぐみそうになった。
「ここを刺されたら、何があったか気づきもしないうちに死ねると思うぞ」
「てめえな……!」
 耳元で恐ろしいことをさらりと言って、秋野はアイスピックを持ったまま無造作に哲の顔を掴み、無理矢理自分の方に捻じ曲げた。恐ろしさに身が竦み、自分と秋野に猛烈に腹が立って歯軋りする。
 間近にある薄茶の目は、大した変化も見せていないように見える。だが、その実、酷く冷たい怒りが底のほうで燻って、虹彩に散る金茶の斑点が砕けた氷のかけらに見えた。
 顎から秋野の手が離れ、背中に再度、冷たい金属の感触を感じて身を捩る。
「勿論お前を刺したりしないが、そうしてもいいと一瞬思ったのは確かだ。おかしいよな? お前の手が傷ついて腹が立つっていうのに、お前を刺したいっていうのは」
「くそったれ……」
 絞り出した悪態は正直迫力に欠けていて、秋野は当然哲に構わずアイスピックにかける力を強くした。
「今度は手に傷がついたら反対の手で殴るか、蹴飛ばすんだな」
 切れた手でぶん殴ったことはばれていたらしい。
「俺の勝手だろうが! てめえが──」
「うるさい、黙れ。腹を立てるな、なんて無駄なことを言うな。余計に腹が立つ」
 言うなり、秋野は哲の顔の真横の壁にアイスピックを勢いよく突き立てた。
 どん、と表現するしかない、重く、低く籠った音。視界に突如現れた、ぼやけた銀色の何か。焦点が合わないくらい顔に近いところにアイスピックが突き立っている。
 さすがに一瞬心臓が止まった気がした。
 秋野はさっさと哲から離れ、それ以上何も言わずに歩き去った。ドアを閉める音が微かに聞こえる。秋野の気配が完全に消える瞬間まで、哲はその場から動けなかった。
「く──そったれ」
 もう一度、既に姿を消した男に向かって呟き、アイスピックに手をかけた。
「……あの……馬鹿力っ……!」
 深々と壁に埋まったそれを抜き取るまで、哲はその場で独り奮闘した。