零度の情熱 9

 店のドアが些かわざとらしく乱暴に開き、男が二人入ってきた。哲は二人の顔を見た途端「ああ……」と面倒くさそうな声を出してしまったが、幸い借金取りは、哲のうんざり顔には気づかなかった。
「お疲れ様っす!」
 いまだ床に伸びたままの相棒──本当にそうかどうかは知らない──を放り出し、男は二人組のところに飛んで行く。
「お前が言ってたのはあいつか?」
「はい、あのバーテンダーのほうです! あいつが向井をボコりやがって!」
 男は電話を切ってから、オヤジが来るからな、お前終わりだぞ、とかなんとか言いだした。
 脅されなくても上との電話だということは分かったし、たまたま近くにいたからなのか暇なのか、そいつがすぐにやってくるのだということは分かっていた。
 だからさっさと帰れと言ったのに──哲は隣で真っ青になっている越智に目を向けた。現れたスーツ姿の二人組はどこからどう見てもやくざだった。
「お前は向井を車に積め。そんで帰れ」
「はぁ、でもそうすっと、オヤジとアニキの帰りの足は」
「馬鹿野郎、誰がオヤジの車に積めって言った。島村も呼んであるからそっち乗せろ」
「あ、はいっ」
 男がまた飛んで戻り、哲の足元の向井を起こそうとして断念し、引きずって連れていく。動揺して「手伝いましょうか?」なんて言った越智を睨みつけ、男は相棒を引きずりながらその場から消えた。
「てめえら、うちのもんに随分ひでえことしてくれたんだってなあ?」
 誰もいない店に響いた年嵩の方の台詞はやたらと芝居がかっていた。
「なあ越智、さっさと帰れ」
「でも──」
「何ごそごそやってやがる、ああ? そっちも共犯か!?」
「いえ、違います」
「ささ──」
「ただのお客さんなんで、帰していいっすか」
「関係ねえならさっさと消えな、邪魔くせえんだよ!」
 やくざが煙草を取り出して銜える。哲は越智の二の腕を掴んで引っ張り、前に押し出した。
「佐崎、でも俺、俺のせいで……俺が小夜子さんにいいとこ見せたいって、そんなことで」
「分かってる」
「でも俺、何か」
「いたって役に立たねえんだって!」
 怒鳴りつけると越智はびくりと肩を揺らした。
「だから行けって」
「いつまで待たせんだてめえら! ぐだぐだしてっとまとめてぶちのめすぞコラぁ!」
 馬鹿でかい怒声に越智が竦み上がり、泣きそうな顔を見せ、それでもやっと駆け出した。
 二人のやくざの間を怯えた様子で走り抜け、ドアに体当たりする勢いで押し開く。海外ドラマでFBIが突入するシーンみたいだな、と半ば上の空で思いながら、哲は傷ついた右手を動かしてみた。
 暫く誰もが無言になった。哲が血で腕に張り付いたシャツを剥がしている間にやくざの吐き出した煙が天井までたどり着き、霞んで消える。
「──それにしても中嶋さん、声がでかいですねえ」
「いやあ、さっき食いすぎたからなあ、腹ごなししようかと思ってな」
 近くのテーブル席から取ってきた灰皿を差し出しながら遠山が言い、ナカジマが相変わらずのキツネ面を綻ばせた。
「久し振り……ってほどでもねえなあ? 坊主」

 

「おっさんなあ」
 楽しそうな声に、哲は思わず渋面を作ってしまった。
「何だよ、あのヘタクソな演技」
「失礼なこと言いなさんな、俺はバリバリの武闘派ってヤツだよ」
 ナカジマはうひゃひゃ、と武闘派にはあるまじき変な声を出して笑った。
 実際のところナカジマは今風のやくざではないが、かと言って任侠映画に出てくる武闘派なんてものでもない。そんなやり方でやっていける時代ではなくなって、だからこそ大卒の遠山がのし上がれる。
 日本の法律を一顧だにしない海外勢や見た目はまともないわゆる半グレに比べたら、伝統的なやくざたちの不自由さは比べ物にならないらしい。だからといって彼らが品行方正なわけでも無害なわけでもないから、同情の余地はないのだが。
 ついこの間ナカジマの部下二人に蹴り方と殴り方を教えたが、どちらも筋骨隆々の見た目を裏切る弱さだった。こんな時代だから、喧嘩慣れしたやくざのほうが希少なのかもしれない。
「まあ、俺が武闘派だろうが違おうがどうでもいいわな。坊主がうちの向井をボコったって?」
「あー、悪ぃ……マジで知らなかった」
 哲が言うと、ナカジマは遠山に灰皿を渡しながら小さく笑った。
「そりゃそうだろうなあ。つーか、バイト先変えたのかい」
「いや、知り合いに頼まれてヘルプ」
「ふうん。で、向井と笹原はなんでここに?」
 もう片方の名前は笹原というらしい。先日から顔を見ているわりにやっと名前が分かったが、だからと言って別に何もいいことはない。
 遠山が灰皿をテーブルに置き、スマホを取り出し耳に当てる。どうやら部下か誰かから着信があったらしい。何だ、とか偉そうに言いながらドアを開けて出て行った。
 ナカジマは一応そちらに目を向けはしたが、すぐに哲に目を戻した。今日のワイシャツは珍しく白だが、ネクタイがド派手な赤だ。赤いネクタイは定番だと思うが、それにしたって彩度がすごいし、訳の分からない黄色い模様のせいで目が痛い。
「よく知らねえ。ここのバーテンダー、今休んでんだけど、そいつに金貸してるらしいぜ」
「どっちが?」
「向井って方。そんで取り立てにあちこち行ってみたけどいねえから腹立てて八つ当たりっつーとこかな」
「まったく、血の気が多くていけねえ、若いもんは」
「おっさんも武闘派じゃなかったのかよ」
「あっ、そうだった」
「わざとらしいな。つーかおっさんとこってそんな大所帯だったか? 俺あの二人まったく見覚えねえんだけど」
 哲は不本意ながらナカジマの事務所に行ったことが何度かある。この間はカンフーがどうとか言われて連れていかれたが、どちらのときもあの二人を見た記憶がない。勿論すべての組員と顔を合わせたわけではないし、基本的に興味もないから覚えていないだけなのかもしれない。
 記憶が定かではないが、ナカジマは北原組の幹部だとかいう話だった。ナカジマ自身は組持ちではなかったような気がするが、それも何年も前に聞いた話だ。オヤジとかなんとか言われていたということは、色々と組織図に変化があったのかもしれない。知りたくもないから、真偽のほどはどうでもいいが。
「ああ、あいつらはなあ、俺の伯父貴んとこが畳んだんで、引き取った奴らで」
「ふうん……どこも不景気だな」
「まあな」
 ナカジマは珍しく困ったように眉尻を下げ、どうすっかなあ、と頭を掻いた。
「悪気がねえのは分かってんだけどな──」
「うちのが、何かご迷惑おかけしましたか」
 ドアが開き、遠山が戻ってきたかと思って目を向けた瞬間、越智と一緒に逃げ出さなかったことを──そんな気はなかったにも関わらず──心の底から後悔した。
 微かに笑みを浮かべた端正な顔。少なくとも哲には隠すつもりがないらしく、はっきり透けて見える怒りに首筋の毛が一気に逆立つ。
 店の照明のせいで普段より黄色く見える薄茶の目はナカジマでもなく哲の顔でもなく、哲の血塗れの右手に据えられて動かなかった。