零度の情熱 11

 哲が床の掃除を終えた頃、フロア係が恐る恐る戻ってきた。洗って放置していた傷からまた血が出てきて舌打ちしていたところだったので、掃除を任せ、救急箱の場所を聞いて事務所に向かった。
 絆創膏は普通サイズのものしかなく傷がはみ出したが仕方がない。とりあえず二、三枚適当に貼って済ませ、フロア係と一緒に店を片付けた。
 何があったのかとか、あの後どうなったとか訊かれることもなく、掃除を終えて店を出た。なんとなくスマホを取り出したら越智からの着信が何度もあって、そういえば秋野のせいで越智への連絡をすっかり忘れていたことを思い出した。
「佐崎!」
 ほとんど間を置かず越智が応答したので、哲はその場で足を止めて煙草を取り出した。人通りはないし、あったとしても煙草を咎めるようなやつはこんなところを歩いていない。
「よう、真っ直ぐ帰ったか」
「って、んなことどうでもいいだろ、お前大丈夫なのかよ」
「何ともねえよ」
「怪我は?」
「救急箱から絆創膏もらった」
 越智は小さく息を吐き、それから数秒、躊躇うような間があった。
「佐崎……あの人たちさ……あれ」
「別に何事もなく帰ったって」
「嘘だろ、だってあれ、やくざだろ!」
「そうだと思うけど、ほんとに何もなかったんだって」
「そんなわけないだろ、あいつらあんなに殴って」
「本当だって。もしマジでなんかあったらこんな呑気にお前に電話とかしてると思うか?」
 実際のところナカジマは何をしたということもない。ただ喋って帰っただけだ。
 だが、何から何まで説明する気はなかったし、したところで越智が気に病むことには変わりない。
「店のことは兄貴に言っといてくんねえ? 弁償とかは後で」
「何で佐崎が弁償すんだよ。兄貴には言っとくけど」
「じゃあよろしくな。金額分かったら教えてくれ。おやすみ」
「ちょ、さ」
 通話を切って、少し考えて電源も落とす。何も映っていない液晶画面を見るともなしに見ながら煙草を吸いきって、哲はその場を後にした。

 

「風呂貸してくれ。あと、その前にもっとましな絆創膏かなんかねえ? シャンプー沁みる」
 蹴飛ばす前にドアが開いたのは気にくわないが、必要以上に怒らせてもいいことはない。不機嫌そうには見えないものの明らかに不機嫌な秋野の横をすり抜け、哲は秋野の暮らす建物の中二階に足を踏み入れた。
 ベッドは乱れてはいなかったが、部屋の主は寝ようとしていたところらしく、マットレスに横たわった形跡があった。時間からして当然だ。秋野は哲の手を一瞥し、何も言わずにフロアの端へ歩いていった。
 中二階には前の持ち主が事務所にしようとしていた部屋がある。今はほとんどウォークインクローゼットというか納戸というか、要するに物置と化しているが。
 秋野はその部屋に入って行って、すぐに出てきた。手にしている箱は救急箱のようなものだろう。哲の隣に腰を下ろした秋野が箱を開けたら、予想通りというかなんというか、一般のご家庭に置いてある市販薬は入っていなかった。どれも処方薬で、なんだか知らないが個包装された注射器まで入っている。
 秋野が箱から取り出した創傷ドレッシングなんたらとか書いてあるものは、要するにでかい絆創膏だった。
「洗ってあるか?」
 訊ねながら勝手に哲の手を取った秋野は、遠慮も気遣いもまったく見せずに乱暴に傷を広げた。
「痛っ! 洗った、洗ったって、痛えっつの!」
「うるさい。ガラス片でも入ってたらまずいだろう。明日輪島さんのところに行けよ」
 自分でやるというのに、まるで子供にするように絆創膏を貼られたのも腹が立つ。哲は礼の代わりに秋野の足を蹴っ飛ばして立ち上がり、浴室へ向かった。

 

 下着だけ穿いて脱衣所で髪を拭いていたらドアが開き、グラスを持った秋野が入ってきた。
 ウィスキーか何かのロック。氷はアイスピックで削ったものではなくて、ごく当たり前のロックアイスだった。
 グラスを持ち上げた秋野が酒を口に運ぶ。グラスの中で崩れた氷が微かな音を立て、換気扇の音だけが響く脱衣所の中で必要以上に大きく聞こえた。
「何で来たんだ」
「ああ?」
 髪から垂れた水滴が目に入る。バスタオルで前髪を拭い、哲は右掌を秋野に向けて見せた。
「だから、これと風呂」
「それは聞いた」
「……分かんねえよ」
 こんな立派なものはないが、哲の部屋にも絆創膏くらいは買い置きがある。狭いし古い浴室ではあるが、ちゃんとお湯の出るシャワーも。
 どうしてわざわざ来たかなんて、考えてもいない。考えたってどうせ分からないのだから、無駄なことだ。
「てめえの不機嫌ヅラ見たって楽しくねえし、アイスピック振り回して追いかけてこられても面倒くせえし」
「追いかけてない」
「いちいちうるせえ」
 何も考えず歩いてきたらここに着いただけのことだ。それなら、それが正しいのだろうと思っただけだった。
「……指輪は」
 グラスを持つ長い指に目をやりながら、また垂れた水滴を拭う。
「越智にやった」
「使うのか、彼は」
「さあな。もし自分だったら、って考えるとよ」
 哲が言うと、秋野は片眉を引き上げたが口は開かなかった。
「好きな女にやるか、金に換えるか、二択じゃねえかなって思ったんだよな」
「──ああ」
 そうだな、と小さく呟いて、秋野はグラスを軽く揺らした。
「けど、なんつーか、あいつはそうじゃなくて、邪魔な奴を他力本願で排除しようとして、それは多分俺が指輪なんかやったからだ」
「お前のせいじゃないだろう」
「そりゃそうだ、俺のせいじゃねえ。別に気に病んでもねえし。ただ……越智のは所謂情熱ってやつなんだと思うけど。そういうのってなんつーか、熱いイメージじゃねえ?」
「まあ、情熱っていうくらいだからな」
「だろ? けどなんつーか、あれは」
 剥き出しの腕に髪から水滴が垂れた。きれいに拭き取ったと思ってもどこからか水分は集まって毛先に溜まり、冷たい雫となって落ちてくる。

 身体の下でぐしゃぐしゃによれたバスタオル。腹の上にぶちまけられた氷。秋野が氷を噛み砕く音。
 冷たいものは熱くも感じる。皮膚の上で溶けていく氷ごと哲の輪郭を辿る秋野の指と舌が鳩尾から臍、更に下へと移動する。冷たさと生温さに一気に絡みつかれて背が反った。硬い感触は秋野が奥歯で砕いた氷のかけらだ。
「や──めろっつの!」
 快感よりも苛立ちが勝って秋野の頭を無理矢理押しやる。感覚を弄ばれるのは癇に障った。
「冷てえだろうが!」
 氷よりずっと冷たい目に覗き込まれて身が竦んだ。いつもと同じ色のはずなのに、凍ってひび割れた湖みたいな色の目は、まるで初めて見るもののように美しかった。
 秋野の右手が動いたのは、目の端に見えていた。突然氷を口の中に突っ込まれ、それから口を塞がれ驚き思わず秋野の腕を掴んで握り締めた。
 沁み込んでくるのは溶けた氷か、秋野なのか、分からない。
 欲しい、欲しい、欲しい。
 理由も、手段も、どうでもいい。
 凍りそうな、切りつけてくるような、硬く鋭く冷たい何かが身の内に入り込み、容赦なく何かを抉り取る。
 もう何も残っていないのに、と毎回思う。差し出せるものはすべて差し出し、骨までしゃぶられていると思うのに、それでも必ず何かを持っていかれる。僅かに残った肉をこそげ落とすように削られて、何かを失った場所が熱を持つ。
 揺さぶられるままの自分の身体に腹が立ち、腹筋で上体を持ち上げた。秋野の首にしがみつき、首筋に手加減なしで齧りつく。
 腰を抱え直されて奥を突かれ、食いしばった顎が緩んで口が開く。頭を過った悪態は塞がれた口の中で音にならずに消え、何を言おうとしたかも分からなくなった。
 押し潰され長い腕に抱えられ、言葉も吐けず、失くしたものの代わりをいっぱいに詰め込まれる苛立ちと喜びに我を忘れる。
 欲しい。
 手段なんかどうでもいい。
 それが殴り合いでもセックスでも両方でも、熱くても冷たくても何でも別に構わない。
 腹の上で溶けた氷が流れ、滴る体液と交じり合う。無意識に噛みついた秋野の舌が傷つき僅かに血が流れ、しかしそれもあっという間に唾液に紛れた。
 氷も水滴も汗も哲も、あの時の指輪のように秋野と同じ温度になる。まるで最初から秋野の一部だったかのように、すべてが床の上に溶けて流れて混じり合い、ひとつになった。

 

 越智の兄の店には、その後顔を出す機会はなかった。
 備品を壊したのは哲ではないが、関与しなかったとは言えない。一応謝罪くらいはしたほうがいいのではないかと思ったが、越智が兄貴には説明したからと連絡を寄越した。行かなくていいというのにわざわざ頭を下げに行くほどの話でもないと思ったし、哲が行ったところで何の足しにもならないのは間違いなかった。
 中山の借金がどうなったのか、小夜子と中山、そして小夜子と越智がどうなったのか、どうにもならなかったのかは詳しくは知らない。
 それとなく野村に聞いてみたら、越智の兄貴は離婚も別居もしていないということだった。その事実の向こう側にどんな事実が隠れていても、それは哲が立ち入ることではなかった。
 ただ、あの日見た越智の、暗く、それでいて熱っぽくぎらつく瞳は何となく心に残った。
 少なくともあの瞬間、越智は、中山をやくざに売ってでも小夜子を手に入れようとしていたのだ。掌の中に握った金属の輪。自分の中で見つけた何かにしがみつき、歯を食いしばって欲しいものを手に入れようと足掻いていた。
 熱いのか冷たいのか計れない、量れない情熱。
 プラスでもマイナスでもないなら零度なのか。どちらに針が振り切れれば、手に負えない欲は腹の底でのたうち回るのを止めるのか。
 それとも、そんな日は結局来ないのか。
 いつか越智がその答えを手に入れたら、その時は訊ねてみたかった。