零度の情熱 8

「佐崎……うわ、血出てる!」
 立ち上がった越智は哲が上に向けた掌と血がべったりついた床を見て声を上げた。
 哲の掌には割れたグラスのかけらがいくつも食い込んでいた。下手に払うと埋まりそうだったから振ってみたらそこらに細かい血飛沫が飛び、越智が何とも言えない声を出す。
「や、振るのはやめたほうがいいと思う!」
「ああ? そうか?」
 細かいガラス片が刺さっただけにしてはやたらと血が出る。手を止め、掌を眺めてみると、一箇所、長くすっぱりと切れている部分があった。大きな破片で切ってしまったらしい。そこから滲み出る血が流れて手首に滴り、シャツの袖口に染み込んでいく。
「……」
「ああ、悪ぃなあ、手が滑った」
 向井はにやにや笑いながら床に落ちた哲の血を靴底で踏みにじった。
「でもよぉ、お前が勝手にガラスの上に転んだんだからな?」
「おい、行くぞ向井。早く中山探さねえと」
「そうだけどよ、こいつ……」
「お前さっさと金取り戻さねえと、兄貴から預かった金だろ」
「分かってるって!」
「まったく、絶対倍にするとか、素人に言われて引っかかるかあ? 普通」
「だから分かってるっつってんだろ!」
 怒鳴った向井はカウンタースツールを引き出し、振りかぶって隣のスツールに叩きつけた。安っぽいスツールはなぜか空のドラム缶みたいな音を立てて床を転がった。
 八つ当たり以外の何物でもない。向井はまるで子供が癇癪を起したように、残りのスツールもカウンターから引き出し、次々に倒し、床に転がしては蹴り飛ばした。
「退け、邪魔なんだよ!」
 向井がスツールを振り回しながら吼える。もう一人は呆れたような顔はしているが、止めに入ろうとはしなかった。哲が身じろぎもしなかったのが気に障ったのか、スツールを投げ捨てた向井がこちらに一歩踏み出した。
「やめてください! 中山くんなら俺が連絡取りますから!」
 越智が哲の後ろから声を張り上げた。
「おい、越智──」
「俺が何とかして連れてきます、だから……」
「何? てめえ、中山のこと知ってんのか!」
 震える声。蒼白な顔。見開かれた大きな瞳。
 ほとんど硬直したように突っ立つ越智の目はやけにぎらついているように見えた。
 ポケットに突っ込んだ拳を握りしめているのが服の上からでも分かる。掌の中にあるのは、多分さっき哲が渡した指輪だ。そんなに力を込めたら傷ついてしまうのではないかと思うほどきつく、まるで縋りついているように。
 俺を助けるために勇気を振り絞ってくれた、そう思えるほど純真ではない自分が少しだけ嫌になった。同時に、指輪を渡したことをこれも少しだけ後悔した。選択は自分自身のもので、他の誰かが責任を負うものではないにせよ。
 きれいな指輪を握り締めて欲しい女のもとへ向かうか、それともリサイクルショップへ駆け込むか。選択肢なんてそのくらいだと思っていたのに、そういう方向に向かうこともあるのだなと今更ながら思い至る。
 哲の価値観と越智のそれは違う。そんなことは重々承知で、それでも他人が何を欲しがるか、どうやって手に入れようとするのかなんて想像も理解も超えていた。自分に分かるのは自分のことだけ、それだけだ。
「越智、やめとけ」
「え」
「帰れ」
「でも」
「てめえ、口挟んでんじゃねえ! 中山に連絡しろ、お前──」
「……ったく、借り物だっつーのに」
「ああ!?」
 越智と向井の間に割り込んで、血が滲み込んだワイシャツの袖のボタンを外す。濡れた袖口が手首に張り付いて不快だった。
「このシャツは、借り物だっつってんだ」
「シャツだぁ?」
「袖捲ったら腕にもついちまうけど、邪魔だしな」
「何わけわかんねえこと言ってやがる! 邪魔なのはてめえなんだよ、退けっつってんだろうがこの野郎!」
「てめえが退け」
 伸ばされた手を左手で振り払う。勢いがあったせいでよろめいた向井に素早く身体を寄せ、哲は向井の首を両手で掴んで引き寄せた。
「な……」
 思い切り頭突きを食らわせたら、向井は面白いくらいに仰け反った。
 喧嘩慣れしているように見えるが意外とそうでもないらしい。若干の失意を覚えつつ、喉を前腕で押しながら胸を蹴飛ばす。ひっくり返った身体の上に飛び乗って跨り、左頬に拳を叩き込んだ。
「──!」
 声にならない声を上げた向井が足をばたつかせた。シャツの襟元を掴み上げて殴りつけると、哲の掌の傷から血が飛び散る。
 肩を思い切り後ろに引いたら肩甲骨が開く。背中と肩と腕は繋がっている、と実感する。振り下ろす腕の勢い、拳の重さ。頬骨に拳が当たり、衝撃と振動が今度は逆に肩まで駆け上がった。
 切れた掌が痛んだが気にならなかった。向井が振り回した手が右手の傷にもろに当たってまた血が飛ぶ。その掌で思い切り向井の頬を張ったら向井の顔が血だらけになった。
「おい、楽しいよなあ、殴ったり蹴ったりすんのはよ!」
「やめ、」
 逃げようとする顔を右手で掴んで締め上げる。滴った血が向井の口元に落ち、いつの間にか向井の鼻から垂れていた鼻血と交じった。
「楽しくねえか? ああ!? 楽しいだろうが、椅子じゃ相手になんねえだろ、ほら寝てんな立ってもっぺんかかってこいコラ!」
 胸倉を掴み上げ、顔を近づけて言ってやったが向井の足は踏ん張れずに床を滑った。砕けたガラスの欠片が暴れる向井の靴底で砂浜みたいな音を立てる。哲は向井の首に片腕を回し、片腕を脇に入れて引っ張り上げた。
「向井! おい、やめろお前──!」
 勢いをつけて立たせた向井を腰に乗せるようにして跳ね上げて、背中から床に叩きつけた。
「ぐ──っ」
 屈み込み、くぐもった声を上げる向井の胸倉を掴み上げる。出口に辿り着いていた男が駆け戻ってきたが、哲と倒れた向井の一歩手前で立ち止まった。
「くそ、ここはウチが面倒見てねえってのに!」
「ウチ?」
 哲が振りかぶっていた腕を止めて顔を向けると、男は顔を引きつらせた。
「……ウチって、あんたどこの人」
「関係ねえだろ──いいからそいつ離せよ」
「関係あるし、殴り足りねえ」
「何だよお前、もう──ああ、くそ、やべえ!」
 男はポケットからスマホを出して表示を見るなり真っ青になった。向井が呻きながら身体を起こそうとして暴れる。哲は立ち上がって向井の肩を蹴っ飛ばした。今度こそひっくり返った向井は身体を丸めて呻いている。
 スマホを耳に当てたまま直立した男は、まるでどこかの会社員のように直立して、誰もいない空間に頭を下げた。
「はい! はい、お疲れ様っす……あ、いや、今向井がカネの取り立てに……俺は、はい、そんでその店の野郎が向井を」
「なんか忙しそうだから勝手にやっとくわ。越智、お前は帰れ」
「やめろってだから、あ──! いえ、違います、そうじゃ……おい!!」
 哲がインサイドで顎を蹴っ飛ばしたら、向井は白目を剥いて昏倒した。
 男は電話に何度も頷き、床に伸びた向井とその横に立つ哲を交互に見て、最後にがっくりと肩を落とした。