零度の情熱 7

「よう、お疲れ」
 越智が店に入ってきて、真っ直ぐカウンターに近寄ってきた。
 越智の兄の店のバイトも今日が最後だ。越智は初日に会って以来顔を見せなかったが、昨晩のうちに明日は行くと連絡を寄越していた。
 結局カクテルは四度作っただけ、借金取りかもしれない男はあれきりで、少なくとも哲がいる間には現れてはいなかった。
「今日も閑古鳥?」
 スツールを引き出して腰を下ろした越智は土曜の夜だというのにスーツ姿で、少し疲れて見えた。
「ああ。休日出勤か?」
「え? ああ、うん」
 言いながら自分を見下ろした越智は首からぶら下がったままだったIDカードにようやく気付いたらしく、溜息を吐きながらストラップを外し、カードをバッグに突っ込んだ。
「この間さ、結局小夜子さんと行ったんだ、佐崎が教えてくれたとこ」
「輪島さんとこ?」
「うん。居酒屋なのな。すげえびっくりした」
 処置自体は痛み止めをもらっただけだったが、誰かに診てもらったというだけで彼女も安心して帰った、ということだった。
「小夜子さんがお礼言っといてって」
「別に俺が何かしたわけじゃねえ」
「俺……小夜子さんのことが好きだけど」
 ほとんど聞き取れないくらいの声で言って、越智はテーブル席を拭いている男に目を向けた。今日は小山が休みで、哲の知らない男が出てきていた。名前は名乗らなかったから分からない。
 男がこちらにまったく注意を向けていないので安心したのか、越智は少しだけ声を大きくした。
「でも、兄貴の奥さんだし」
「そうだな」
「──浮気してるけど」
「そうだな。何か飲むか」
 首を振った越智は、やっぱりビール、と言って財布を取り出した。
「兄貴の店だろ」
「そういうとこうるさいんだよ、兄ちゃん」
「だから揉めてんのか?」
「それは……いや、違うんじゃねえのかな。知らねえ」
 グラスに注いだビールに細かい泡が立つ。哲はビールの泡にこだわりも愛着もないが、こうしてグラス越しに眺めるそれは確かに美味そうに見える。
「やる」
 哲がお仕着せのベストのポケットから引っ張り出したものをカウンターに置くと、越智はぽかんと口を開けて哲を見て、カウンターに目を戻し、また哲に顔を向けた。
「何か壊れたロボットみてえな動きになってるぞ、お前」
「いや……え?」
「この間のあの不動産屋、あそこがくれたって」
「不動産屋……俺がロック解除したとこ?」
「ああ。なんかよく知らねえけど、これの偽物を金庫に戻したんだと。こっちは本物」
「……」
「──を、ちょっといじったやつ」
 プラチナの細いリングにエメラルド、細かいダイヤに囲まれた古めかしいデザインはもう変わっていた。
 ダイヤは一つも残っておらず、プラチナの台も取り外してある。二十四金の太いリングに槌で叩いたような仕上げ。槌目模様というらしい。そのリングにエメラルドが半分埋まるようにして嵌められていた。
「いじったって──」
「いや、俺じゃねえから。頼んだ……つーか、それも俺じゃねえけど」
「そんなこと言ったって」
「俺もいらねえし。お前使えば」
 越智の大きな目が更に大きく見開かれて、くるくるの髪の毛と相まって、まるで子供のようだった。
「でも俺、全然」
「相手にされてねえ? そうだろうな」
 夫といい、中山といい、小夜子の男の趣味はどうしようもない男なのだろう。二人をよく知らない哲が断じていいことでもないが、当たらずと言えども遠からずなのだと思う。小山が一番いいと評する越智は多分普通の善良な男で、だからこそ小夜子が越智に靡くことはきっとない。そんなことは哲でも分かるし、勿論越智自身が一番よく分かっているはずだった。
「ひでえな、佐崎……」
「嘘言ったって仕方ねえ」
 氷でも割るかと思いながら抽斗からアイスピックを取り出した。この間秋野のところで見たような、あんなものを削るのではない。板氷を割るだけだ。哲の手元を見た越智が、指輪とアイスピックを交互に見て眉尻を更に下げる。
「ってさ──こんなの持たせて突き落とすって……ライオンの母ちゃんかよ……」
「落っこっちまえよ。中途半端が一番辛え」
「……」
「諦めるんでも、諦めらんねえってなるんでも──」
 最後まで言う前に、店のドアが乱暴に開いた。客は隅のテーブルにいた男と女だけだったが、入ってきた男の態度に二人して身体をこちらに向けた。
 男は店内の人間を威嚇するようにテーブル席の椅子を蹴っ飛ばした。三十代の半ばくらい、スポーツをしていたような厚みのある身体に、いかにも品がありませんという感じの顔が乗っていた。顔のつくりがどうこうではなく、表情の問題だ。顔の造作自体は至って普通。デニムにシャツのありふれた格好なのに、柄の悪さが隠しようもなく滲み出ていた。
 男が大股でカウンターに歩み寄ってきたので、哲はアイスピックを置き、指輪を越智の方に押しやって、越智が男と哲の間に挟まれないように横にずれた。
「おい、中山は」
「休みです」
「嘘つくんじゃねえ」
「嘘じゃありませんけど」
「どっかに隠してんじゃねえのか? ああ?」
 男はカウンター越しに手を伸ばして哲の鎖骨のあたりを乱暴に押した。押されるまま一歩下がった哲は首を振った。
「いえ、本当に休みです」
「向井、ここにもいねえのか」
「ああ。マジでこいつが隠してねえならな」
 もう一人男が入ってきて、向井と呼ばれた最初の男に声をかけた。後から来た方は、哲のバイト初日にやってきた奴だった。
「兄ちゃん、この間もいたよな」
「はい。中山さんは今日も休みです。俺はヘルプで」
「どこ行ったか知らねえか」
「さあ。一度しか会ったことないですし」
「あいつになあ、金を貸してんだよ」
「……はあ」
「家にも戻ってねえし、野郎の女の店に行っても最近会ってねえとかでよ」
 小夜子は水商売には見えなかったから、女というのは別の人物だろう。男の背後でテーブル席の客が慌てて立ち上がり、小山の代役に金を押し付けて出て行った。
「そうですか」
「俺らは金貸しってわけじゃねえんだよ。個人的に貸してんのよ、あいつに。向井がだけどな」
 ああ、それでか、と何となく腑に落ちる。多分嘘ではなくて、本当に個人の金の貸し借りなのだ。そうでなければもっと強引になるだろうし、いないと分かっているところに何度も訪ねてきたりしないだろう。
 自宅ならともかく単なる勤務先、しかもこんな場末の店で営業妨害したところで、労力に見合う何かが得られるわけでもない。大体、身を隠す術を知っているわけでもないギャンブル好きの一般人が簡単にやくざやその類から逃げおおせるとも思えなかった。組織力を使って捜索をしないというなら組織にとってはそいつに意味がないということだ。
「申し訳ないですが本当に知らないので」
 哲を押した男が音高く舌打ちし、肩を竦めるようにして縮こまっていた越智に目を向け、越智が腰かけていたスツールを思い切り蹴っ飛ばした。
「わっ」
 越智がバランスを取ろうとして手を伸ばし、肘に当たったビジネスバッグが床に落ちた。男が慌てて腰を浮かせた越智の足を掬い、越智が思い切りひっくり返った。
「やめてください」
 内心溜息を吐きながらカウンターを出て、床の上で茫然としている越智に手を貸して立たせる。哲がビジネスバッグを拾い上げたら、男が哲の手からバッグを蹴落とした。
「っせえな、なんか文句あんのか」
 文句はあるに決まっていたが、わざわざ口に出すこともないから黙ってもう一度バッグを拾った。越智がごめん、と小さな声で謝って手を差し出し、後から来た男が踵を返す。越智がバッグをスツールの上に乗せ、哲がカウンターの向こうに戻りかけたところで、ガラスの割れる音がした。
 越智のビールのグラスが床に落ちていた。最初に入ってきた男がわざとカウンターから落としたのだ。音に驚いた越智がスツールに引っかかって転びかけた。
「──勘弁してくださいよ」
 今度は実際に溜息を吐き、哲は落ちたグラスに屈み込んだ。
 男が突き飛ばしたのは哲ではなくて越智だった。体勢を立て直し切れていなかった越智が前屈みになっていた哲に思い切りぶつかってきた。
 踏ん張ったが堪え切れず、右手を床に突いて支える。掌に硬くざらついた感触、むず痒いような、火傷をした瞬間のような妙に不愉快な感覚が一瞬生まれて、そして消えた。
 越智は哲に背中を預ける体勢からずり下がって結局尻をついたらしい。起き上がろうとした越智の体重を支えた掌に、より一層負荷がかかる。痛みが走り、床が汚ねえ、とどうでもいいことを考えた。