零度の情熱 6

 秋野がまた指輪を持って哲の部屋に現れたのは、居酒屋のバイトが終わってからだった。
「今日はあっちのバイトはないのか?」
「……ここに現れたっつーことは、ねえの知ってんだろうが」
 肯定も否定もせず、秋野は靴を脱いで部屋に上がった。
「鍵をかけろって何遍言わせるんだ、お前は」
 哲の部屋はいつも施錠していないが、勿論秋野のために開けているわけではない。盗まれるようなものも置いていないし、そもそもこのアパートの外観からして、空き巣に入ろうと思わせる要素は皆無だからだ。実際ここに住んでいる数年間で、どこの部屋であれ何かを盗まれたという話は聞いたことがない。
「誰も勝手に入って来ねえって何遍言わせんだよ。てめえ以外不法侵入する奴はいねえ」
「川端さんも勝手に入ってきたことがあったろ」
「おっさんは数に入らねえよ」
「何で」
「俺がいようがいまいが勝手に開けられんだぜ、合鍵あんだから」
 川端は家主ではないが仲介業者だから、当然全室のスペアキーを持っている。
「ああ──」
 秋野は一瞬遠くを見るような眼をして微かに笑った。
「何だよ?」
「いや、何でもない。思い出し笑いだ」
「気持ち悪ぃな、一人で笑ってんじゃねえよ」
 間近に立った足を蹴っ飛ばしたが、蹴られた方はまるで意に介した様子もなかった。屈んだ秋野の長い指が、この間見たばかりの紺色の箱を哲の前、広げた新聞の上に置いた。手に取って蓋を開けてみたら、まさにこの間見せられたエメラルドとダイヤの指輪だった。
「この間のやつか?」
「ああ、あれの本物のほう」
「本物……? ああ、レプリカだっつったっけ」
 そう言われても、やはり哲にはレプリカと目の前にある本物との違いは分からなかった。こういうものが好きな人間なら専門家でなくても分かるのだろうか。
「何でまた」
「礼だとさ」
「これが報酬?」
「いや、支払いは済んでる。要らないんだそうだ」
「要らねえってお前、そんな安もんじゃねえんだよな?」
「持ち主がそう言うんだから要らないんだろう」
 哲は煙草を銜え、箱から取り出した指輪を改めて指の先で摘み、蛍光灯にかざしてみた。安っぽい白色の光の下ではダイヤの煌めきも半減するらしい。この間のレプリカの方が随分ときれいに見えたと思いながら箱に戻して蓋を閉めた。
「ところでバイトはどうだったんだ」
 冷蔵庫から勝手に水のボトルを取り出した秋野が振り返る。吐き出した煙の行方をぼんやり眺めていたから何を言われたか一瞬分からず、哲は何度か瞬きした。
「あ? あー、バーテンダー?」
「輪島さんも気にしてた」
 頷いた秋野はこちらへ戻ってきて、哲の向かいに腰を下ろした。新聞紙の端が秋野の膝に当たり、乾いた落ち葉が触れ合うような音を立てる。
「それに、何かありそうだって言ってたろ。何ともないのか」
 越智の兄の店にはすでに三度行って、あと二回行けば事前に決めた日程は終わりだった。中山の不在が一週間で済むのかそれ以上なのかは聞いていないが、どちらにしても大したヘルプが必要だとも思えなかった。
 客自体が少ないし、オーダーはビールかハイボールが八割で、念のため輪島に習ったカクテルはほぼ出番がない。哲が行った日には毎日小山も出ていたが、小山だけで十分回していけそうだった。
「特に何もねえ。オーダーもビールとか、そうじゃなくても氷ぶっ込んで注ぐだけっつー感じ。そもそも客があんまり来ねえし」
「そうか」
 秋野は哲が払った煙草の穂先に一瞬目をやり、指輪の箱に手を伸ばした。
 実際は、いちいち言うのも面倒だという程度のことはあった。中山の借金の取り立てと思しき奴が来たのだ。
 取り立てを請け負っているだけなのか、やくざなのかは見た目からは判断できなかった。中山はどこだと訊かれたから今日は休みだと言ったらおとなしく帰って行った。取り立てとはそんなものなのか、あの店にしては客が入っていたからなのか、あっさりしていた理由は分からない。
「何もなかったならいい」
 秋野は指輪の箱を掌に載せ、軽く空中に放った。秋野の掌の中に落ちてきた箱。古い箱だから蓋が緩いのか、開いた箱から指輪が飛び出し転がり落ちた。
「……おい、落ちたぞ」
「ああ、落ちたな」
「興味ねえから落としたふりして帰っちまおうかなってツラすんな、少しは誤魔化せ、ろくでもねえな」
 秋野は小さく笑い、安アパートの床の上に転がる指輪に手を伸ばした。
「もっと見つかりにくいところに落とさないとな」
「そういうのが幸せって」
「うん?」
「ああ、いや」
 秋野の長い指。伸ばされたその先が指輪に触れ、向きが変わってダイヤが蛍光灯を反射した。
「そういう、光物つーか、別に光ってなくてもいいけどよ。そういうもんをもらってくっつきゃ幸せって、そうなりゃいいのにな。なんで一番マシな奴を選べねえのか」
 秋野は片眉を引き上げ、僅かに首を傾げた。
「周りは分かってんのに本人だけ分かんねえってのは、どういう皮肉なんだかな」
「お前の友達に関係ある話か?」
「そう」
「これ、やろうか? 友達に」
「要らねえだろ」
「指輪をやりゃいいって話でもない?」
「多分」
「何だ」
「何だじゃねえだろ。そんな邪魔ならどっかの女にやっちまえば」
 口に出した瞬間、秋野の目の色が濃くなった。表情は変わらないところが控えめに言っても恐ろしい。だが多分、一瞬で訪れた変化に気がつくのは哲だけだ。
「おっかねえ顔すんな。そういう意味じゃねえよ──今更」
 煙草を灰皿に押し付けて揉み消す。細く真っすぐに立ち上る煙の先、秋野の瞳の色はもう元に戻っていた。
「例えばほら、向日葵のばあさんとか……あー、あと、エリとか?」
「勝にこんなの渡したらセンスを疑われる」
「アンティークだっつっとけよ」
「そもそもあいつの指に嵌まるかな」
 秋野は指輪を摘んで矯めつ眇めつした後に、俺でもここにしか入らんし、と言って自分の小指に嵌めた。秋野の指は長くて細いが、骨自体は華奢ではない。根元まできっちり嵌まるわけでもなく、中途半端に引っ掛かった状態が何故か哲の笑いを誘った。
「似合わねえな、おい」
「明らかに女物だからな。似合うって言われたら複雑だ」
 秋野は笑い、婚約記者会見の女優みたいに手の甲を哲に向けて見せた。
「勝かな」
「さあな」
「向日葵の彼女か」
「だから知らねえっつーの。俺が知るかよ──誰が誤解しねえ女かなんて」
 秋野の手を掴んで引き寄せ、指輪ごと小指に齧り付いた。
「こら、壊れる」
「この程度で壊れねえ。これ汚ねえかな」
「いや、洗浄してあるけど何──哲」
 舐めてみたら、思っていたのと少し違った。石というのはもっと冷たいものかと思ったが、そうでもない。台座とリング部分の金属はひんやりと感じられたが、石の部分は秋野の体温と区別がつかないくらいだ。もしかしたら、面積が小さすぎて分からないだけかもしれないが。
 そのまま秋野の小指に歯を立てて、爪の先に舌を這わす。残りの指が頬骨のあたりを引っ掻くように撫でたので、顔を傾け全部まとめて舐めながら食ってやった。
 濡れた指がうなじのあたりを撫でている。
 鬱陶しいから手で払ったら、外れた指輪が掌の中に落ちてきた。温まった金属は最前までの冷たさをすっかり失い、石も何もすべてまとめて秋野の温度になっていた。

 

「哲」
「あ──?」
 暫く経って掌をこじ開けられ、指輪を握りしめたままだったのだと気が付いた。なんの意味もないただの物体、握っていたら拳に力を入れるのに都合がよかったというだけだ。
「手に傷がつく」
「うるせえな……」
 そうは言ったが、確かにダイヤと台座の爪が食い込んだ部分が痛かった。
 異物を放り出した掌で秋野の背を抱き寄せて、剥き出しの肩口に手加減なしで噛みついた。奥歯に当たる筋肉の弾力。場所を変えて鎖骨を齧る。鉱物の硬さと骨の硬さにどれだけ違いがあるのか比べてみたかった。
「痛いな」
 囁きが耳朶を掠め、濡れた感触が耳殻をなぞった。耳の中に押し込まれた舌と声に身震いする。そのまま視線をずらしたら、床の上に転がる指輪が目に入った。
「お前こそ、よそ見するんじゃないよ」
「……っ」
 緑と透明の煌めく石。欲しいものはそんなものじゃない。
 哲は唸り声を上げ、顎に一層力を入れて、秋野の肉と骨に歯を埋めた。