零度の情熱 5

 欲しい、欲しい、欲しい。
 人の欲望には限りがない。食欲や睡眠欲は生きていくために必要だが、それだって、美味いものを食いたい、少しでもいい環境で眠りたいと、ただ手に入れれば満足するということもない。例えどんな味でも量さえ食えば腹はくちくなり、必要なだけ眠れば目は覚める。それでも人は、もっと満たされたいと多くを望む。
「俺はね、自分が正しいって思いたかったよ」
 輪島はそう言って、目尻の笑い皺を深くした。
「たくさんオペをして、実績も名声も手にして──そういうことより、今の医療現場に疑問を呈して、家族のためにすべてを投げ打った自分が絶対的に正しいって」
 どこからどう見ても古臭い居酒屋の店内で、どう装ってみてもやっぱり外科医みたいな顔をした男は静かに笑う。
「でも、何が正しいかなんて、本当は分からないよね。俺が欲しかったのは、自分の心の安寧ってやつだと思うんだ。あのまま医者を続けたら奥さんが俺を見捨てるんじゃないか、とか、そういう心配もなかったしね。だから、理由はどうあれ成功した外科医って身分を捨てることが俺にとっては気持ちを楽にする安易で手っ取り早い道で、それが俺の欲しいものだった」
 いくつか教えてもらった定番のカクテルの作り方を頭の中でなぞりながら、哲はぼんやりと頷いた。輪島のことは好きだが、深く知っているわけではない。他人への興味が著しく薄い自分が多少なりとも輪島を気に掛けるとしたら、それは輪島が秋野の一部だからだ。
 輪島が欲しいのが自分自身の安らぎだというのなら、自分が欲しいものは何なのだろうと自問した。
 望んだわけではないけれど、虎みたいな目をしたあの男はもう自分のものだ。手に入れた中身を全部引きずり出して並べてみたい。その欲求を満たして満たされるのは自分の中にある何なのだろう。
「秋野は何が欲しいんだろうね」
 輪島が洗ったグラスの底がカウンターに当たって音を立てた。そういえば前に土足でここに上がったっけな、と思い出す。輪島の店のグラスは、バイト先の居酒屋とそう変わらない安物だった。氷を入れても、澄んだ音は聞こえない。
「……さあ」
「佐崎くんには分かるのかもしれないけど」
「そんなことないですよ。そもそも、分かりたいって思ってもねえし」
 秋野が欲しい何か──誰かが恐らく自分だということは知っている。それは秋野の言動で分かることだが、だからと言って何もかも理解できるわけでない。

 今、目の前に立っている男。
 哲に背を向け、店のドアから飛び出してきた女に駆け寄った越智という男が欲しいものもすぐに分かった。だが、その理由や、どこまで手に入れたいと思うのか──思うだけではなく行動に移す気があるのかないのか──は見ただけでは分からなかった。
「小夜子さん!」
「勇斗くん」
 越智が定食屋で言いかけた義姉の名前が「サヨ」だった。やっぱりそうかと思いながら、三十代半ばと思しき女に目を向ける。
 まるで映画で見るような見事な赤黒い痣が小夜子という女の左目の周囲に浮いていた。長い髪で内出血を隠そうとしているのは分かったが、不自然に俯いているせいで、却って顔に注意が向いてしまう。
「まだお店、開いてないよ……」
「知ってる。友達が中山くんの代わりでバイト入ってくれるって、それで」
「ああ、そうなんだ」
「そうなんだんじゃないだろ……その痣」
 越智はどう言っていいのか分からないらしく口ごもった。
「いいの、私が悪いんだから」
「そんな──小夜子さん、病院行こう」
「大丈夫だよ、すぐ消えるし」
「でも」
「やめて、ほんとにいいから!」
 小夜子がぱっと顔を上げて越智を拒むように一歩下がった。痣は痛々しいが、綺麗な女だ。
「病院なんか行けないよ。もし」
「紹介しましょうか」
 越智と小夜子が同時に哲を振り返る。
「保険証いらないところ」
「佐崎──」
「変なとこじゃないですから。心配ならお前ついてけよ」
 後半は越智に言う。越智は哲と小夜子を交互に見たが、小夜子は強く首を振った。
「駄目です、だって絶対訊かれるし──ごめんなさい、勇斗くん、じゃあね」
「小夜子さん!」
 慌ただしく立ち去る女を追いかけようとして躊躇った越智は、結局その場に突っ立ったままだった。
「越智」
「……え?」
「スマホに送っとく、住所」
「住所……?」
「診てくれっから、軽い怪我とか。俺の名前出していい」
「うん──ありがとう」
「追いかけろよ。俺は別に一人でいいから」
 暗い目をして頷く越智にかける言葉はなかったし、越智だって何も言われたくはないだろう。その場から動こうとしない越智の横をすり抜けて、哲は店のドアを開けた。

 

「こんな感じで──大丈夫そうかな」
 越智の兄は、越智とはあまり似ていなかった。面影があるのは癖毛とどちらかというと小柄だというところだけで、顔の輪郭から何からまったく違う。兄の方はがっしりしていて、いかにも若い頃はやんちゃをしていましたという感じの、目つきのよくない男だった。
 小夜子を殴ったのがこの男なのかバーテンダーの中山くんとかいう奴なのか知らないが、見た目だけで安易に判断するならこちらだろう。だからと言って哲が口を出すことでもなく、踏み込む気はまったくなかったが。
「はい」
「ウチ来る客で凝ったカクテル頼む奴なんかいないし、多分大丈夫。もしなんか言われてもヘルプなんでとかなんとか言って断っていいから」
「分かりました」
「俺あんまりいないけど、何かあったらあいつに言って」
 越智の兄が顎で指したあいつというのは一応ホール係らしい男で、小さい山と書いてコヤマと紹介された。年齢は越智の兄と哲の中間くらいに見える。バーテンダーが中山でこちらは小山、冗談のようだが、小山自身は冗談のひとつも言いそうにない顔をして、口の中で何かぼそぼそ言っただけだった。
 哲がここに来て着替え、簡単な説明を聞いてせいぜい十五分。越智の兄はさっさといなくなり、客もいない店内は哲と小山の二人きりになった。
「勇斗の友達?」
 のろのろとカウンターに歩み寄ってきた小山が声をかけてきた。
「高校んときの知り合いです」
「そうなんだ……バーテンダー経験者?」
「あ、いえ。そういうのはいいって言われたんで。普段は居酒屋の厨房です」
「マジで、すげえ。俺卵も割れねえ」
 小山は相変わらずつまらなさそうにしつつも、カウンターの椅子を引いて腰かけた。最初の様子は話をしたくなかったのではなく、オーナーである越智の兄貴がいたから、というだけのようだった。
「コンビニの牛丼に生卵ぶっかけてえなあってことないっすか?」
「生卵食ったらブツブツ出んだ、俺。なんかさ、料理好きだとモテそうで、いいな」
「全然ですね」
 思わず笑ったら、小山も笑った。陰気そうではあるが、嫌な感じはしなかった。
「ここは基本暇だよ。あんまり客来ねえし、来ても二人連れとかでたくさんは来ない」
「みたいですね。それで越智、あ、弟の方がちょっとだけ頼みたいって」
「うん、中山な」
 小山は頬杖をついて、カウンターの天板を掌で撫でた。何かの屑でもついたのか、顔をしかめて掌を払うと、誰もいない店内を見回した。誰かが隠れているわけでもないだろうに、振り返ってもう一度確認すると、小山は少し肩を落として溜息を吐いた。
「何か聞いてる?」
「何かって何です?」
「……」
 小山はちょっと顔を上げて哲を眺め、ほんの微かに目尻を下げた。見た目から受ける印象と人間性が必ずしも一致しているとは限らない。小山は違い、越智兄はそのまま。乱暴に言ってしまえば多分そういうことなのだ。
「俺が言うことじゃねえけど、さっき奥さん出てったタイミングで入ってきたしさ」
 頷く哲を見て、小山はもう一度、今度は長い溜息を吐いた。
「ばれたんだよ、中山とのことが、オーナーに。そんで」
 小山は指で自分の目のあたりを指す仕草をして見せた。
「中山が何で休むのかは知らねえけど……この前から休むって言って来たから別の理由なんだと思う。でもなんか、どうでもいいけど見る目ねえよな、奥さん」
「俺は何とも言えませんけど。中山さん知らないし」
「うん、だろうな。俺もよく知らねえんだけど。多分勇斗が一番いい。でも奥さんの眼中にねえんだもんな、かわいそうだけど」
「そうですか」
「欲しいものを手に入れたからって幸せになれないってすげえ、なんていうか、どうしていいかわかんないよな」
 確かにそうだ。グラスを用意しながら半ば上の空で頷いた。欲しいものを持っているから、だから幸せなのだとしたら、自分も幸せなはずだろう。だがそんな自覚はない。そして、臆面もなく哲をほしいという男。あいつだって、今いる場所は楽園とは程遠い。
「……そうですね」
「っていうか、俺は分かんないけど、そう感じんのかなって──あ、いらっしゃいませ」
 小山がスツールから腰を上げ、相変わらずだるそうに客を迎えに行って、それからはぽつりぽつりと客が訪れた。何となく小山と口をきく機会もないまま、哲のバイト初日は終わりを迎えた。