零度の情熱 4

「めちゃくちゃ助かる!」
 越智は顔を輝かせて言うと、哲の手を取り、選挙運動中の政治家みたいにぶんぶん振り回した。
「マジで! ほんとありがとう!」
「つーか越智、手がもげる」
「もげねえだろ! 佐崎の手だぞ! 何人病院送りにした手だよお前!」
 真っ昼間の定食屋のど真ん中、どでかい声で言うことではなかろうと思ったが、越智は気にならないらしい。案の定、隣のテーブルに座っていた会社員二人がぎょっとした顔をしてこちらを見たが、面倒くさいので気が付かないふりをしておいた。
「こら、いい加減手ぇ離せ」
「あー、悪ぃ! 兄ちゃんに連絡しとくな!」
「俺がドリンク作れねえってのもちゃんと言っとけよ」
 早速スマホを取り出した越智に言いながら胸の内で溜息を吐く。結局、数日ならバイトに入ってやってもいいと越智に連絡をしたのは今朝早く。越智と会ってからは数日経っていて、もういらないと言われることを少しだけ期待していたのだが、残念ながらそうはいかなかった。
 昼飯を奢るから出てこいと言われ、普段立ち寄ることはほとんどないオフィス街まで足を運んだ。越智の指定で少し時間をずらしたから定食屋は満席ではなかったものの、首からIDカードをぶら下げた老若男女の群れには若干怖気づいた。
 別に彼らは殴りかかってくるわけでもないし──そうされたら寧ろ安堵する──哲に対して何かしてくることはないのだが、どうにも異世界に紛れ込んだ感覚で心許ない。おまけに昔秋野にこういう格好をさせられ結局脱がされたなんてどうでもいいことまで思い出す始末で、なんとも落ち着かない気分だった。
「じゃあさ、後で日にちとか連絡すんな。初日は俺一緒に行くから」
「分かった」
「やーもう、マジ助かった」
「そうか」
「てか、いや、先に飯だな! ごめん、何頼む?」
 越智がメニューを取って差し出してきたからおとなしく目を落とす。日替わり定食、唐揚げ定食、鯖の味噌煮定食──哲はずらりと並んだ定食から適当に選んでメニューを返し、越智が二人分の注文をする間、ぼんやりと店の中を見回した。
「混んでんな」
「ああ、うん。安くて何食っても結構いけるからいつも混んでんだよな」
「……こういうとこなら分かんだけど」
「ん?」
「兄貴の店、暇そうじゃねえか。バイト、いるか?」
「あー……」
「言いたくねえならいいけど」
 越智は水の入ったコップに手を伸ばし、持ち上げては置き、ということを三回繰り返してからようやく哲に目を向けた。
 今日の越智は淡いピンクのワイシャツにグレーのパンツ、当然だが会社員仕様だった。首からぶら下げたIDカードの写真は真面目な顔でこちらをじっと見つめているが、本物の視線はすぐに逸らされ、コップから垂れテーブルに溜まった水滴に向けられていた。
「バイトくん、いたじゃん」
「バーテンダー?」
「そう。中山くんつーんだけど」
 越智は言葉を探しているのか暫く黙り込み、話を再開する前に定食が運ばれてきた。とりあえず目の前の飯に手を付け始めた哲を眺め、越智も味噌汁の椀を手に取った。
「もう少し熱いといいのにな」
 味噌汁を啜りながら哲が言うと、越智は頷き、鯖味噌を箸で割りながら口を開いた。潜めた声は、隣のテーブルには聞こえないくらい低い。
「兄貴の奥さんとさ、中山くんが浮気してんの」
「……ふうん」
 はっきり言ってどうでもいい情報だが、関係あるのだろうから頷いておく。
「そんで、中山くんはなんか借金があるみてえなのな。部屋に借金取りが来るとかって。で、職場にも来んじゃねえかって、小夜……兄貴の奥さんが心配してて」
 鯖の小骨をつまんだ箸先が微かに揺れる。くるくるの巻き毛が隠した目許の表情がどんなものかは分からない。だが、何となく分かることはそれでもあった。
「一週間くらい──とりあえず休ませたいって。だから、もしかしたらなんかそういう人が来るかもしれねえけど、本人がいなきゃどうしようもねえだろ? だから、いないって言ってくれればいいし」
「そうだな」
 味噌汁は少しぬるいが、飯は美味かった。越智がつついているだけの鯖味噌が皿の上でほろほろ崩れるのを眺めながら、生姜焼きを口に突っ込む。
 越智がどういう気持ちで、誰の助けになりたいのかはどうでもよかった。顔を見てもすぐに思い出せない程度の知り合いだ。どういう人生を歩んできてどんな人間になったのか、何も知らない。兄貴という人も、その妻も、この間見かけたバーテンダーも、哲にとってはまったくの他人だった。
「まあ、暇だから」
 ぱっと顔を上げた越智と目が合う。
「別にいいけど」
「……俺」
 越智はようやく小さく崩れてしまった鯖を口に運び、慌てたように何度か咀嚼しただけで飲み込んだ。
「佐崎のこと、顔見知りだけどよく知らねえじゃん」
「ああ」
「昨日連絡したら、野村がさ……お前のこと、別にいい奴じゃねえけどまともだって」
「なんだそりゃ、あの野郎。誉め言葉か」
 野村とは今でも年に数回くらいは飲んだりする。ヤクザ紛いの生活に足を突っ込んでいない、数少ない同級生だ。もっとも、完全に一般人かと言えばそうでもないが。
「だから俺」
「いいって、関係ねえから」
「佐崎」
「昼休み何時までとかあんじゃねえの? さっさと食え」
 越智は頷き、ようやく飯を食い始めた。哲は押し黙ったままの越智と差し向かいで定食を平らげて──哲からしてみれば──華やかな会社員たちの世界から退散した。

 

「それで何で俺のとこに? 佐崎くん」
「はい」
 越智と飯を食った後、その足で哲が向かったのは輪島の店だった。勿論開店までは時間があるが、輪島は店の上で寝起きしている。連絡してみたらいるというので寄ってみた。勿論飲みに行ったわけでも、怪我をしたわけでもない。
 簡単なものでいいから定番のカクテルの作り方をいくつか教えてもらえないかと言うと、輪島は驚いた顔をした。
「俺は飲み屋の親父で、バーテンダーじゃないよ」
「分かってますけど、輪島さんなら作れるんじゃないかって、何となく」
 輪島を訪ねたのは、簡単なカクテルの作り方くらいは教えてもらえるのではないかと思ってのことだった。輪島の店で出すのはビールや日本酒、焼酎や梅酒だが、輪島ならそれ以外も作れるような気がしていた。
 医者から飲み屋の親父への転身なんてあまり聞いたことがない。色んな人生があるから皆無ではないのだろうし、哲が知らないだけで案外例はあるのかもしれない。だが、飲食店でバイトした経験すらない人間が突然立ち飲み屋をやろうなんて思わないものだ。
 それに、外科医だった輪島は多分器用だ。酒を混ぜ合わせるというのは医学より薬学、化学や科学かもしれない。だが、哲が解錠と料理に似通ったものを感じるように、まるで共通点がないとも言い切れないのではないだろうか。
 手指を駆使する職業なのは哲も同じ。何となく、としか言えないが、大きく的を外してはいない気がした。
「……秋野から何か聞いた?」
「何も聞いてませんけど」
「そうなんだ。じゃあ何でそう思うの?」
 輪島は目尻に微かな皺を寄せて微笑み、煙草を銜えた。私服の輪島は初めて見るが、店に出ている時の格好と大差なかった。だが、同じ店内でも夜と昼では見え方が違うせいか、小さな飲み屋の親父というよりは休みの日の医者、と呼ぶほうがしっくりくる気はした。
 哲は、ここに来ようと思った理由を口にした。
「医者から飲み屋に転職って、俺の知り合いにはいなくて」
「んー、まあ、俺も知らないね」
「飲食店とかって、やっぱり経験ないとやろうって思う人少ないですよ。そりゃ中には未経験から始める人もいるでしょうけど」
 灰皿を差し出されたので、哲も遠慮なく一本銜えて火を点けた。輪島の吐き出した煙は昼間の日差しに溶けて消えるように見える。夜の店の中で重く流れるそれとは、まるで違うもののようだ。
「つーことは、輪島さんは学生んときに飲み屋でバイトしてたんじゃねえかなって。それに、外科医だったんすよね? そんならカクテル作るとか、そういう作業得意な気がしたんです」
「──外科医はぶった切るのが仕事だって言う人もいるよ」
 ゆっくり煙を吐きながら、輪島は小さく首を傾げた。確かに、彼らは皮膚にメスを入れ、肉を切り開いて身体の中を覗き込む。
「確かにそうかもしれませんけど」
「うん」
「切って、バラして……でも、その後組み立ててくっつけんですよね?」
「……」
「それってぶった切る、ってのとは違うんじゃないですか」
 哲が返すと、輪島は数度瞬きして、突然笑い出した。
「いや──」
「はい?」
「確かに、バイトしてた。学生の時ね。しかもバーテンダー」
「マジっすか」
「マジっすよ。いや、いい選択したよ。佐崎くんも」
「も?」
「秋野もね」
「……」
 余程嫌な顔だったのだろうか、輪島はおかしそうに肩を震わせ、宥めるように哲の肩を何度か叩いた。
「いいよ、教えてあげる。その代わり報酬は秋野との馴れ初め話」
「……馴れ初めなんかありませんけど」
「じゃあ今現在の話でもいいよ」
「ええと、やっぱり急用が」
「それはなしだね。佐崎くんから来たんだからね。ほら、始めるよ」
 哲は首が折れるほど項垂れて、カウンターの向こうから手招きする輪島に笑われた。